■Rewriting of fate 【5:発露】
バシュッ!
放たれた矢が白と黒の同心円の描かれた的へと突き刺さる。
千尋は思わず、わぁ、と小さな感嘆の声を上げた。
彼女の手には教室のゴミ箱── 掃除当番のゴミ捨ての帰りである。
その途中に位置する弓道場では既に弓道部員たちが練習を始めていた。
別に弓道に興味があるわけでもなく、親しい友人が在籍しているわけでもない。
なのになぜか心を惹かれ、足が止まった。
これまでに何度も目にしたことのある光景だが、その時は『あー弓道部がんばってるなぁ』くらいにしか思わなかったというのに。
袴姿の男子部員がゆっくりと弓を構え、弦を引き絞る。
矢羽部分を掴んでいた指がぱっと放されると、ヒュン、と風を切って矢が飛んでいく。
バシュッ!
またも矢は見事に的に突き立った。
その一連の動きから目が離せない。
面白そう、と思ったのではない、のだと思う。
結局のところ『興味を持った』と言ってしまえばそうなのかもしれないが、ただ訳もなく身体がムズムズする。
「── ちーひーろーっ!」
「え……」
振り返っても誰の姿もない。きょろきょろと辺りを見回していると『上、上』と声が聞こえた。
見上げてみると、校舎の窓の一つからクラスの友人が顔を出し、手を振っていた。
ちょうど千尋の教室に面した廊下の窓だ。
「もう、なにやってんの! みんな待ってるのに!」
「ごめん、すぐ行く!」
千尋は友人に手を上げて答え、ほんの一瞬だけ弓道場の方を振り返ってから校舎に向かって駆け出した。
「── ねぇ、本当に行くの?」
千尋は隣を歩くクラスメイトにおずおずと訊ねた。
寄り道して帰ろう、と誘われて二つ返事で参加したものの、目的地を聞いた後での激しい後悔。
ちなみにメンバー構成は千尋を含めて女子三人、少し前を歩いている男子が三人。全員が部活に入っていない帰宅部である。
「もっちろんよ♪」
「やだ千尋、那岐くんがいなくて心細いんだ〜?」
「そ、そういうわけじゃないけど……」
心細い、というよりも不安が渦巻いていた。
そんな興味本位で足を踏み入れていい場所ではないような気がするのだ。
すると前を行く男子生徒の一人が笑いながら振り返り、
「噂、葦原も聞いたことあるだろ? 先週の金曜日の夜にさ、やたら騒がしかったらしいんだわ。んで、それを検証しに行こうってわけだ」
そうこうしているうちに目的地── 耳成山はすぐ目の前まで迫っていた。
登山道を進んでいく。
今日が天気のいい休日で、お弁当やおやつを持ってハイキングに来たのなら楽しいだろう。
実際休日には山歩きを楽しむ人たちがこの登山道を歩く姿がちらほら見受けられる。
だが、平日の夕方、これから闇が深くなるという時間に人影はない。
結局抜けることは許されず、千尋もここまで来てしまっていた。
目的地はともあれ、友人たちとの他愛無いおしゃべりは楽しいのだ。
頭の片隅で、こんな山道を登るにはスニーカーを履いた方がいいな、などと考える余裕もあった。通学用のローファーでの山登りはさすがに足が痛い。
登山道を中腹まで進んだ頃、男子たちが道を逸れて木立の中へと入っていた。
忘れかけていた不安が一瞬にして表へと顔を出す。
「ちょ、ど、どこへ行くのっ !?」
「この先に超デカい岩があるんだ。そこがアヤシイんだと」
「え〜、そんなの聞いてないよぉ」
女子の制服はミニスカート。そんな格好で藪の中へ入っていく気など起きるはずもなく。
好奇心旺盛な男子たちは放っておいて、女子三人は登山道に残ることになった。
木々の向こうに小さくなっていく男子たちの後ろ姿を見つめながら、千尋の不安は大きくなる一方だった。
すぐ傍では友人二人が楽しげにファッションの話で盛り上がっている。
元々そういう方面にはあまり興味がないせいか、参加する気にはなれなかった。
ふと気になって腕時計を見る。
クラスメイトたちが山へ入って行ってから、まだ15分ほどしか経っていなかった。
その時。
ゾクリ。
背筋に冷たいものが走る。まるで背中に氷片を入れられたような。
直後、山の奥から『うわっ!』と声が聞こえ、男子たちが転がるように、いや時々転びながら斜面を下りてくる。
「── 逃げろっ !!」
引きつった表情でそれだけ叫ぶと、そのまま登山道を猛スピードで駆け下りていった。
「ちょっとぉ〜、一体なんなのよぉ〜!」
既に姿の見えなくなった男子たちに文句をぶつける友人。
訳がわからない、ということに関しては千尋も同感だった。
ザッ!
