■旅路の果てに掴むもの【5:出会い 〜The past days〜】
土佐藩士・坂本龍馬──
年が明け、齢十八となった彼は郷里を離れ江戸に出てきていた。
腕の立つ剣客の多く集まる江戸の道場で剣術を学ぶためだ。
門を叩いたのは桶町にある千葉道場。
北辰一刀流創始者・千葉周作の弟、千葉定吉が構える『小千葉道場』という通称で知られた道場である。
くせのある髪を普段よりきっちりと結わえ、身につけているのは土佐を出る前に誂えた新しい着物。
ぴしりと折り目のついた袴に身が引き締まる。
月代こそ剃ってはいないが、ごく一般的な藩仕えの侍の出で立ちの龍馬は、通された道場の片隅にぎこちなく座り、今日から兄弟子となる門人たちの稽古風景を眺めつつ、道場主が現れるのを待つ。
── まずは挨拶。
名を名乗って、それから……
多少、いや相当の緊張を感じながら、これから自分がしなければならない行動を頭の中で繰り返し思い描く。
膝の上に置いた拳を開いてみると、手のひらは汗でぐっしょりと湿っていた。
着物と揃いの羽織の紐が解けかけているのにふと気付いて、龍馬は紐をしっかりと結び直した。
そうしているうち、母屋の方へと繋がっていると思しき引き戸がカラカラと開いて、いかにも剣の道を極めたと言うに相応しい厳格そうな壮年の男が姿を見せた。
龍馬は急いで立ち上がり、汗ばんだ手を袴でゴシゴシと乱暴に拭う。
「お、おはようございますっ!
土佐藩の坂本です!
本日よりお世話になりますっ!」
そのまましばらくすれば頭に血が上ってしまいそうなほどにガバリと深く頭を下げる。
「うむ、日々稽古に励んで心と身体の研鑽を積み、しっかりと剣の腕を磨いていくといい」
「はい!
ご指導よろしくお願いしますっ!」
荘厳に響く千葉の声にさらに頭を下げる。
なんとか粗相なく挨拶を済ませることができた、とほっと息を吐きつつ龍馬は身体を起こす。
移っていく視界の中、濃灰色の袴の向こうに、場違いにも思える明るい色彩を見た。
小花を散らした華やかな女物の着物の裾だ。
咲き乱れる花を辿っていくと、そこにまた花が咲いていた。
「あ……」
思わず言葉を失った。
最初に思ったのは、『なんて可愛い人なんだろう』という一言に尽きる。
別に龍馬は『どうして女が道場に?』などと考えたわけではない。
彼の姉は薙刀をはじめとして剣や弓も使いこなす女傑だった。
昔はずいぶんと姉に鍛えられたものだが、今でもまだ勝てる気がしない。
だが、そこに咲いている花は、とても武芸とは縁のなさそうな可憐な少女だったのだ。
年の頃はおそらく龍馬と同じか少し下、といったところだろうか。
「あ、あの、先生……そちらの方は…?」
千葉がなぜ少女を伴ってここへ来たのか意図がわからず、龍馬は失礼を承知で尋ねてみた。
「訳あって当道場で預かっている娘御なんだが──」
「そうですか──
と、土佐藩の坂本といいますっ!
どうかお見知りおきくださいっ」
つい先程と同じく、今度は少女に向かって勢いよく頭を下げる。
すると、くすくす、と可愛らしい笑い声が聞こえてきて龍馬は気が付いた。
たった今、名を名乗ったばかりではないか。
千葉先生の後ろにいたのなら、彼女も聞いていたはずだ、と。
「あっ、すみませんっ、さっき聞こえてましたよねっ」
「いえ、笑ったりしてごめんなさい。
そういう意味じゃないんです」
詫びつつも未だ笑みを含んだ彼女の声は、いわゆる『鈴を転がすような声』というものだろうか。
その時だった。
── 龍馬さん──
「え……今、俺の名前を呼びましたか?」
訊けば彼女はきょとんとした顔で小首を傾げて、
「いいえ、呼んでません──
あっ」
急に両手で胸元を押さえた彼女。
まさか具合でも悪くなったのか、と思ったが、そうではなかったらしい。
愛らしい顔にじんわりと沁みていくような笑みが広がっていく。
「── やはり何か子細があるようだな。
少し二人で話をしてみるといい。
稽古を始めるのはその後にしよう」
千葉は訳知り顔で頷くと、木刀を振る門下生たちに稽古をつけに行ってしまった。
「えっ、あのっ、先生っ !?」
子細がある、と言われても、龍馬は今日初めてこの千葉道場にやってきたのだ。
子細なんてあるはずもない。
いや、もしかして自分の記憶に残っていないだけで、他の場所で会ったことがあるのか──
だがこんなに可愛らしい少女を忘れてしまうなんてことがあるだろうか?
