■Rewriting of fate 【7:縮まる距離】
「── 千尋、食べないの?」
「え……あ、ううん…」
目の前の光景に、冷や汗とも脂汗ともわからぬものがこめかみを流れているような気がした。
友人ふたりと囲んだ小さなテーブル。
それぞれの前に置かれたプレートには、朝のラッシュ時の満員電車の内部の如く、半分潰れかけたケーキがぎっしりと載せられていた。
これらのケーキを作ったパティシエがこの状況を見たら、がっくりと肩を落としてしまうだろう、と思うほどに。
「こ……これはちょっと多すぎじゃない…?」
「いーの、バイキングなんだから食べなきゃ損でしょ?」
「ほら、千尋も食べて食べて! いっただっきま〜す♪」
「うぅ……い、いただきます……」
小さなフォークで切り取ったケーキを口に入れる。
クリームは上品な甘さでさっぱりとした口当たりだというのに、なかなか喉を通らなくて飲み込むのに苦労した。
フォークを持つ手を止めた千尋は楽しそうにケーキを頬張っている二人を見て、こっそりと溜息を吐く。
この二人は、先日耳成山に一緒に行った二人である。
ゴールデンウィーク突入前、ケーキバイキングの招待券をもらったから行こう、と半ば強引に誘われた。
だが、三人でこうしていても、あの時の事が話題に上ることはない。
一緒に行った男子たちにしてもそうだ。
あの翌日くらいは自分たちの恐怖体験を面白おかしく皆に話して聞かせてもいいだろうに。
結果的に千尋ひとりを置き去りにしてしまったことを気に病んでいるのだろうか?
それならそれで翌日顔を合わせた時に、昨日はごめんね、などの会話があってもよさそうなものだが、それすらもなかったのである。
再びそっと溜息を吐いた時、ねえ千尋、と声をかけられた。
「ん?」
「何か悩んでるんだったら、私たちに話してみない?」
「え……?」
千尋はきょとんとしてふたりの顔を見た。
悩んでたのはそっちじゃないの?、と思いつつ。
── 別のことで悩んでいるのは確かではあったけれど。
「まあ、いろいろ……ね」
プレートの隅にフォークを置いて、ふわりと香りのよい湯気を上げるレモンティーのカップに口を付けた。
「やっぱり!」
「もう、水臭いなぁ、千尋は」
「で、何を悩んでるの?」
口々にそう言って、ずいっと身体を乗り出してくる友人ふたり。
その勢いに千尋は思わずたじろいだ。
確かにここ数日はあれこれ考え込んでしまって、ぼんやりしていることが多かったかもしれなかった。
その様子を見て、彼女たちは心配してくれているのだろう。
「あ、あのね……『自分が自分じゃなくなる感覚』って……わかる?」
言っておきながら、たぶんわかってはもらえないだろう、と千尋は思った。
現に友人たちは不思議そうに顔を見合わせている。
「……そう感じたきっかけって?」
そう訊かれて、千尋は口に出したことを激しく後悔した。
『彼』のことを話す羽目になってしまったのである。
もちろん細かいことを話すつもりはない。
話したのは風早の知り合いらしいこと、十日ほど前から千尋の家に滞在していること、髪が長くて毎朝結ってあげていること、現在少々気まずいこと、くらいのものだ。
だが、気遣わしげな色を浮かべていた友人たちの目が次第に興味津々、キラキラと輝き始めたのに気がついた。
ギクリとして、これ以上は言いたくないと思ったが、彼女たちの様子ではここで許してくれそうもない。
はふ、と溜息を吐いて、
「── みんなで耳成山に行った時にね──」
言って千尋は目を見開いた。
彼女たちに怖い記憶を呼び起こさせるかもしれないが、と意を決して口にしたのだが──
「うんうん、那岐くんと、風早先生と、『彼』と四人で?」
「わ、いいな〜、みんなでピクニック?」
ふたりは顔色ひとつ変えずに、さらに身を乗り出してきたのだ。
「え……」
彼女たちの記憶から、あの恐ろしい形相の野犬── 荒魂に遭遇した出来事は消えている…?
それとも自分の記憶が間違っているのだろうか?
