■Rewriting of fate 【6:自覚】
しんと静まり返った中、食器が立てる無機質な小さな音だけがやけに大きく響いていた。
食べ物を口に入れ、咀嚼して飲み込むにも勇気が必要なほどの静けさ。
アシュヴィンはフォークに巻きつけたパスタを口に入れると、ちらりと視線を動かした。
その先にあるのは、ダイニングテーブルの斜向かいの席で黙々と食事をしている千尋だった。
山道で気を失った千尋は、意外にもすぐに意識を取り戻した。
抱き締めるような形で彼女の身体を支えていたアシュヴィンが、さてどうしたものか、と考えていた数分のうちに。
自分の置かれている状況に驚いたのか、慌てて飛び退いて、
「た、助けてくれて、あ、ありがとうございましたっ!」
恐怖で失神したにしろ、別の原因があったにしろ、たった今まで意識がなかったとは思えないほどの元気さで、がばっ、と頭を下げる。
「……礼には及ばん」
腕の中にすっぽりと収まっていた彼女の華奢な身体が離れた途端、その空間がぽっかりと虚ろになった。
彼女を抱き止めた時にまたも流れ込んできた温かな『何か』が、このまま彼女をずっと抱き締めていられればいいのに、と残念がっているような気がしていた。
ふ、とアシュヴィンの口元に自嘲の笑みが浮かぶ。
彼にとって人間関係とは、損か得か、あるいは害か益かで判断するものである。もちろんごく一部の例外はあるけれど。
だが、他者に── ましてや女に対してこんな感傷的な思いを持つ日が来るとは、彼自身思ってもいなかった。
生まれながらに国の『道具』だった彼は、いつかは国のために意に沿わぬ相手と『婚姻』という名の契約を取り交わすのだろうと、おぼろげながら覚悟していたのだ。
ああ、そういえば彼女は中つ国の姫だったな── ふと思い出す。
国と国とを結びつけるための道具だとしても、その相手が彼女なら存外悪くない。
だが、その『国』がなければ意味がないのだ。
理由があったにせよ、中つ国を滅ぼした父皇を少し恨めしく思った。
「── 千尋っ! 無事ですかっ !?」
アシュヴィンの思考を打ち払うように駆け込んできた風早。いつも茫洋とした雰囲気を崩さない彼には珍しく、血相を変えて取り乱していた。
「あ、風早! 私は大丈夫、アシュヴィンさんに助けてもら──」
ふいに言葉を切った彼女は微かに眉を曇らせて一点を見つめていた。
風早の手元、一振りの刀。
気づいた風早は、愛用の得物をすっと背に隠す。
千尋は何か言いたげに開きかけた口を閉じ、下唇を噛んで僅かに逡巡した後、ふっと口元を緩めて微笑んだ。
「── 今日は私が食事当番なのに、寄り道しちゃってごめんなさい。帰ったらすぐ支度するね」
地面に転がっている鞄を拾い上げ、ぱたぱたと土を払い。
武器を手にした男二人を一瞥することもなく山道を下っていく。
「── ああ千尋、俺は一旦学校に戻ります。少し遅くなるかもしれませんから、夕飯は先にアシュヴィンと二人で済ませておいてください」
足を止めて肩越しに振り返る千尋の顔に怪訝な色が滲んでいる。
「……うん、わかった」
小さな声で答えて、千尋は再び歩き始めた。
「ははっ……こんな物を持っていたら、さすがに信用を失ってしまいますね」
苦笑を浮かべて頭を掻く風早の手元で刀がカチャリと音を立てた。
「……そういう問題でもなさそうだがな」
僅かに首を傾げる風早。
刃を目にして身を震わせているより、自ら武器を手にして先陣を切って進んでいく方が彼女には似つかわしい── アシュヴィンは根拠もなくそう確信している自分に苦笑する。
「── 俺は那岐としばらく警戒に当たります。君は── 千尋をお願いできますか」
「……ああ」
小さく頷いて見せた風早は、山を登りながらポケットから小さな機械を取り出した。
それを耳元に当てた彼の『那岐?』と呼びかける声が聞こえた。
遠く離れた相手と話ができる『携帯電話』というもの── アシュヴィンの世界にはないものだ。
目を見張るほどに便利なものに溢れ、どこまでも平和なこの世界。
どういう仕組みでそんな摩訶不思議なことができるのか、とても理解しがたいものではあるが、いずれ帰る時にはひとつ持ち帰って発明好きの側近に研究させてみよう。
『いずれ帰る時』を思った瞬間、胸がぐっと締め付けられるように痛んだのに気づいて、振り払うように軽く頭を振る。
弧を描く山道の下を見やれば千尋の姿が山肌の向こうに消えていて、アシュヴィンは小さな溜息を漏らして足早に坂を下った。
そして葦原家に戻り、今に至る。
初めて見た時にはちょっとした武器かと思った『フォーク』をそつなく使いこなし、千尋が作った『きのことほうれん草の和風パスタ』を口に運ぶ。
この家に転がり込んで以来、見たこともない珍しい料理ばかりが出されたが、彼女の作るものは不思議とアシュヴィンの口に合った。
しかし、いつもなら賑やかな食卓がこうもしんとしていると、ここで初めて団欒を味わった彼とて息が詰まる。
彼女に視線を固定したまま食事という作業を続けていると、ふいに目が合った。
一瞬大きく見開いて。
次の瞬間、すっと視線を逸らされた。
「お……お茶、淹れますね」
かたん、と椅子を揺らして千尋が立ち上がる。
無視されているわけではなかった。
必要な会話は普通に交わされる。
だが、視線が合わない。
彼女の従者の言う通り、刃に怯えているのだろうか。