龍馬が必死に記憶を巡らせながら首を捻っていると、再びくすくす笑う声がした。
「子細なんて言われても、困りますよね。
龍馬さんとは初対面……ですから」
「はあ……そう…ですよね…?」
龍馬はさらに首を捻った。
自分はここに来て『土佐の坂本』と名乗ったが、まだ一度も『坂本龍馬』とは名乗っていない。
もちろん藩を通じて入門を申し込んだ時に名を告げてあるはずだから、下の名も既に聞き知っていたのかもしれないが。
懐にしまった青龍の鱗──
母の胎内から出てきた時に手に握り込んでいたという青い鱗がざわめいているような気がする。
どうにも不思議な気分だった。
それが不快なわけでは決してない。
ただ、ひとつだけ疑問があった。
── どうして彼女は初対面だと言いながら、そんなに懐かしそうな目で自分を見るのだろう?
『ゆき』と名乗った少女ととりとめのない会話をしばらく交わしたが、不思議な気分は消えることはなかった。
* * * * *
「── 坂本さん」
呼び止められたのは、龍馬が千葉道場に通い始めて三日目の稽古を終えて、帰り支度をしていた時だった。
「はい──
あ、さなお嬢さん?」
声の主は千葉さな。
道場主・千葉定吉の娘で、父直伝の小太刀は免許皆伝の腕前。
兄弟子の一人が、皆『千葉の鬼小町』と呼んでるぜ、と耳打ちしてくれたのは今朝のことである。
「これから少し、お話を聞いていただいてもいいかしら?」
「はあ……どうかされましたか?」
「ええ、ゆきさんのことで」
「── はい、伺います」
龍馬はしっかりと頷いて、いざなうように母屋の方へ向かうさなの後について行った。
「── それで、ゆきお嬢さんのこととは……?」
母屋へは入らず、人気のない道場の裏手に回ったところでさなが足を止めたため、どうにも落ち着かなくなって龍馬は先に話を切り出した。
「……ゆきさんがうちの本当の娘ではないことは、坂本さんもご存知ですよね?」
「はい、入門した日に先生にご挨拶した時、そう伺いました。
訳あって預かっている娘御だ、と」
千葉家と血の繋がりがあろうがなかろうが、ただの門下生である龍馬にとっては目の前にいるさなも、あの不思議な少女『ゆき』も、同じ『千葉先生のお嬢さん』という認識である。
それよりも、どうしてさながそんな話を持ちかけてきたのかがわからなかった。
千葉家の内情を、入門してたった三日しか経っていない自分に──
「あの子がうちに来たのは、一月ほど前のことなの」
「はあ……」
「ひどい怪我をして道場の前に倒れていて」
「えっ !?」
「怨霊に襲われたのね……毒が抜けるまで何日も目を覚まさなくて、身体が弱っていたのか傷の治りも遅くて……起きて動き回れるようになったのは、つい最近のことなのよ」
話を聞いただけでゾクリと背筋が寒くなった。
挨拶をした時に会ったきりの、花のようにほころんだ彼女の笑みを思い出す。
あの顔が苦痛に歪むところは見たくない、そんな顔をさせたくない、と思った。
さなの話によると、ゆきは怨霊に襲われた時の恐怖からなのか、自分がどこから来たのか、どこで怨霊に襲われてしまったのか、まったく覚えていないらしい。
「── あの子、おとといから笑うようになったの。
いいえ、以前から笑ってはいたのだけれど、見ている方の胸が痛くなるような寂しそうな笑みで……けれど、おとといからはとても可愛らしい顔で笑うようになったのよ」
そう言って笑うさなは、自分のことのように喜んでいるように見えた。
ゆきという少女が、この家でどれだけ大切に保護されているのかが龍馬にも伝わってくる。
だがさなの言葉の真意がわからない。
それが龍馬の顔に現れていたのだろう。
さなは苦笑を浮かべて、
「おわかりにならないのね?
おととい──
あの子と道場でお会いになったんでしょう?」
「……えっ!」
龍馬はかあっと顔が熱くなるのを感じた。
「坂本さんにとってゆきさんは見ず知らずの娘でしょうけど、あの子にとってあなたには特別な何かがあるような気がしてならないの。
あの子のこと、少し気にかけてやってくださらないかしら」
「も、も、もちろんです!
た、頼まれずとも、その、ゆきお嬢さんとは、し、親しくさせていただきたいと思っていましたのでっ!」
お願いします、と頭を下げるさなの姿に、龍馬の口から本音が飛び出した。
嬉しそうに笑った彼女が、次の瞬間すっと真顔になる。
「ただし──」
「は、はいっ」
厳しさを帯びた声に、思わず背筋をぴしりと正す龍馬。
「今では私もあの子を本当の妹のように思っていますし、父もいずれ嫁入り支度をうちで整えてやってもいいとまで言っている以上、あの子はうちの娘です。
何か妙な真似をなさったら……いいですね?」
「はいっ、心得ておりますっ!」
この日から、龍馬は彼女に堂々と会いに行けることになった。
【プチあとがき】
すんません、今回いきなり過去話です。
そろそろ1回入れておこうかと。
捏造過多な上、さなさんがしゃべりすぎて鬱陶しいですがご容赦を。
当時はまだ龍馬さんはゲーム中の衣装ではないだろうということで、普通の侍姿です。
髪も長くて、ポニテ状態。
ゆきちゃんは、さなさんに借りた着物を着ています。
今後、本編でサブタイに『〜The past days〜』が付いていたら過去話だとご理解ください。
【2011/05/19 up】