■旅路の果てに掴むもの【6:龍神の神子】 龍馬

 京に来て数日、龍馬はまだ師・佐久間象山に会えずにいた。
 こちらは新選組の追捕の網をかいくぐりながら京に潜伏する浪人の身、片やあちらは一橋慶喜公の要請を受けて上洛した学者先生である。 さらに言えば、龍馬が象山に師事していたのは十年前の数ヶ月間で、そのうち直々に教えを受けたのはものの数回。 こちらは師と仰いでいるが、あちらにこんな弟子がいたという認識があるかどうかも定かではない。
 面会できるように手を回してくれているのはもう一人の師・勝 海舟ではあったが、多忙な象山をなかなか捕まえることができずにいるのは勝自身もまた多忙なせいなので仕方のないことかもしれない。
 龍馬にはもう一人会いたい人がいたが、そちらはどこに腰を落ち着けているのかわからなかった。 連絡の取りようがないから、こうして京の町をうろうろしてみる。 同志たちには『危険だから出歩くな』とたしなめられるが、堂々としていると意外と平気なものである。 もちろん周囲の気配には怠ることなく警戒しているが。
 連絡待ちと遭遇待ちという中途半端な暇を持て余しつつ、龍馬は馴染みの飯屋で昼餉の真っ最中だった。 宿にしろ飯屋にしろ、一度馴染んでしまえば好意的に受け入れてくれる。 それが悪事を働く不逞浪士や『人斬り集団』と恐れられている新選組と比較しての相対的な好意だとしても、こんなご時世ではそれはそれで構わないと龍馬は思っていた。
 もぐもぐと口を動かしながら、目は皿の横に広げた本の上を彷徨っている。 横書きの妙な形の文字が書かれているのは、操練所で使っている英語の教本だ。
「── へえ、そりゃ本当か?」
 ふいに耳に入った声に意識が削がれた。 後ろの席で昼餉を楽しむ浪人たちの会話だった。
「先だって二条城の近くに怨霊が出たらしいんだが、その龍神の神子とやらが影も形もなく怨霊を消しちまったそうだ」
「信じられねえな……眉唾もんの話じゃないのか?」
「いや、間違いなくこの目で見た、って奴から聞いた話だ。 お供を連れた若い娘だったらしいが……」
「龍神の神子様ねぇ……まあなんにせよ、怨霊がいなくなるってんならありがたい話だ」
「ああ、違いねえ」
 下品な笑いで盛り上がる浪人たちの話の内容は、ここ最近あちらこちらで龍馬の耳にも届いている内容だった。
 怨霊は、余程力の弱いものでもない限り、少々傷を与えた程度では滅びることはない。 どういう理屈かは知らないが、動きを止めていた怨霊はそのうちまた活動を始め、再び人を襲う。 その怨霊が綺麗さっぱり消えてしまうのなら、それは確かにありがたい話なのだろう。
 だが、浪人が口にした『お供を連れた若い娘』という言葉が龍馬の胸に引っ掛かった。 何故だか彼女の顔が思い浮かぶ。 まさか、と頭を振って、その考えを振り払った。
 ふと、胸元に触れてみる。 かさり、と軽い微かな音と、薄く硬い感触が手に触れた。
 背後の浪人たちが勘定を済ませて店を出ていく慌ただしさに、龍馬は物思いから引き戻された。 自分まで追い立てられているようで、急いで残りの飯を口の中に掻き込む。
「── あれ?  龍馬さん?」
「ん、んぶっ !?」
 浪人たちと入れ違いに店に入ってきたのは、たった今思い浮かべた顔。 驚いた龍馬は口に入れた飯粒を喉に詰まらせた。
「大丈夫ですか !?」
 詰まりをどうにかしようと胸を拳で叩いていると、口元に湯飲みが宛がわれた。 柔らかい感触ごと湯飲みを掴んで、すっかり冷めたお茶を喉に流し込む。 苦しさから逃れて一息つくと、さすられる背中が心地よくて、龍馬はもう一度息を吐いた。
「あ、あの……?」
「ん?」
 困惑した顔で横から覗き込んでくる彼女。 気づけば龍馬は湯飲みを持つ彼女の手を掴んでいた。 お茶を飲ませてくれた彼女が、空いた手で背中をさすってくれていたのだ。
「ぬわっ !?  す、すまんっ!」
 パッと手を開いて彼女の手を解放する。 いいえ、と微笑んだ彼女は手を掴まれていたことを気にした様子もなく、そっと湯飲みを置いた。
「ゆきは何にする?」
「うーん……都と同じでいい」
「了解♪」
 何にするかなー、と呟きながら壁に貼られた品書きを見る都の横で、前と変わらぬ鋭い視線を送ってくる瞬の姿にギクリとしつつ苦笑する。 そしてもう一人、意志の強そうな目をした赤毛の少年がいた。
「へぇ、初めて見る顔がいるな」
「はい、チナミくんっていうんです。 今、私たち、探し物をしてるんですけど、チナミくんも手伝ってくれてて」
 自分の名前が聞こえたからだろう、振り返った少年と目が合った。 よろしくな、と声をかけると、チナミは律義に頭を下げた。
 勧めようと思っていた隣の席に腰を下ろした彼女が寄り添うように近づいてくる。 ドキリとして身を離すと、どうやら彼女の興味の向かう先は皿の横に広げている教本だったらしい。
「あれ……英語の本?」
「お?  お嬢は英語がわかるのかい?」
「え……はい、一応」
「ほう、そりゃあ大したもんだ。 この本はな、海軍操練所で使ってる教本なんだ。 載ってるのは船を動かすために必要な英語だけで、普通の会話はさっぱりだがな」
 ははは、と笑い飛ばすと、彼女はくすっと笑みを漏らす。 その笑みが、ふっと蝋燭の火を吹き消したように一瞬にして消え、曇り顔に変わった。
「……こうして外国のことを勉強している人もいるのに、どうして攘夷運動が起きるんでしょうか?」
 がたん、と音がして振り返る。 さっきまで浪人たちがいた後ろの席に座った彼女の連れ三人のうち、何故かチナミがぎゅっと唇を噛んで拳を握り締めていた。
 彼女が口にした疑問は、とても単純でありながら、この国が抱える大きな問題でもあった。
「そりゃあ、立場の違いだな。 現状に不満のある奴は外へ目を向ける。 今まで甘い蜜を吸ってきた奴は内に籠ろうとする。 その蜜が腐ってきた今は、外へ出ていく時だと俺は思ってる」
「それで……船?」
「ああ、俺はいつか必ず、船に乗って異国を回ってやるつもりだ」
 と、彼女の顔に再びほんのりと笑みの火が灯る。
「きっと、叶いますよ」
「そうかい?  ……ありがとな、お嬢」
 彼女にそう言われると本当に実現できそうな気になってくる── 今も、昔も。