彼女にとって自分は親の仇。
その仇が目の前で剣を振るったのだ、怯えるなと言うほうが無理なのかもしれない。
ことん、と音がした。
ほわほわと立ち昇る湯気の向こう、湯飲みを置いてくれた彼女とは、やはり視線は交わらなかった。
風早と那岐が帰宅したのは、日が暮れてしばらく経ってからだった。
二人の食事を用意した千尋は、何も質問することなく自分の部屋へ戻っていった。
顔を見合わせ、溜息を吐く二人。
「……どこか遊びに行く相談をしてたのは知ってたけど……まさか行き先が耳成山とはね」
「しょうがありませんよ、好奇心には勝てませんからね」
力なく苦しげに笑う風早に、あんた甘すぎ、と那岐は呆れ返ったように吐き捨てた。
結局、荒魂はアシュヴィンが斬り捨てたもの以外、いなかったらしい。
恐らく、結界の中に入ってきた彼女の持つ『力』を感じ取って引き寄せられたのだろう、というのが風早の推論だった。
* * * * *
この世界は7日周期で動いている。
5日間働き、2日休む。その繰り返し。
その周期からすれば今日はまだ休日ではないにも関わらず、葦原家の人間は家にいた。
風早に訊ねると、今日からゴールデンウィークなんですよ、と訳のわからない答えが返ってきた。
とにかく臨時的な休日らしい。
だが、昼食の席に千尋の姿は見えなかった。
彼女は朝から友人と一緒に遊びに行っているのである。
いつものように髪を結ってもらった後、耳成山を一回りして帰って来た時には、もう彼女は出かけた後だった。
那岐が作ったきのこチャーハンを、男三人が黙々と平らげる。
「── あと三日、ですね」
ずずっとお茶をすすった後で思い出したように口にする風早の言葉に、ぴくり、とアシュヴィンの眉が上がり、スプーンを持つ手が動きを止めた。
しかしそれは一瞬のことで、アシュヴィンはすぐにチャーハンの最後の一さじを口に突っ込み、ゆっくりと咀嚼して飲み込んだ。
さっきまでは少し塩がききすぎていると思っていたのに、最後のひと口だけはなぜか味がしなかった。
風早の言う『あと三日』とは、新月までの残り日数。
すなわち、アシュヴィンがこの世界を去るまで残り三日、なのである。
その時、彼は目的を果たしているのだろうか── 『龍の姫』を連れ帰るという目的を。
このぬるま湯のような、いや快適な湯加減であるこの平和な世界から。
だが、常世の国を救うためには彼女が持っているかもしれない『力』が必要なのだ。
彼女の『力』を欲するというなら自分も荒魂と同類だ、と苦笑が漏れた。
ここ最近、彼女との間にぎこちない空気が流れていることは自覚している。
あからさまに避けられていた。
ただ、朝、長く伸ばした後ろ髪を編んでもらう時だけが彼女とまともに対面する時間だった。
いや、対面なんてしていない。
後ろ髪を編む彼女は背後にいるのだから。
賑やかだったとりとめのないおしゃべりが、いつからかぷっつりと途絶えた。
鏡もなく、彼女がどんな表情をしているのか、見ることすらできなかった。
櫛で髪を梳く感覚で、彼女の手がどこにあるかはわかる。
そこに向けて伸ばしそうになる自分の手を、何度押し留めたことだろうか。
ぎゅっと握り締めた拳を見つめながら自問する。
一体何のために手を伸ばすのか?
解ってみれば簡単なことだった。
手に入れたいのだ、彼女を。
彼女の持つ『力』ではなく、彼女自身を。
時折ふっと脳裡に浮かぶ光景には、いつも彼女がいた。
笑っている顔、泣いている顔── 穏やかな時も、苦境の中でも、いつも隣に彼女がいる。
それがたとえ妄想の産物だとしても、これから現実にしていけばいいだけのことだ。
しかし同時に迷いも生まれた。
彼の在るべき世界は血で血を洗う、戦いだらけの血生臭い世界。
そんな場所に彼女を引きずり込むことは躊躇われた。
かといって自分がこの世界に留まることは許されない。
国の危機を救うのは、皇子である自分の責任なのだ。
ジレンマに翻弄され、苛立ったアシュヴィンはカンッと投げつけるようにスプーンを置いた。
「……言いたいことはわかっているさ── 大人しく帰れ、と言いたいんだろう?」
「俺たちを── いえ、千尋をこのままそっとしておいてくれませんか」
アシュヴィンを見据える風早の、湯飲みを握り締める手に力が籠もる。
同意見なのであろう那岐も、テーブルに頬杖をついてアシュヴィンを睨み据えていた。
「さて、な……こんなところまではるばるやってきたんだ、手ぶらで帰るつもりはないが──」
椅子からゆうらりと立ち上がり、鋭い眼差しを向けてくる二人を見下ろして、
「言われずとも三日後には帰ってやるさ── 『大人しく』かどうかはわからんがな」
抱えるジレンマを悟られないようにそう嘯(うそぶ)いて、ソファで寛ぐふりをしようとキッチンを出る。
しかし、彼はソファに辿り着けなかった。
「── っ !?」
思わず息を飲んだアシュヴィンの視線の先、リビングの戸口には大きく目を見開いた千尋が呆然とした様子で立ちすくんでいた。
【プチあとがき】
1ヶ月以上間が空くと、何を書きたかったのか忘れてしまいます(汗)
いやあ、別に焦らしプレイのつもりはないんですけど、もどかしいですよね。
書いてるあたしがそうですから(笑)
けど、やっと殿下が自覚してくれました。
今後はラブ度上昇!……すると思います(汗)
【2009/04/03 up】