■がむばれ!コルダーズ! 【その2・いんびてーしょん in うぃーん 前編】
おれがウィーンに拠点を移してから約1年、ついに待ちに待った時がやってきた。
── 星奏学院を卒業した日野さんが、ウィーンに留学する。
その知らせを受け取った時、携帯を握るおれの手は喜びのあまり震えていた。
こちらに来る日程なんかもメールには書かれていたけれど、ちょうどその頃は演奏活動でヨーロッパ各地を回っている時で、空港へ迎えに行くことができなかった。
それどころか、こちらの語学学校でドイツ語を学びながら学校が始まるまでの間ひとりヴァイオリンの練習をする、という生活をしているであろう彼女とは、まだ一度も会えていない。
彼女が日本を発ったのは春の終わり。
そして今は、夏真っ盛りを迎えようかという季節だ。
── 海外でひとりきり……きっと心細い思いをしているに違いない。
学院の先輩として、ヴァイオリンの先輩として、そしてウィーンの先輩として、彼女の力になりたいのに……
おれを取り巻く環境が、彼女の元へ駆けつけることを許してくれないことが悔しかった。
そんな時、1通のメールが届いた。
それはもちろん日野さんから。
『今度の土曜日、よかったらうちにご飯を食べにいらっしゃいませんか?
学校が始まると忙しくなると思うので、ヒマな今のうちに(笑)
ご都合はいかがでしょうか?』
スケジュールを確認すると、前日の金曜日がウィーンでの公演で、土曜から1週間はオフ。
よかった、やっと日野さんに会える!
すぐさま返事を送信すると、待ち合わせ場所と時間が書かれたメールが返って来た。
おれの携帯を持つ手が小さく震えてる。
お土産に何を持っていこうか?
女の子だし、甘いものがいいのかな。
食事が済んだら、どこへ行こう?
古楽器博物館を見た後、森で散歩── 思い描いていたことが現実になる。
でも、どこにも行かずに彼女とずっと話していたい気もする。
そうだ、ヴァイオリンを持って行って、久しぶりに音を合わせるのもいい。
おれは心が高ぶるのを抑えられなかった。
遠足の前日の子どもみたいにはしゃぎ、コンクールの前日よりも緊張している自分が可笑しくて、いつまでも笑いが止まらなかった。
* * * * *
日野さんに待ち合わせ場所として指定されたカフェハウスは、おれのアパートから歩いて10分ほどの場所にあった。
彼女のアパートから一番近くて一番目立つ場所、らしい。
こんなに近くにいたなんて── もっとも、おれの方がウィーンを離れていることが多かったんだけれど。
11時半の約束だったけれど、時計を見ればまだ11時を少し過ぎたばかり。
せっかくのカフェだから、日野さんが来るまでの間、おれはオープンテラスでコーヒーを楽しむことにした。
ウィーンの街並み、通りを行き過ぎる人々── コンクールで訪れた時、この街を見せてあげたいと思っていた彼女本人が、これからここにやって来る。
踊り出しそうなほどにわくわくする心をなだめるようにカップを傾ける。
コーヒーの香ばしい香りはさらに豊かさを増し、砂糖もミルクも入れていないのになんだか甘く感じられて。
テーブルの上にちょこんと乗ったケーキショップの箱── お土産に買った定番のザッハトルテ── が、おれの笑みを誘う。
カップの中身を飲み干し、時計を見れば11時25分。彼女が来るのも、もうそろそろかな。
「── 王崎先輩…?」
「え…」
思いも寄らない声に振り返る。そこにいたのは──
「あ……月森…くん?」
そうだった── 音楽一家に生まれた彼は、星奏学院高等部の2年生を終えた時点で留学を決め、おれと同時期にはこのウィーンに来ていたのだ。
「お久しぶりです、王崎先輩」
「本当に……久しぶりだね。元気だった?」
「はい、おかげさまで。先輩も── 先輩のご活躍は常々伺っています」
「はは、ありがとう」
この土地の水がよほど合っているのか、微笑む彼は日本にいた頃よりも穏やかで、とてもいい顔だ。
「ところで月森くん、きみもこの辺りに住んでいるの?」
「ええ、すぐ近くです」
「そうなんだ、おれのアパートも割と近くなんだ。意外とご近所さんだったんだね。…あ、今からお出かけなのかな?」
「いえ、日野に頼まれて、先輩を迎えに」
「え…?」
ここで月森くんに会ったのは偶然だと思っていた。
けれど、日野さんの名前を出した彼の顔に浮かぶ苦笑まじりの笑みには、わずかな困惑と多くの容認が入り混じっていて
── 彼女との距離の近さを突きつけられたような気がした。
考えてみれば、同級生で同じ楽器で同じ留学先、交流があってもおかしくない。
その上、同じ学内コンクールに出て、アンサンブルコンサートをこなしてきた彼らの結びつきは強い。