── そんなこと、あるはずがない。
視界に何かがちらついて、はっと気がつくと、友人のひとりが目の前で手を振っていた。
「おーい、千尋〜、戻っておいで〜」
「大丈夫? 顔、真っ青だよ?」
「あ……ごめん……大丈夫…」
千尋は深呼吸をしてから、耳成山で『野犬』に襲われたところを彼に助けてもらったことを話した。
直前まで彼女たちもその場にいたということには、もう触れる気もしなかった。
「わかる……わかるよ、千尋! 『自分が自分じゃなくなる感覚』!」
「え?」
上っ面の話しかしていないはずなのに。
彼と接触するたび流れ込んでくる『何か』。
その度に、自分が他のものに染め替えられていくような不思議な感覚。
そのことは話してはいないのだから、理解してもらえるはずがないのに。
友人のひとりが千尋の鼻先に指をぴっと突きつけて、
「もう、千尋ってば鈍感っ! ── それはね、『葦原千尋』が『恋する乙女』に変わったってことよ!」
「え……………ええっ !?」
上げてしまった素っ頓狂な声に、思わず周囲を見回した。
が、そこかしこは大好きなスイーツを前にしてはしゃぐ女の子たちばかり。少々の声くらいでは興味を引かなかったらしい。
ほっとしながらも、恥ずかしさの余りかぁっと熱くなる顔をぱたぱたと手で扇ぎつつ、
「も、もう、そんなんじゃ──」
「なーに言ってるかな。危ないところを助けられちゃったら、『あぁ、私の王子様♥』になっちゃうもんでしょ」
「いやーん、運命の出会い!」
友人たちはひしと手を取り合って見つめ合い、『千尋♥』『王子様♥』と寸劇まがいのことを繰り広げ始めた。
さっき自分の上げた声よりも、彼女たちの方がよほど恥ずかしい。
同じテーブルに着いている以上、他人の振りをすることすらできない。
ぴくぴくするこめかみを押さえながら、千尋はふと思った。
運命の出会い、かどうかは知らないが、出会いは劇的と言えるものだった。
いきなり姫呼ばわりされ、腕を掴まれたのだから。
けれど。
『王子様』── 確かにそんな風格を、彼は持っているように思う。
ただし、跨るのは白馬というイメージではない。
彼に似合うとすれば、禍々しいほどの闇の色。漆黒の馬。
……『馬』?
なぜそんなことを疑問に思うのだろうか?
「── とにかく千尋、それ食べたら家に帰りな」
「え、ど、どうして?」
「気まずいんでしょ? ちゃんと話し合わなきゃ」
「は、話し合うって、何を……」
「そりゃあもちろん、誤解があったら解消する、どちらかが悪いなら謝る、ってのがセオリーでしょ?」
「い、いや、でもね……」
「ほらほら食べて食べて! 制限時間来ちゃうよ!」
「あっ、だ、だから…っ」
結局、友人たちに交互に畳み掛けられて、千尋はプレートいっぱいのケーキを無理矢理口に詰め込むことになった。
* * * * *
はぁ……
溜息を吐きつつ佇むのは、自宅の前。
別れ際の友人たちの『成果は明日学校で聞くからね!』という言葉で余計に気が重い。
おまけに胃も重い。
ケーキの食べすぎで膨らんだ胃の辺りを押さえつつ、目に入ってきた腕時計の針はまだ昼を少し過ぎたばかりの時間を示していた。
ふぅ、と気合いを入れるように大きな息をして、玄関の扉を開けた。
あまり深い意味はなかったけれど、音を立てないように靴を脱ぎ、そっと玄関に上がる。
香ばしい匂いが漂っていた── たぶん、チャーハンだろう。
足音を忍ばせてリビングの入り口に立つと、奥のキッチンから声が聞こえた。
「── 言われずとも三日後には帰ってやるさ」
ガツンと頭を殴られたようだった。
根拠もなくずっと一緒にいられるような気がしていたけれど、そういえば彼は二週間という期限付きの滞在だったのだ。
友人の『制限時間来ちゃうよ!』という言葉が頭をぐるぐる回る。
もちろん彼女が言ったのはケーキバイキングの制限時間のことなのだが。
呆然としているところに、彼── アシュヴィンがキッチンから出てきて視線がぶつかった。
「あ……えと……三日後に…帰っちゃうんですか?」
頬の筋肉を必死に持ち上げる。
ちゃんと笑えているだろうか?
