■Rewriting of fate 【3:髪】

 シャッ、と勢いよくカーテンを開けた。
 真っ青な空── 夕焼けの翌日は晴れと相場が決まっている。
「── うわ、いい天気!」
 布団を干せば今日の夜はお日様の匂いのふかふかな寝床で眠れるに違いない。
 ── あ、でも季節柄、那岐のお布団は干せないな。
 花粉症に苦しむ彼の姿を思い浮かべて、くすっと笑う。
 もしも彼の布団を干したりしたら、きっと今日の夜はくしゃみ連発で眠れないだろう。
 それ以前に休日は昼前まで惰眠を貪るであろう彼が、素直に布団を干させてくれるとは思えないが。
 窓を開けると、春とはいえまだ冷たさの残る爽やかな空気が流れ込んできた。
 うーん、と思いっきり背伸びをする。
「── それに、洗濯日和、だよね」
 千尋は意気込みに拳を握り締める。
 みんなが出払ってしまう平日は乾燥機で乾かしてしまうから、外に洗濯物を干せる休日が晴天だと妙に嬉しくなってくるのだ。
 お日様の匂いのするふかふかの洗濯物── にんまりと笑みが零れる。
 千尋は窓とレースのカーテンを閉めると手早く着替え、長い髪を簡単に纏めてポニーテールにしてから、脱いだばかりのパジャマを掴んで部屋を出た。

 ベーコンの焼ける香ばしい匂いのするキッチンへ。
「おはよう、風早!」
「おはようございます、千尋。朝から元気ですね」
 エプロンをつけた風早が、フライ返しを手に笑顔で迎えてくれる。
「うん、いいお天気だからお布団干そうと思──」
 ずっと空いていることが当たり前だったダイニングテーブルの一席が埋まっていることに驚いて、千尋は声を飲み込んだ。
 ── そうだった、しばらくこの人がいるんだ……
 コーヒーカップを手に、広げた新聞を眺めている異国の男、アシュヴィン。
 マント姿ではなく、見覚えのあるシャツを羽織っている── あれは風早のものだ。
 昨日とは印象が違うな、と思ったら、後ろ髪の三つ編みが解かれ背中を覆っていた。
 エクステじゃなかったんだ、と妙な感心をしてしまう。
 昨日の夕方、風早と共にどこかに出かけたと思ったら、夜遅くなって疲れた顔で戻ってきて。
 『俺の古い知人です。事情があって、しばらくうちで預かることになりましたから』とだけ説明した風早。
 二人に夕食── チキンソテーの予定だったが、人数が増えると見込んで親子丼に変更していた── を出すと、 『あとのことはいいですから、千尋はテスト勉強してください』と体よく追い出されてしまった。
 彼と少し話をしてみたかったのに。
 夕食は那岐と二人で先に済ませていたし、既に入浴も終えていたから、逆らってまで居残る理由がない。 確かにもう少し物理の勉強をしておかなくては。
 部屋に戻っても、いろいろ考えてしまって勉強は手につかなかったけれど。
 ── 彼はどうして私を連れて行こうとしたんだろう?
 ── 私をどこへ連れて行くつもりだったんだろう?
 ── 彼は……一体何者なんだろう?
 そんな疑問を抱えながら眠りに就き── 朝起きたら忘れてしまっているなんて、我ながら呑気すぎる。
 千尋は持っていたパジャマに鼻先を埋め、
「……おはよう……ゴザイマス」
 ぺこり、と頭を下げる。
「………ああ」
 ちらりと一瞥しただけで再び新聞へ視線を戻した彼は、やけに機嫌が悪そうだった。
 いまだ眠りの中にあるであろう那岐と同じく、朝に弱いのだろうか。
「── 今日は気持ちよく寝られそうですね」
「え…?」
 声をかけられパジャマから顔を上げると、風早が不思議そうに小首を傾げていた。
「布団を干すんでしょう?」
「あ……うん」
「確かに今日はいい天気だから、ふかふかになるでしょうね」
「そう、だね」
 ベーコンエッグをフライパンから皿に移した風早は、アシュヴィンの前からすっと新聞を取り上げて、代わりにその皿を彼の前にドン、と置く。
「ゆうべ使った布団、後で二階に運んでくださいね。千尋の部屋からベランダに出られますから」
「はっ !? どうして俺が──」
「『働かざる者食うべからず』、ですよ」
 ニコリ、と凶悪なまでに爽やかな笑顔を見せる風早。
 反してアシュヴィンの機嫌は更に悪化する。
「……やればいいんだろ、やればっ」
 漂う険悪な雰囲気。
 千尋は洗濯機をセットすべく、そそくさと洗面所へと逃げ込んだ。

