■旅路の果てに掴むもの【3:短い旅】
長門から下関まで、距離は十里を越える。
壮健な男の足なら、日が昇る頃に出発すれば日が沈む頃には到着できるだろう。
だが出発したのは太陽が空の天辺まで昇った頃。
さらに辺りをきょろきょろと見回しながら隣を歩く娘の足では、明日のうちに着けるかどうかすら疑問だった。
長府での約束がなけりゃなぁ──
龍馬は胸の内でこっそりと嘆息する。
この先の予定がなければ、物見遊山がてらゆっくり歩くのにも不都合はないし、ちょっと足を伸ばせば温泉もある。
そこから海沿いに下関を目指すのもいい。
もちろん自分の目的も、彼女の連れを探すことも忘れたわけではないが、なにせ十年ぶりの再会を果たしたのだから、その辺りは大目に見てほしいというものだ。
案じていた通り、行程の三分の一あたりまで来た頃には日が暮れかけていた。
夜道を行くのは襲ってくださいと言わんばかりの愚行だ。
敵は怨霊ばかりではなく、他者から奪い取ろうという邪な心を持つ人間もいる。
龍馬は日が暮れきらぬうちに、街道沿いの小ぢんまりした宿に泊まることを決めた。
夕餉が魚の干物と山菜の炊き合わせ、という質素なものだったのは、ここが人の多く集まる観光地などではなく、旅人が夜の間足を休めるためにしか訪れない場所だからだろう。
だが、気のいい宿の主人のもてなしは、まるで古い友人の家に遊びに来たような心地よい気分にさせた。
火の入っていない囲炉裏端で食事を終えた龍馬たちは、そのままそこで寛いでいた。
今日は早めに休んで、明日の朝は早いうちに出発したほうがいいのだろうが、龍馬はほとんど会話のないこの場をお開きにできないでいる。
当然ながら、彼女とは別々の部屋を用意してもらった。
だから、部屋に戻ってしまえば明日の朝まで彼女の顔を拝めない。
今夜は他の宿泊客はいないらしく、食事の後もお茶をどうぞ、茶菓子をどうぞ、と至れり尽くせりでもてなしてくれる主人に甘え、この場に居座っていた。
「── 疲れたかい?」
沈黙を無理矢理破っての質問が、こんな分かり切ったことだとは──
龍馬は天を仰ぎたい気分だった。
元々話しかけなければ返ってこない口数が途中からめっきり減り、息が上がっているのが見た目にもわかる様子だった彼女が疲れていないわけがないのだ。
「あ……ちょっとだけ」
それでも彼女は微笑んでくれた。
弱々しい笑みだったけれど。
「それなら、そんなにかしこまってないで、足を伸ばしちゃどうだい?
ほら、こんな風に──」
龍馬は組んでいた胡坐を解いて後ろに下がった。
壁に背中をつけ、真っ直ぐに足を伸ばす。
「そう……ですね」
彼女も正座していた足を崩し、龍馬の隣の壁に凭れかかって、同じように足を伸ばした。
普通の町娘とは違う短い衣装から伸びる細い足に、龍馬は思わず目を逸らす。
「少しは楽になっただろ?
ま、ちっとばかし行儀は悪いけどな」
「ふふっ、そうですね」
彼女が隣にいるというだけで、なんとなくくすぐったいような気分になった。
けれど、並んで壁に凭れたからといって会話が弾むわけではない。
「── あの」
何を話そうかとあれこれ頭を悩ませていたところで、彼女が先に口を開いた。
「ん?
