■Rewriting of fate 【1:邂逅】

 一人の少女が住宅街を網羅する道の一本を歩いていた。
 手には傘が二本。
 一本は少女自身のもので、もう一本は父親代わり、もしくは兄代わりとして共に暮らす『家族』のものである。
 その家族は彼女が通う高校の教師、ついさっき後にしたばかりの学校へと逆戻りだ。
 家に帰りついた途端聞こえた雷の音に、雨が近いのだろうと傘を手に家を出たものの、振り仰ぐ空は綺麗な夕焼けが広がっていた。
「……あんまり雨降りそうにもないみたい……さっきの雷、なんだったんだろう…?」
 それでももしかするとにわか雨が降るかもしれない、と少女は学校への道を急ぐ。
 いつもなら学校帰りの学生や、買い物帰りの主婦、少し早い帰宅の途に就くサラリーマンたちが行き交う道には誰の姿もなく、 車の一台すら通らないことに、少女はまだ気づいていなかった。

 共に暮らすもう一人の家族に食事当番を押し付けられた彼女は、頭の中で今日の夕飯の献立を組み立てつつ、帰りにちょっとスーパーへ寄ろうかな、 などと考えながら鼻歌混じりに交差点を曲がる。
 そこに佇む人影── 印象は、黒。
 地面すれすれのマントの裾が風に踊っている。
 そこそこ背が高く、体格からして男のようだ。
 栗色の髪の後ろに伸びる三つ編みが黒いマントに一筋のラインを鮮やかに描いていた。
 少女は思わず眉をひそめる。
 ── もしかしてあれが噂のコスプレ? わぁ、初めて見た……アニメかしら、それともゲーム? あの髪、私より長いよね。あ、もしかしてエクステかな?
 怪しげな後ろ姿を観察しつつ、そういう方面には疎い少女は係わり合いになるまいと素知らぬ振りで横を通り過ぎることにした。
 だが、残念ながら男はゆっくりと少女の方へと振り返り、バッチリと視線が絡み合う。
「うっ……」
 そのまま通り過ぎてしまえばいいのに、少女は足を止めてしまっていた。
 それは男の纏う独特な雰囲気のせいかもしれない。
 栗色の癖の強い髪、色素の濃い肌、鋭い眼光──
 ── わ……どうしよう、意見を求められたりとかしたら……ここは正直に『よくわかりません』って答えるしかないよね。
 少女がそんなのん気なことを考えていると、男はすっと目を細め、口元に笑みを浮かべた。
 その笑みに少女は背筋を凍らせ、身を震わせる── それは友好的な笑みではなく、嘲笑に近かったからだ。
「ほぅ……お前が龍の姫か」
「え……?」
 『姫』などという言葉、少女にとっては物語の中のものでしかない。まして自分へ向けられる言葉であるはずもなく。
 混乱する少女は思わず身を守るように二本の傘を胸元に握り締めた。
「黄金の髪に蒼い瞳── それにこの結界に入ってこれるのはその姫だけだと聞き及んでいたが……違うのか? 『豊葦原の千尋姫』」
「── っ !? ちょ…ちょっと待って! 確かに私は『葦原千尋』だけど、『姫』なんて呼ばれる覚えはないわ!」
 傘に縋りつきながら、少女── 千尋は震える声で懸命に虚勢を張る。
「……『記憶を失っている』というのも真か……まあいい、それだけ判れば十分だ」
 男はぶつぶつと呟くと、躊躇いなく千尋に向かって歩を進めた。
 マントをはためかせて距離を縮めてくる男から逃げ出したいのに、千尋の震える足は言うことを聞いてくれない。
「── さて、俺と共に来てもらおうか」
 ── も、もしかして誘拐 !?
 思った途端、無遠慮にガシッと手首を掴まれた、その瞬間──
「─── っ !?」
 ブワッ!
 何かが身体の中に流れ込んでくる。
 何かが身体の奥底から湧き上がってくる。
 その奔流に挟まれ押し潰されそうで息が詰まった。
 けれどそれは恐怖を感じるものではなく、どこか温かく──
 身体からふっと力が抜け、カクン、と膝が折れて、つんのめるように身体が前に傾いていくのを他人事のように感じながら、手から離れた傘が落ちていくのが正面に見えた。
 地面に着地した傘がパタンパタン、と軽い音を立てて転がった。
 その映像はクローズアップするようにどんどん大きくなっていく。
 と、掴まれたままの腕をぐっと引っ張り上げられ、腹の部分を支えられた── 力強い、安心できる腕で。
 ── 『安心』?
 相手は誘拐犯かもしれないというのに、どうしてそう思えたのだろう?
「── 大丈夫か?」
「え……あ、ご、ごめんなさいっ」
 慌てて身体を起こして男から離れる。
 押し潰されそうな感覚はすっかり消えていた。
 だが、さっきまで強く掴まれていた手首はじんじんと痺れたように熱い。
「── お前の邸はどこだ?」
「え……?」
 手首をさすっていた千尋は、男の言葉の意味が理解できずポカンとした顔を上げる。
「だから……送ってやると言ってるんだ」
 僅かに視線を外したコスプレ男は、ばつが悪そうに顔を歪めてぶっきらぼうにそう言い放った。