おれだって、コンクールの時の仲間たちとはいまだに連絡を取り合っているくらいだから。
きっと彼女は留学するに当たって、彼に相談したりアドバイスを受けたりしていたんだろう。語学の堪能な彼に、生活面でもサポートしてもらっているのかもしれない。
相談くらい、いくらでも乗ってあげたのに……そう思うけれど、おれはコンクールからいきなり仕事を始めてしまったのだから、留学経験があるわけではない。
ここでの生活について教えてあげられても、学校のことでアドバイスできることは何もないんだ。
わかっていたはずのことだけれど、おれはひどく動揺していた。
「今日は……きみも日野さんに食事に誘われて…?」
「ええ、まあ」
月森くんのはにかんだような笑み。
ああ、やっぱり。いくら近くに住んでいるからって、道案内だけさせて、っていうことはないと思ったんだ。
「……じゃあ、行きましょうか」
「そ、そうだね…」
目指す日野さんのアパートは、カフェのある通りから1本入った裏通りに面していた。
徒歩でものの1分、さっきまでいたカフェの真裏にある、割と最近建ったと思われる5階建ての建物── 確かに一番近い。
月森くんは迷うことなく進み、エレベーターに乗り込むと迷わず『3』のボタンを押す。
エレベーター独特のグッと内臓を押さえつけられるような感覚の後、すっと開いた扉を出て廊下を進んでいく。おれは月森くんの後をついていくしかなかった。
廊下の一番奥、『303』と書かれたドアの前で止まった月森くんは、何気ない仕草でドアチャイムを押す。
ガチャリと重い音を立てて扉が開き──
「月森くん、ご苦労さま! 王崎先輩、いらっしゃい! お久しぶりです!」
── ずっと会いたくて仕方なかった日野さんの元気な笑顔が、そこにあった。
* * * * *
どうぞ、と促され、月森くんに続いて短い廊下を抜けた先の部屋を見て、おれは驚いた。
15畳ほどの広い部屋。奥に大きな窓。
片方の壁にはクロゼットの扉と普通のドア。もう片方は天井まである作り付けの棚とドア。ドアのひとつはサニタリーだろうから、もうひとつは普通の部屋だろう。
確実に、おれが借りているアパートよりも広い。
音楽院生のための部屋というよりも、音楽を生業とする人が家族で暮らす部屋のようだ。
作り付けの棚の前に寄せられている── きっと普段はもっと手前に置かれているんだろう── コンパクトタイプのグランドピアノ。
彼女の通う音楽院には、副科があるのかな?
土足生活にまだ慣れなくて、と笑う彼女が置いてくれたスリッパに履き替える。
部屋の中央には深いグリーンのラグが敷かれ、ゆうに6人ほどが座れる大きなテーブルが置かれていた。
パステルイエローのギンガムチェックのテーブルクロスが日野さんらしくて、とても可愛らしい。
「適当に座っちゃっててください♪」
白いカットソーにデニムのミニスカートというラフなスタイルで、前に会った時よりも伸びた髪を後ろでひとつにまとめ、
彼女の身体には少し大きめの真っ赤なエプロンを着けた日野さんは、廊下側の壁際にあるキッチンへと向かう。
キッチンでは、大きな寸胴鍋がほわほわと湯気を立てていた。
その後ろ、壁に寄せて置かれた2人用の小さなダイニングテーブルの上には、お皿やグラスが置かれていて。普段はきっと、そのテーブルで彼女は食事を取っているに違いない。
なんだか── すっかりウィーンでの生活を楽しんでるみたいだな。
コンクールの頃からそうだったけど、彼女のバイタリティには感動すら覚えてしまう。
ふたりきりではなかったのは少し残念だけど、元気な彼女の姿も見られたし、今日のところは日本人ヴァイオリニスト3人っていうのもいいかもしれない。
先に座っていた月森くんの隣に腰を下ろし、
「あ、日野さん、これ、お土産。ザッハトルテなんだけど」
渡しそびれていたケーキの箱をテーブルの上に差し出した。
「わ、ありがとうございますっ! 食後のデザートにしますね」
ニコニコ顔の日野さんは箱を大事そうに抱えると、冷蔵庫の中に収めた。
持ってきてよかった、喜んでくれたみたいだ。
キッチンでくるくると忙しく動き回っている日野さんの後ろ姿を見ながら、月森くんと近況報告なんかをしつつ── 彼はここから歩いて5分ほどのアパートに住んでいるそうだ── 、
改めて部屋の中を見回した。
……あんまりジロジロ見るのは失礼だとは思ったけれど。
余計なものが置かれていない、実にシンプルな部屋だ。
壁に作りつけられた棚にはたくさんの楽譜にメトロノーム。
伏せられたフォトスタンド── 掃除の時にでも倒してしまったのかな?