「………ああ」
彼の視線が僅かに外れた。それがやけに胸に刺さる。
千尋もまた彼から視線を外した。俯いて自分の爪先を見つめると、もう顔を上げることができなくなった。
「……じゃ……じゃあ、お別れパーティしなくちゃ! 食べたいもの考えておいてくださいね! リクエストに完璧にお応えする自信はあんまりないけど、頑張って作りますからっ!」
声が震えないように腹に力を込め、俯いたまま口早に言って、どかどかと足音を立てながら彼の横をすり抜けてキッチンに飛び込んだ。
そこには眉間に皺を寄せている那岐と、複雑な表情の風早がいた。
「ね、ねえ風早、胃薬あるかな? ケーキの食べすぎで胃がもたれちゃって」
これは本当のことだ。
何を思ったか、そこに薬などあるはずもないのに無意味に食器棚の扉を開け閉めしていることに気づいて、慌てて扉を閉めた。
「……ったく、調子に乗って欲張ったんだろ」
頬杖をついた那岐が呆れたように呟いた。
「あっ、ひどーい! バイキングなんだから食べなきゃ損だ、って無理矢理食べさせられたんだから!」
「……はいはい、そういうことにしといてあげるよ」
「もうっ!」
「── 千尋、部屋に持っていきますから、先に着替えててください」
テーブルの上の皿をシンクに移しながら、風早が苦笑する。
「うん……じゃあ、お願いね」
とぼとぼとキッチンを出て、階段を上がる。
全身の力が抜けてしまったようで、段を上がる一歩一歩が今の胃よりも重かった。
部屋のふすまをそっと閉め、よろよろと向かったベッドに崩れ落ちるようにドサリと突っ伏した。
自分は一体どうしたいのだろう?
頭の中はぐちゃぐちゃで、一向に考えはまとまらない。
そのまま数分経っただろうか。
聞こえて来たのは、ぼすぼすっ、とふすまを叩く音。
「あ、はい!」
返事をしてベッドから起き上がった後で、まだ帰ってきた時の格好のままなことに気がついた。
『まだ着替えてなかったんですか?』と苦笑する風早の顔が容易に想像できる。
が、しかし。
しゅっと開いたふすまの向こうにいたのは風早ではなく、アシュヴィンだった。
「……ほら」
両手で差し出されたのは、透明な小瓶と水の入ったコップ。
予想外の人物の登場に動けなくなってしまった千尋に痺れを切らしたのか、アシュヴィンは部屋に入ってきて机の上にビンとコップを置いた。
「あ、あの…っ!」
思わず声が出た。
部屋を出て行こうとしたアシュヴィンが足を止めて振り返る。
「……く、薬……届けてくれて、ありがとう」
なぜか彼が一瞬目を見開いて、それから苦しげな表情を見せた。
千尋の前まで戻ってくると、すっと右手を上げる。
その手はふんわりと千尋の頬を包んだ。
どきん、と跳ね上がる心臓。
彼の手のひらの、指の付け根あたりが少し硬い。きっとあの剣を握るせいだろう。
けれど、その感触が嫌ではなかった。
目の下を動く彼の親指がぬるりと滑った。
それで初めて、いつの間にか涙が流れていたことを知った。
ぼやけていく視界をアシュヴィンの端正な顔が占領していく。
嬉しいような、怖いような。
煩いくらいに心臓が飛び跳ねている。
友人の言った『恋する乙女』は、あながち間違ってはいなかったらしい。
── 私、この人のことを好きになってたんだ。
思った途端、あれほどぐちゃぐちゃだった頭がすっきりした。
そして千尋は待ちわびていたかのように、ゆっくりと目を閉じた。
【プチあとがき】
あー、いいところで終わっちゃいましたねー。
え? 展開が唐突ですか?
……返す言葉もアリマセン(汗)
ちまちまと書いているせいで、話が細切れっぽいなー。
書き終えた後で全体を大幅改訂するかもしれません。いや、しないとまずいかも……
心理描写ってナニ? 情景描写ってナニ? ……そんな現状だし。
『王子様』話、土日でもやったなー。
進歩ないなー、あたし。
しょうがないじゃん、『王子』じゃないけど『皇子』なんだもん。
うわ、開き直った(笑)
【2009/04/24 up】