なんだい?」
「……あとどれくらいで下関に着きますか?」
「あー、そうだなぁ……今日歩いた倍ってとこだな」
こつん、と後ろ頭を壁につけ、天井を見上げながら正直にそう答えた。
うっかり彼女の方へ顔を向けてしまったら、嫌でもすんなりとした足が視界に入ってしまうからだ。
「……そうですか……」
顔を見なくても分かる、落胆した声。
「そうがっかりしなさんな。
一人旅なら寂しいが、話し相手がいりゃ楽しい旅になるさ。
お、俺は……お嬢と一緒に旅ができて嬉し」
嬉しいぜ、と続けようとした言葉を、龍馬は思わず飲み込んでいた。
とん、と肩に思いがけない衝撃を受けて、言葉が途中になってしまったというほうが正しいかもしれない。
「お、お嬢っ !?」
覗き込んで見ると、彼女は龍馬の肩に凭れて微かな寝息を立てていた。
どうやら彼女の眠気は限界まで来ていたらしい。
凭れていた壁伝いにずるずると倒れてきたようだった。
自分の我儘で引き止めてしまっていた申し訳なさを感じつつも、龍馬は彼女の寝顔から目が離せなかった。
あどけない寝顔はとても綺麗で、もっとよく見たいという欲求に駆られて自分の顔を近づけていく。
『吸い寄せられるように』というのはこのことで、決して疚しい思いがあったわけではない。
── 間違いない、俺のお嬢だ。
龍馬の知る『お嬢』よりも幾分幼い印象を持つ彼女。
もしかすると他人の空似という可能性も捨てきれないし、十年前のあの頃こうして寝顔を見るほどの深い仲でもなかったけれど、不思議と確信があった。
と、彼女の頭がかくん、と落ちた。
近づき過ぎて身体が傾いてしまったせいで、肩で支えていた彼女の頭が滑ったのだ。
「す、すまんっ!」
「え………………あ、ごめんなさい。
私、寝ちゃってましたか…?」
とろんとした目をゆっくりと瞬かせる彼女は、まだ半分眠っているようなゆったりした口調だ。
寝顔を盗み見るなんて、途轍もなく悪いことをしていたような気になって、龍馬は意味もなく慌てまくる。
「い、いや、お嬢は疲れてたんだよな、うん。
こんな時は早く休まにゃいかん。
そろそろ部屋に引き上げようぜっ」
早口でまくし立て、がばっと立ち上がった。
手を貸して立ち上がらせた彼女の背を押し、どかどかと足音高く廊下を歩き、おやすみ、と一声、問答無用で彼女を部屋に押し込める。
ぱしんと威勢よく襖を閉めた勢いのまま自分の部屋に飛び込んで、詰めていた息を盛大に吐き出した。
「…………何やってんだろうなぁ、俺は……」
十年前の青臭い若造だった頃の自分に逆戻りしてしまったようで、がりがりと頭を掻いて落ち着かない心を誤魔化した。
その夜、龍馬は再び夢を見た。
昨夜に続いての悪夢ではない。
『お嬢』と二人、海の彼方を眺めながら穏やかに語り合う、とても幸せな夢だった。
* * * * *
「── お嬢、あれが長府の町だ」
山を下る坂道から龍馬が指差す先には、肩を寄せ合うようにひしめく家並みと、その向こうにはキラキラと波が光を揺らす海が見える。
ここに至るまで連れに出会えなかったことと相まって色濃い疲労の浮かぶ彼女の顔が、ほんの少し明るくなった。
彼女と出会って三日目の昼前である。
昨夜は手前の宿場でもう一泊した。
残念ながら昨日のうちにはここまでたどり着けなかったのである。
「なあに、下関はここから目と鼻の先だ。
明日の今頃にゃ、下関に着いてるぜ」
本当なら長府を素通りして下関に向かってやりたいところだが、本来の龍馬の目的地はこの町だった。
人と会う約束があって、おそらく話は今日中には終わりそうもないから下関へ向かうのは明日になる、と歩きながら話して了解をもらっている。
「心は逸るだろうが、俺がいない間は宿で大人しくしててくれよ?
お嬢みたいな若い娘が一人でうろうろしてちゃ、どんな危ない目に遭うかわからんからな」
「はい……わかりました」
彼女は神妙な顔つきで、こくりと頷く。
その時だった。
おーい、と人を呼ぶ声が聞こえたのは。
「え……この声……あっ」
きょろきょろと辺りを見回した彼女が、いきなり町の方向へ駆け出した。
見れば向こうからも二人、走ってくる姿がある。
「お、おい、お嬢っ !?」
龍馬も慌てて彼女の後を追った。
「── 瞬兄!
都!
よかった、やっと会えた!」
目の前で繰り広げられるのは、感動の再会の場面。
龍馬の心は複雑だった。
彼女が探し人に巡り合えたのは喜ばしいことだが、これで彼女と旅する口実がなくなってしまったのだから。
駆け寄ってくるのは活発そうな少年。
走る足を歩きに変えたもう一人は走ってくる少年よりも年かさで、少し冷たい印象を持つ青年だった。
気のせいでなければ、人ひとり軽く殺してしまえそうなほど険しい視線で龍馬を睨みつけている。
あまりに恐ろしげな形相に、思わず口元がひくっと引きつってしまった。
「ぬわっ !?」
龍馬は訳のわからない奇声を上げた。
互いに駆け寄った二人が、出会い頭にひしと抱き合ったのである。
「どこ行ってたんだよ、心配しただろ?」
「ごめん……でも、あの人に助けてもらって、ここまで連れてきてもらったの」
「そっか……ま、いいさ、お前が無事なら」
と少年は迷子になった娘をやっと見つけた母親のような安堵の笑みを浮かべて彼女を抱きしめ──
「ん?