それからCDやDVD、ミニコンポ。テレビの上にはつい最近見たのだろう、何かのDVDのパッケージがひとつ無造作に置かれていた。
その傍には2人掛けの黒いソファ。中央のスペースを広くするためか、小さなガラスのテーブルと一緒に壁際にぴたりと寄せられている。
ピアノの傍にはヴァイオリンケースが2つ。新しいヴァイオリンを手に入れたんだろうな。
* * * * *
と、日野さんが壁の時計を見上げて、そろそろかな、と呟いた。
直後、ドアチャイムが鳴り響き、彼女はパタパタと軽快な足音を響かせて玄関に向かっていく。
「はーい! ── きゃーっ、加地くん久しぶりっ! どうぞどうぞ、上がって!」
え……加地くん…?
日野さんに先導されて姿を現したのは、紛れもなく加地くんで。
「やあ、月森。王崎さん、お久しぶりです」
「…ああ」
「ひ、久しぶりだね、加地くん」
「ふふっ、王崎さん、そんなに不思議そうな顔しなくても」
「あ…、ごめん、本当に驚いてしまって……」
だって、ウィーン在住の月森くんだけでなく、日本にいるはずの加地くんにまで会うとは思わなかったから。
「僕は大学の夏休みを使って、1週間のウィーンひとり旅ってところです。ああ、こっちにいる間は月森のアパートにお世話になるんですけどね」
肩をすくめて、屈託なく笑う加地くん。
ああ、やっぱり同級生っていいな。
……どうしておれは彼らよりも早く生まれてきてしまったんだろう。
そんなことを悔やんでも、どうしようもないことなのに。
スリッパに履き替えた加地くんは、手に持っていた小振りの旅行カバンからどこかの店のロゴの入ったビニールの袋を取り出した。
あれ…? 加地くんのカバン、いくら今が薄着の季節で宿泊先が月森くんの部屋だからといって、1週間の旅行にしては小さすぎるけど……。
「はい、これ、お土産。ここに来る途中で調達したもので申し訳ないけど、日野さんはこの銘柄が好きって聞いたから」
「あっ、うん、そうなの! わぁ、ありがとう!」
「よかった、喜んでもらえて」
加地くんから日野さんに受け渡されたのは── ワインのボトル。
「で、こっちはシャンパン。僕たちの再会を祝して、ね」
「わー、太っ腹〜♪ あ、これ、加地くんが好きって言ってたヤツじゃない?」
「ふふっ、覚えててくれた?」
「そりゃあもう」
「あの、きみたち……まだ未成年、だよね…?」
思わず口を挟んでしまった。海外にまで来てこんなことを言うのも無粋なのかもしれないけれど、ここにいる唯一の成人としてはやはり言わなくてはいけないと思ったから。
「まあまあ、硬いこと言わないで」
「あははっ、加地くんちに集まると必ずお酒が出てきたもんね〜。先輩、月森くんってね、意外と酒豪なんですよぉ〜」
「ああ、月森の送別会の時!」
「そうそう!」
「………」
すっかり盛り上がってしまった日野さんと加地くんを、月森くんは少し赤らめた顔で睨んでいた。
本当に……仲がいいんだな。
「あ、日本からのお土産はスーツケースに入ってるから、少し待ってね」
「やだ、気を遣わなくていいのに。で、そのスーツケースと『ご案内係』は?」
『ご案内係』……?
また新たな人物の登場だ。たぶん加地くんを空港まで出迎えに行った人物だろう。
まさか隣人に頼むということはないだろうし……ああ、もしかすると日野さんにはルームメイトがいるのかもしれない。それならこの広い部屋に住んでいるのも頷ける。
ピアノがあるということは、コンクールで彼女の伴奏をした森さんあたりかもしれないな。
「うん、下のエントランスで足止め。恰幅のいいおばさんに捕まってるよ」
「あ、それ、管理人のマリアだ。息子さんが日本に留学したことがあるらしくてね、すごく親切にしてくれるんだよ〜」
「へぇ、それは心強いね」
「うん、とっても」
にっこりと笑う日野さん。
彼女がこの異国の地で元気なのは、こんな環境に恵まれているからかもしれないな。
と、ガチャリと玄関の扉が音を立て、ガラガラと重い音が響いてくる。
「── ただいま」
大きなスーツケースを引きずりながら姿を現したのは── 土浦くんだった。
【2008/02/29 up/2008/04/07 改】