地を踏みしめる音と共に何かが視界の端を横切った。
山の方へ振り返ったもう一人の友人が、ひゅっ、と喉を鳴らす。
「きゃああああぁぁぁぁぁっ!」
耳をつんざく悲鳴に千尋も振り返った。
そこには山への立ち入りを拒むかのように、一頭の野犬が恐ろしい形相で牙を剥いていた。
ただの野犬ではないことは一目瞭然だった。
その身体はフィルターをかけたようにぼんやりしていて、表面がゆらゆらと揺らいでいる。
血のように赤い双眸は怒りと絶望にたぎっているように見えた。
千尋は咄嗟に友人二人を背中に庇った。
怖い。
膝はカクカクと震えている。
けれどそれ以上に、この状況をなんとかしなければ、という思いの方が強かった。
「……走れる?」
ジリジリと間を詰めてくる野犬から目を逸らさぬまま、後ろの二人に問いかける。
揃って頷くのがわかった。
「風早に知らせてくれる? たぶんまだ学校にいると思うから」
「で、でも千尋……っ !?」
「私は大丈夫、なんとかするから」
躊躇して動こうとしない二人に、
「いいから行って!」
声を荒らげる。
『ごめん千尋!』、と二人はようやく駆け出した。
遠ざかっていく足音に、ふぅ、と息を吐き、改めて野犬と対峙する。
野犬は唸りを上げながらも動きを止めていた。
一対一になってから、やっぱり、と千尋は思った。
この野犬が現れてからずっと、耳の奥で何かが聞こえていたのだ。
話し声のようではあるのだが、ノイズがかかりすぎて聞き取れない。
だが、千尋はこの野犬の『声』だと確信していた。
声の持つ深い悲しみが、心に痛い。
千尋はゆっくりと左手を上げた。手のひらを空に掲げ──
「── はっ!」
ザシュッ!
ギャン!、と耳障りな断末魔を残して野犬は真っ二つに切り裂かれた。
「── こんなところで何をしている」
「え……あ…アシュヴィン、さん…?」
手に抜き身の剣を持ったアシュヴィン。
ひゅっと一振りして鞘に収め、千尋の方へと歩いてくる。
山の中から飛び出してきた彼が野犬を斬ったのだ。
なのに、飛び散っているはずの血も、無残な屍もここには残されていない。
野犬は斬られると同時に煙のようにその姿を消してしまったのだ。
「あ……あの……今のは…?」
アシュヴィンは少し呆れたように千尋を一瞥して、
「── 荒魂── 黄泉に下るはずの魂の成れの果て、だ」
「あら……みたま……?」
魂だから死骸が残らなかったのか。
普通『心霊現象』だとか『オカルト』とか言う言葉で片付けられそうなことではあるが、実際に自分の目でみてしまったのだから信じざるを得ない。
それ以前に彼の言うことに嘘はない、となぜか思えた。
「── で、その手はなんだ?」
「え…? 手?」
指摘されて初めて、千尋は左手を上げたままであることに気がついた。
「な、なんだ、と言われても…………なんだろう…?」
下ろした左手をまじまじと眺めながら。
どうして手を上げていたのだろう?
まるで何かを待っていたかのように。
わきわきと握ったり開いたりしてみたけれど、何も答えは出なかった。
「── まあいい。帰るぞ」
アシュヴィンが剣に大きな布を巻き付け、踵を返す。
「あ、はい! ── きゃっ !?」
たった今まで地に立っていた足は、登山道を下りようとした瞬間に力を失ったらしい。
ぐらり、と身体が傾いていく。
どん、と身体の前面が何かにぶつかった。
どくん。
まただ。
また、何かが流れ込んでくるような感覚。
優しくて、大きな何かに身体全体が包まれていくような。
だんだん遠のいていく意識の中で、アシュヴィンに支えられたのだ、と理解した。
『おい、大丈夫か !?』と遠くで声が聞こえてくる。
つい最近、同じようなことがあったような── ああ、あれはこの人と初めて会った時だ。
あの時はお腹を腕に引っ掛けるようにして支えられたのだけれど。
『初めて』…?
── 私が彼と逢ったのは、あの時が『初めて』だったのだろうか?
そこで千尋の意識はぷっつりと途切れた。
【プチあとがき】
長らくお待たせいたしました。
え゛、待ってない?
まあまあ、そう言わず。
いや、まあ、スランプ中なので文章が支離滅裂というか壊滅的というか。
なんとなく雰囲気で読んでいただけると幸いでございます。
ああ、もうちょっと臨場感溢れる文章が書きたいものだ。
【2009/02/26 up】