■旅路の果てに掴むもの【9:膨らむ想い 〜The past days〜】 龍馬

 剣術の稽古を終えた龍馬は、千葉家の中庭の方へと回り込んだ。
「── やあ」
「あ、お疲れさまでした、龍馬さん」
 龍馬の姿を見るなりふわりと笑った彼女は、そのまま家の中へ引っ込んでしまった。 決して避けられたりしているわけではないと知っている龍馬は、中庭に面した濡れ縁にどかりと腰を下ろす。 そしてそう時間が経たないうちに、盆を持って彼女が戻ってくるのだ。

*  *  *  *  *

 千葉家への出入りを許された龍馬は一日も欠かさず道場に通い、その度に彼女に会いに行った。
 最初のうちは緊張もあったのか、藩邸に戻って考えてみると何を話したのか覚えていなかった。 恐らく稽古中のことや、土佐でのことを一方的にしゃべっていたのだと思う。
 数日も経つと妙なぎこちなさが抜け、心に余裕が出てきた。 そうすると、彼女がすばらしい聞き手だということに気が付いた。 ずっと微笑みながら話を聞いていた彼女は、いいところで合いの手を入れてくれる。 だから龍馬は気分良く話し続けられるのだ。
 残念なのは、彼女からの話を聞けないことだった。 無理に聞き出すつもりはない。 彼女は怨霊に襲われ、記憶を失っていると聞いた。 話したくても話せない、というのが実際のところなのだろう。
 だから龍馬は、彼女がどこで生まれ、どこで育ち、どうしてここにいるのかをまだ知らない。
 しかしそれはとても些末なことだ。 龍馬にとって、今ここにいる彼女がすべてなのだから。
 それから、こうして一緒に過ごすようになって気付いたことがある。
 話に興が乗ってきて、ついつい砕けた物言いをしてしまい、慌てて言い直すと彼女は少し淋しそうな顔をするのだ。 しばらくしてまた少し馴れ馴れしい口調になってしまうと、彼女は嬉しそうに笑っている。
 かしこまった話し方だと相手との距離を感じてしまう。 親しい間柄の相手とは、身構えることなく気楽に話したいものだ。 彼女も自分と親しくありたいと思ってくれているのなら── こんなに嬉しいことはない。
 龍馬はいつも彼女が笑ってくれるように、楽な口調で話すことに決めた。
 だが困ったのは名前である。
 『ゆきお嬢さん』は『ゆきお嬢さん』であり、今更『ゆきさん』『ゆきちゃん』なんて呼べないし、突然『ゆき』と呼び捨てにするのもどうかと思う── 呼んでみたいのは山々ではあったが。
 そんなことを考えていたある日のこと、千葉家の濡れ縁で待っていた龍馬に彼女がお茶を入れてきてくれた。 妄想めいたことを考えていた罰の悪さに頭の中が真っ白になった龍馬は、何も考えることができずに湯飲みをがしりと掴んだ。
「あっちぃ!」
 手のひらの余りの熱さに思わず湯飲みを手放した。 湯飲みは龍馬の膝にぶつかり熱いお茶をぶちまけてから地面に落ちて、カシャン、と軽い音を立てて砕け散った。
 弾かれたように縁側から立ち上がり、びっしょり濡れて湯気を上げる袴をバサバサと振っていると、慌てて部屋に駆け込んだ彼女が手拭いを数枚掴んで戻ってきた。
「大丈夫ですか、龍馬さん !?  これで拭いてください」
「や、す、すまん、お嬢──」
 『お嬢さん』と言おうとして、思わず言葉を飲み込んだ。 手の中に布の感触と柔らかい温もりがあった。 差し出された手拭いと一緒に彼女の手まで掴んでいたのである。
 このまま手を放してしまうのは惜しい── 咄嗟にそう思ったのかもしれない。 手拭いごと握り締めた彼女の手を放すのも忘れ、おずおずと表情を窺ってみる。
 不快そうに歪められていることを想像していた彼女の顔には、何かを懐かしむような嬉しそうな笑みが浮かんでいた。

*  *  *  *  *

「── どうぞ。 熱いですから、気をつけてくださいね」
「おっ、いつもありがとうな、お嬢」
 最初は偶然だった『お嬢』という呼び方も、今ではすっかり定着した。 呼んでみるとやけにしっくりくる気がするし、彼女もそう呼ばれるのが嬉しいらしい。
 しばらく前の出来事を思い出して苦笑しながら、彼女が置いた盆の上からそっと湯飲みを取る。 ふぅふぅと息を吹きかけてから茶を一口啜った。
 彼女の淹れてくれるお茶は、いつも格別に美味い。 そばに微笑む彼女がいてくれるなら尚のこと。
 こうして庭を眺めながらのんびり話をするのもいいが、そろそろ二人でどこかに出かけてみたいと思った。 もちろん怪我が治ったばかりの彼女の体調を考慮しなければならないが。
 藩邸に戻ったら江戸に詳しい誰かにどこかいいところはないか聞いてみよう、と考えながら、二口目の茶を喉に流し込んだ。

*  *  *  *  *

 龍馬はしばらくの間、千葉道場へ通うことができなくなってしまった。
 鎖国する日本に開国を迫るべく来航したアメリカ船── 黒船が江戸湾で大砲を何十発も撃った。 アメリカ側からあらかじめ通告があった上、撃たれたのは空砲ではあったのだが、江戸に滞在する全ての土佐藩士は有事に備え藩邸で待機、あるいは警備に就くよう命じられたのだ。
 十日ほど経つと、黒船は日本の開国に一年の猶予を与え、江戸湾から去っていった。 ようやく龍馬は藩邸での緊張した息の詰まるような日々から解放されたのである。