*  *  *  *  *

「── なんであんなもん拾ってきたんだよっ!」
 台所でお茶の用意をする千尋の傍で激昂する少年。
 千尋のもう一人の『家族』・同い年の那岐である。
 居間のソファをどっかりと我が物顔で占領している黒尽くめの男の様子をちらりと窺いながら、一応彼に聞こえないよう小さな声で捲くし立てる。
「そんなこと言ったって……よろけて倒れそうになったところを助けてくれたんだよ。それで家まで送ってくれるって言うし……」
 概ね間違いではない。確かに地面に倒れ込むところを支えてもらった。
 なぜそんな事態に陥ったのか、という冒頭の出会いの部分はすっぱりと端折ったけれど。
 だが千尋にもわからないのだ── ちょっと支えてもらったからといって、自分をどこかへ連れ去ろうとした男をこうして家に上げて、お茶まで用意しているという自分の行動が。
 わかっているのは『確かめたい』ということ。
 彼と話したら、あの腕を掴まれた時に感じた不思議な感覚が一体何だったのかわかるかもしれない。
「……なんでよりにもよって『常世の国』の人間を──」
「那岐、あの人のこと知ってるの?」
 舌打ち混じりの那岐の小さな呟きを聞き取った千尋は、茶筒の蓋を開けようとした手を止めて小首を傾げて訊ねた。
 ヒクリ、と口元を引きつらせる那岐。
 大きな溜息を吐き、苦い顔の那岐はがしがしと頭を掻きながら、
「……知らないよ、まったくの初対面── ただ、ああいうタイプの服装を知ってるってだけで……」
「そうなの? でも『常世の国』の服なんでしょ? 何のアニメに出てくるの?」
「っ !?」
 言葉を失った那岐は力なくカクンと項垂れる。
「………ほんと千尋ってお気楽だよね」
「ちょ、な、なによそれっ! 知ってるんなら教えてよ!」
「……僕がアニメのキャラに詳しいと思う?」
 そう返されて、千尋はしばし考える。
 ── そういえば那岐がアニメを見てるとこ、見たことないよね……時間さえあれば寝てるし……
 はふ、と溜息が漏れた。
「納得した?」
 千尋の表情を読み取った那岐が苦笑を浮かべた。
「……でも『常世の国』は知ってるんでしょ? 教えてくれたって──」
「千尋は知らなくていいよ、そんなこと」
 噛み殺すような低い声。いつもならどこか力の抜けた発声をする彼にしては珍しい。
 思わず千尋は彼の顔を見る。
 しかしその時にはすでに那岐は千尋に背中を向けていて、表情を知ることはできなかった。
「とにかくさっさと追い返しなよ」
 言い捨てて、那岐はダイニングテーブルの一席に乱暴に腰を下ろした。
 これもまた珍しい。
 機嫌を損ねた後はさっさと自室へ引っ込んでしまうのが彼のいつもの行動パターンだというのに。
 千尋に背を向けテーブルに頬杖をつく彼はこれ以上の質問を拒絶しているように見える。
 質問したところで無視されるのがオチだろう。
 コンロの上でヤカンがシュンシュンと勢いよく蒸気を吹き出し始めた。
 カチリ、と火を止める。
 ざわざわする胸の内を持て余し、小さく溜息ひとつ。
 気を取り直して茶筒の蓋をぐいっと引っ張る。
 スポンッ、と間の抜けた音と共に広がる緑茶の爽やかな香りも、胸のざわめきを抑えてはくれなかった。

*  *  *  *  *

 三つの湯飲みにお茶を注いで一つを那岐の前へとそっと置き、客用の湯飲みといつも使っている自分の湯飲みとをトレイの上に乗せて。
 それを居間へ運ぼうと持ち上げたところでガチャッと勢いよく玄関が開き、さして長くもない廊下をバタバタと走る音が聞こえてきた。
「千尋っ!」
 血相を変えて駆け込んできたのは、千尋が傘を届けようとした相手・風早。
 三人で暮らす家に既に二人が帰っているのだから、残るは彼しかいない。
 だがいつも飄々と落ち着いている彼がこんなに慌てふためいているのを初めて見た、と千尋は思った。
「あ、風早、お帰りなさい」
「千尋……よかった、無事で……」
 トレイを持った千尋の顔を見るなり身体の力が抜けたのか、風早は戸口に縋りつくように凭れかかって大きな息を吐く。
 と、ソファに座る人物に気づいた彼の顔が一瞬にして険しくなった。
「君は……」
「ふ……俺を見知っている、か……向こうの男は俺が誰なのかまでは知らなかったようだが」
 台所のテーブルでお茶を啜っていた那岐が、ごふっ、とむせた。
「風早、この人を知ってるの? えーと……あ、まだ名前を聞いてなかったわ」
「ああ、そういえば名乗っていなかったな。俺は──」
「どうして君がここにいるんですか? アシュヴィン」
 名乗ろうとしたアシュヴィンを遮って、風早が問う。
 ── へぇ……『アシュヴィン』かぁ、外国の人なのかな? すごいな、日本のオタク文化って。
 あくまで彼がコスプレイヤーだと思っている千尋の思考はこの場の緊迫した空気から完全にズレていた。
 けれど風早が彼のことを見知っていることがわかって、どこかほっとしているのも事実。
 ローテーブルに湯飲みを置いて、風早の分のお茶を入れるために台所へ戻った千尋がトレイを手に再び居間に戻ってくると、いつの間に出て行ったのか二人の姿はもうそこにはない。
 今日はなんだかよくわからないことばかり起きる日だ、と千尋はほわほわと湯気を上げる湯飲みを見つめて溜息を吐いた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 ギャグなのか、シリアスなのか……あぁ、方向性が……
 とにかく、あたしはどうやら『現代パラレル』というヤツをやりたかったようで。
 千尋さんは普通に女子高生でいいんだけど、アシュの設定をどうしようかと悩みまして。
 悩んだ挙句、アシュはどう考えても『常世の皇子』なんですわ。
 だったら柊の代わりに来ちゃおうよ、という考えに至ったらしいです。
 さて、姿を消した天地青龍はいずこへ?

【2009/02/03 up】