 四人分の食事が運ばれてきて、自分の前の皿が片付けられてからも龍馬はそのまま居座っていた。 席を立つ理由はない。 むしろ居座る理由の方が大いにあった。
「── まあ、攘夷を叫ぶのは個人の自由だが、怨霊まで異人のせいにするのは感心できんよな」
 いただきます、ときちんと手を合わせてから食べ始めた彼女に好感を抱きつつ、龍馬は話を続けた。 初めて聞いた話だったのか、彼女は動かし始めたばかりの箸を止めて首を傾げる。
「怨霊が異人のせい……?」
「ああ、異人が怨霊を連れてきただの、異人のせいで五行が乱れて怨霊が出るようになっただの、根も葉もない噂もいいところだ。 それが本当なら、今頃長崎の出島は大変なことになってるはずだろ?」
「その……出島は大丈夫なんですか?」
「京よりもよっぽど平和らしいぜ。 そこまで言うなら、実際に異人を集めて、本当に怨霊が出るのか実験してみりゃいいのさ」
「実験?」
「そう、何事も実験して自分で確かめる── 佐久間象山先生から聞いた話の受け売りだけどな」
 彼女は目を輝かせながら龍馬の話を真剣に聞いてくれる。 時折入る相槌に気分を良くし、呟かれた疑問に答えるうちにほとんど大演説の様相を呈してきた。 ほとんど師の受け売りに終始するのが心苦しいが、それでも彼女の真剣さは変わらず、龍馬さんはすごい、とまで言ってくれる。 ここまで気分よく話ができたのも久しぶりだった。
「── 結局のところ、俺たちも異人もみんな人の子。 龍脈を流れる五行だって、ちょっとやそっとのことじゃ乱れるはずもないってことだ」
「── 龍脈?」
 聞き返してきた声は隣に座る少女からではなく、後ろから聞こえてきた。
「龍脈って、龍神と関係あったりするのか?」
 目を丸くしながら質問を重ねてくる都。
「ああ、大ありだぜ。 龍神の力の源が五行で、その五行が流れる道を龍脈っていうんだ」
「へぇ……だったらゆきにも関係あるな。 なんたってゆきは龍神の神子様なんだから」
「なっ…… !?」
 おぼろげにまさかと思っていたことが本当だったとは── 全身がすうっと冷たくなったような気がした。
「── ゆき、そろそろ次に向かいましょう」
「あ、そうだね、瞬兄」
 とうに食事を終えていた四人が一斉に席を立つ。 だが、龍馬は動けずにいた。
「それじゃ龍馬さん── あ、そうだ」
 去りかけた彼女が戻ってきて、胸元から何かを取り出した。 見覚えのあるそれは、龍馬が長州で彼女に渡した小銭入りの巾着袋だった。
「これ、ありがとうございました。 なんとか使わずに済みましたから」
 ニコリと笑って差し出された袋を、ただ無言で受け取って。 じゃらりと鈍い音を立てたそれが、手の中でぐにゃりといびつに形を変えた。
 気が付けば四人は店を出た後だった。 我に返って前の通りに飛び出した。 目を凝らして辺りを見回しても、それらしき姿はもう見えない。
 これを縁と呼んでしまっていいものだろうか。 触れた胸元ががさりと音を立てる。
「ああっ、いかん!」
 突然の大声に、通りを歩いていた町人たちがギョッとした顔で龍馬を見た。 そんなことはお構いなしに龍馬は頭を抱えてしゃがみ込む。 せっかく彼女に会えたのに、逗留先を聞きそびれてしまったことに気が付いたのである。 けれど彼女が去ってしまった今となっては、後悔しても後の祭りだった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 うがー、時間かかったー。
 どうしてこんなに時間がかかったのか謎な出来上がり……
 2章のイベントをまるっと足して、ぐるっと混ぜて、ごっそり引いた感じでしょうか(汗)
 ああ、早く龍馬さんとゆきちゃんをいちゃこらさせたいのに……
 まだまだ先は長い……

【2011/05/27 up】