「── やあ、お嬢。 元気にしてたかい?」
「あっ……龍馬さん」
 中庭の掃き掃除をしていた彼女は、久しぶりに千葉家を訪れた龍馬をやはり笑顔で迎えてくれた。 じんわりと胸が温かくなってくる。
 もしこれが『ただいま』『おかえりなさい』なんてやり取りだったらどんなにいいだろう── 最近、そんな想像をすることが多くなった。
 だらしなく緩みかけた口元を慌てて引き締めて、今日の用件を切り出す。
「お嬢、これから時間は取れるかい?」
「はい、いいですよ」
「じゃあ、一緒に行こうぜ。 お嬢に見せたいものがあるんだ」

 彼女と出会って三ヶ月。 連れ立ってあちこち出かけているうちに、龍馬はすっかり江戸通になってしまっていた。 ここで生まれ育った者たちにも負けないくらいの知識が身についているかもしれない。
 けれど今、二人が立つのは浜辺。 目の前には果てしない海が広がっている。
「あの、龍馬さん……ここは…?」
「ここにはな……少し前まで黒船が停泊してたんだ」
 交代で監視に来た時に見た、少し沖に浮かぶ大きな船の姿は今でもはっきりと思い出すことができた。  今日の龍馬は、彼女と一緒に出かけたい、というよりは、衝動とも言えるほどにまで膨らんだ思いを知ってほしかった。 だからここに彼女を連れて来たのだ。
「── 今、こうしている間にも、幾百、幾千の黒船が世界中の海を往来している。 この海の向こうには、途方もなく広い世界が広がってるんだ──」
 この国が鎖国だなんだと小さなことを言わず、大きく海外に開いた国だったなら── 貿易も盛んに行われ、行き来する船に乗せてもらって自由に外国を見て回ることだってできるのに。 考えても詮無いことに、ついつい思いを馳せてしまう。
「── 黒船に興味があるんですね」
「ああ、もちろんさ!  黒船だけじゃないぜ?  あんな船を作れちまう外国のこと、黒船が積んでる大砲もだ。 お嬢も音を聞いただろ?  すごかったよな!  一体あれはどうやって撃ってるんだろうな。 もう知りたくてたまらんぜ!」
 気づけば彼女は海の方を見つめながら、難しい顔で何やら考え込んでいた。
 しまった、少々興奮しすぎてしまったか。 考えてもしょうがないことで大騒ぎして、彼女を困らせてしまったかもしれない。 詫びの一言を、と龍馬が考えたその時、彼女は口を開いた。
「── 大砲のこと、私が詳しく知ってたらよかったのに……」
「……お、お嬢…?」
「だって、私が大砲のことを知ってたら、今すぐ龍馬さんに教えてあげることができたんだもの」
 悔しそうに少し唇を尖らせながら、彼女は言う。 可愛い顔を曇らせて何を考えているのかと思えば、そんなことを考えていたなんて。 なんだか笑いがこみ上げてくる。
「ハ……ハハハッ、お嬢は面白いことを言うなぁ」
「だって、黒船に乗ってる人も、最初は誰かに大砲のこと教わったんでしょう?  知りたかったら、教わればいいと思います。 龍馬さんに大砲のことを教えてくれる人、誰かいませんか?」
「誰か、って……さすがにそんな人間の心当たりは── いや、待てよ」
 そういえば、江戸には砲術を教える塾があると誰かに聞いたことがある。
「── だったら、そこに行って習ってみれば、すっきりすると思いますよ」
「え……」
 心の中で考えていたつもりが、しっかりと口に出していたらしい。 それよりも、事もなげにそんな風に言う彼女にも驚いた。
「す、すっきりって……」
「だって龍馬さん、居ても立ってもいられないって顔してるんだもの」
 口元を手で押さえ、くすくすと笑っている。
 闇の中に光が射した── いや、違う。 闇だと思ったのは目を瞑っていただけのことで、目を開けてみればそこは明るく開けているのだ。 それを彼女はいとも簡単に気づかせてくれた。 じんわりと胸の奥が熱くなってくる。
「……………………ハハッ、言われちまった!  そうだよな、もやもやを溜めこむのはいかんよな!」
 この時、龍馬は決意していた。 剣術修行と並行して、砲術も習いに行く。 知りたければ教えを請えばいいだけのこと。 知識欲は今にも弾けそうなほどに膨らんで、すぐにでも駆け出したい気分だった。
 だが、龍馬の心の中を大きく占めている想いがもうひとつある。 もっともっと修行して、自分に自信が持てるようになった時にこそ伝えようと考えている想いが。
 ── だが、すぐそこに悲しい別れが迫っていることを、龍馬はまだ知る由もなかった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 今回、過去話です。
 ゲーム中のゆきちゃんの「りぴーとあふたーみー」的な誘導がイマイチ気に入らなかった
 ので、自然とこうなったよ的妄想に置換してみました。
 お嬢呼びにもゆきちゃんが関わってて、龍馬さんが象山先生に入門したのにも
 ゆきちゃんが関わってる。
 なんかそれってすごいことなのかもしれないと思いました(笑)

【2011/06/17 up】