……なんだ、男じゃないのか」
彼女を優しく抱き締める少年の正体に気付いて、ほっと安堵した。
男のような格好をして、言葉遣いも少々乱暴ではあるけれど、醸し出す雰囲気は間違いなく女性のものだ。
「── 連れに会えてよかったな、お嬢」
ようやく追いついて声をかける。
「はい、本当にありがとうございました」
男装の少女から離れた彼女が、深々と頭を下げた。
そして、頭を上げかけた彼女は、あっ!、と大きな声を上げた。
「ねえ都、お金持ってない?
私、何も持ってなくて、宿代も食事代も全部払ってもらってるの!」
「いや、お嬢、そんなことは気にせんでも──」
「なっ !?
宿代ってなんだよっ!
私と瞬がこの訳わかんない場所に来て、まだ2時間くらいしか経ってないってのに……お前はもっと前から来てたのか?」
「うん、それはあとでちゃんと説明するから──
ねえ、瞬兄は持ってないの?」
「……残念ながら服装も変わっていますし、飛行機に積んだトランクはおろか、機内に持ち込んだ手荷物もありません。
あったとしても、持っていたお金がここで使えるとは思えませんが」
「そう……だよね。
あ、ねえ、崇くんは?」
「気付いたら、私と瞬だけだったんだ」
「そう……ねえ、一体私たちに何が起きたんだろう?」
「……ここから見えるのは長府という町。
人々の会話の内容からすると、ここは江戸時代末期──
幕末の頃の山口県のようです」
「じゃあ、タイムスリップしたっていうこと?」
「おいおいおいおい、ちょっと待ってくれ!」
入り込めない雰囲気で話す三人を傍観していた龍馬は、堪らず会話に割り込んだ。
「『ひこうき』ってなんだ?
『えどじだい』ってなんだ?
『ばくまつ』ってなんだ?
ばくまつのばくは、幕府の幕か !?
お前ら、一体何者なんだ……?」
質問を連発する龍馬に返ってきたのは、さっきからずっと警戒の姿勢を崩さない青年からの、胡散臭いものを見るような鋭い視線だった。
「……お前こそ何者だ…?」
「俺か?
俺は──」
自己紹介しようとした龍馬を遮るように、麓のほうからざくざくと土を蹴る慌ただしい足音が聞こえてきた。
「── こんなところで油を売っていたのか、あんたは!」
ものすごい剣幕で走ってくるのは、顔見知りの長州藩士。
「もうみんな集まって、あんたが来るのを待ってるっていうのに!」
「げっ!
もうそんな刻限か!
いや、すまん!
ほんとにすまん!」
「詫びはいいから急いでくれ!」
長州藩士は龍馬の腕をがしりと掴むと、今来た道を逆戻り。
「ちょ、ちょっと待ってくれっ!
せめて別れの挨拶くらい──」
「そんな悠長なことは言ってはおられんっ!
いいから足を動かせ!」
龍馬は引きずられながら、懐に手を突っ込んだ。
振り向きざまに、懐から出したものを彼女に向かって放り投げる。
慌てて両手を皿の形にして受け止めようとした彼女の顔の前で、怖い顔の青年が片手でぱしっと受け止めた。
同時にがちゃっと金物の鈍い音が鳴る。
投げたのは、小銭を入れた小さな巾着袋だった。
「お嬢!
大して入っちゃいないが、使ってくれ!
縁があったら、また会おうぜ!」
坂道を引っ張られて走りながらでは振り返ることもできず、龍馬は頭の上で大きく手を振りながら、長府の町を目指さざるを得なくなってしまった。
【プチあとがき】
一里は約4km。
長門から長府まで、直線距離で45kmくらいあります。たぶん。
という変なとこでリアルを追求した結果、こんな展開になりました。
龍馬さんが完全に思春期の少年です(笑)
まあ、本人も自覚があるようなので許してやってください。
第3話にしてようやく序章のイベントを消化しました(笑)
相当な捏造ですが。
【2011/05/10 up】