 猫の額ほどのささやかな庭いっぱいに干された洗濯物が風に揺れる。
 朝食の後、風早は『学校に忘れ物を取りに行ってから、買い物をしてきます』と出かけていった。
 買い物なら私が、と千尋は申し出たのだが、『千尋に男性用下着コーナーで買い物する勇気がありますか?』と言われれば辞退するほかない。
 どういうわけかまったくの手ぶらだったアシュヴィンのものだろう。二週間は滞在するらしいから、衣類は当然必要になる。
 そのアシュヴィンはといえば、憮然とした態度で布団を二階へ運んだ後、姿が見えなくなった。
 居間にいないところをみると、ここにいる間寝起きすることになった風早の部屋にでも閉じこもってしまったのだろう。
 最初は『怖い人』だと思ったけれど、なぜだか『悪い人ではない』と思えてきて。
 そうかと思えば相当『気難しい人』のようだ。
 でも、やっぱり話をしてみたい。
 彼に腕を掴まれた時の感覚。
 あれが何だったのか、もしかしたらわかるかもしれない。
 千尋の瞳の色によく似た真っ青な空に向かって腕を伸ばして大きく深呼吸。
 振り下ろした腕の勢いそのままに洗濯カゴを拾い上げ、くるんと身体の向きを変える。
「うわっ !?」
 驚きのあまり手から離れたカゴがころんと地面に転がった。
 庭に面した濡れ縁に、胡坐をかいて片膝を立て、その上に頬杖をついてこちらを見ているアシュヴィンがいたのだ。
 たった今考えていた相手がそこにいれば、驚くなというほうが無理な話だ。
「び……びっくりした……いつからそこに…?」
「……ついさっき、だ」
「声かけてくれればよかったのに」
「…………」
 千尋は転がるカゴを再び拾い上げ、胸に抱えたまま濡れ縁── アシュヴィンの隣に一人分のスペースを空けて腰を下ろした。
 あれほど話をしたいと思っていたのに、いざチャンスが巡ってくると何を話したらいいのかわからない。
 相手も口を開く気配はなく、無言の時間が過ぎていった。
 鳥の声、車のエンジン音、遊んでいる子供の声が遠くから聞こえてくる。
 何て話しかけようか、と必死に思考を巡らせていると、一陣の風が吹き抜けた。
 金色のポニーテールがふわりと風に踊る。
「…………思っていたより長い、な」
「え?」
 何のことか解らず千尋は隣へ目を向ける。
 アシュヴィンは憮然とした顔で膝の上に頬杖ついたまま、はためく洗濯物を睨みつけていた。
「……えーと……?」
「……お前の髪だ」
「あ」
 言われて千尋は自分の髪をすっと撫でる。
「いつもは三つ編みにしてきっちり纏めてますから」
 ふぅん、とアシュヴィンは気のない返事をする。
 そう返されたら話が膨らまないじゃないっ── 千尋は洗濯カゴを抱き締めながら、懸命に話題を探す。
「──えっと……あ、アシュヴィンさんも髪長いですよね。何か思い入れとかあるんですか?」
「気づけばこういう形だった……周りの者たちが面白がってやったんだろう。今じゃこれが当たり前になって、気にもならんがな」
「そ…そう、ですか……」
 気だるげな返答に思わずくじけそうになってきた。
 しかし、せっかくの話すチャンスを無駄にするものか、と千尋は気を取り直す。
「あ、あの、今日は三つ編みにしてないんですね」
「……自分でできる長さじゃないだろう」
「じゃあ、私がやりましょうか?」
 ずっと庭の洗濯物へ視線を向けていたアシュヴィンが、初めて千尋の方へ顔を向けた。
 ただし、頬杖を外さぬまま、相変わらずの憮然とした顔を。
「……お前が…?」
 ── え、私、何か変なこと言ったっけ? あっ、もしかして特定の人にしか触らせないとか !?
「ご、ごめんなさいっ、ちょっと言ってみただけなんで、気にしないでくださいっ!」
 慌てて身体の前でブンブンと手を振る。
 余計なことを言ってしまったらしいことに後悔しながら。
「── ならば……頼む」
「え?」
「『頼む』と言ったんだ。聞こえなかったのか?」
 口元に微かな笑みを浮かべているアシュヴィン。
「……は、はいっ! ちょっと待っててくださいねっ!」
 千尋は履いていたつっかけを脱ぎ捨て家へ上がり、カゴを洗面所へ投げるようにして置くと、櫛とゴムを取りに自分の部屋へと駆け上がった。

 そして、アシュヴィンの葦原家滞在中、彼の後ろ髪を編むのが千尋の日課になった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 皇子を顎で使う風早(笑)
 無自覚に積極的な千尋ちゃん。
 そして、まんざらでもないアシュ(笑)

【2009/02/09 up】