■Fall in love with you again and again 【17:悲劇の終わり】
根宮の皇族が住まう階にずっと漂っていた帯電したような緊張した空気はすっかり薄れ、あの滝での忌まわしい出来事から一月が経とうとする頃──
出先から戻ったアシュヴィンが中庭で黒麒麟から降りると、回廊の柱の間からリブと千尋付きの女官が顔を覗かせていた。
「── や、アシュヴィン様。
お姿が見えぬと思えば、どちらかへお出かけでしたか」
「……まあ、な」
悪戯しているところを見咎められた子供のようなバツの悪さを感じながら、黒麒麟を闇へと返し、柱の間から回廊へと上がり込む。
実は彼は執務室を抜け出し、ある場所へと赴いていたのである。
事の発端──
あの滝へ。
この数日、千尋からこの二年間の思い出話を聞かせてもらうのがアシュヴィンの日課になっていた。
彼女が語る『波乱万丈の冒険物語』は、登場人物の一人が自分であるにもかかわらず、他人事の作り話のようにしか聞こえないことに悔しい思いをしながら耳を傾ける。
知識としての共有はできても、今のままでは『思い出の共有』にはなりえないことに臍を噛みつつ。
だから、なんとしても記憶を取り戻したかった。
『絶対に記憶を取り戻す』と宣言したのだ、裏切ることなどできるものか。
かといって、どうすればいいのかなど見当もつかなかった。
腕組みをしてウンウン唸って考え込んでみても、埋もれた記憶はそう簡単に顔を出してはくれない。
時間の無駄だった。
そして今朝、何かのきっかけになれば、と思い立ち、あの滝へ出向いてみたのである。
清廉な滝はただ大量の水を落とし、そこから続く川の源流になっていることしかわからなかったけれど。
「── 馬の準備が整いました!」
バタバタと駆け寄ってきた兵が跪いて報告する。
「ありがとう、すぐに参ります」
にこやかに答えた女官は、何かを思いついたようにパンと胸元で手を合わせた。
「そうだわ、アシュヴィン様もご一緒にいかがですか?」
「……何をだ?」
「わたくし、今から千尋様に昼のお食事をお届けしに参るところですの」
「届けに…?
千尋はどこかへ出かけているのか?」
アシュヴィンの眉間にぐっと皺が寄る。
女官は意味ありげにくすっと笑い、
「はい、シャニ様のお誘いで碧の斎庭へ。
輿にお乗せしましたから、お身体にご負担はかかりませんわ」
そうか、とほっとしたように呟くアシュヴィンの眉間の皺が薄らいだ。
「……ならば二人の食事は俺が持参しよう」
「いえ、それは馬で運ばせますので、アシュヴィン様は先にお発ちください」
よほど不思議そうな顔をしてしまったのか、女官はさらにくすくすと笑うと、
「シズル殿と女官数名が千尋様のお供をしております。
それに輿の担ぎ手もおりますゆえ、お食事は十人分ほどになりますの。
それをアシュヴィン様に運んでいただくわけにはまいりませんわ」
何がそれほど楽しい?、と聞きたくなるほどの見事なまでの笑みを見せる女官。
隣のリブはといえば、細い目をいつも以上に細めてニコニコ──
いや、ニヤニヤと笑っている。
「そ…そうか……」
二人のすべてを見透かしたような視線に耐え切れず、うろたえ気味のアシュヴィンはマントを翻して踵を返した。
回廊から中庭に降りて再び黒麒麟を呼び出すと、
「── アシュヴィン様!
今日は急ぐ仕事もありませんからごゆっくり!」
背後からかけられた側近の声に思わず転びそうになりながら、急いで黒麒麟に飛び乗りその場から逃げ去った。
上空から見下ろすと、鮮やかな彩りを区切る小道にぽつぽつと人の姿が小さく見えた。
そのうちの一点を目指し、黒麒麟の高度を落としていく。
「── 兄様!」
目敏く自分の姿を見つけてブンブンと頭上で手を振っている弟のところへ降り立った。
「兄様がお昼ご飯持ってきてくれ──
たわけじゃないんだね?」
「当たり前だろう……すぐに運んでくるそうだ」
手ぶらのアシュヴィンの頭の天辺から足の先までを眺めて残念そうに呟くシャニに苦笑して。
それから彼の隣で微笑んでいる千尋へと視線を移す。
「……出歩いて大丈夫なのか?」
「ええ、今日はつわりもひどくないし。
それに綺麗なものを見たら胎教にもよさそうじゃない?」
ふふっと笑う彼女はそっと下腹を撫でる。
柔らかな微笑みは『母の顔』というものなのだろう。
そうだ兄様、とシャニはぴょんと跳ねた。
動作と同じく弾むような声からして、二人が穏やかに並び立つ姿がよほど嬉しいらしい。
「せっかくだからさ、二人でお花を楽しんできてよ。
僕たちは先にあっちの東屋に行ってるね」
「そうだな……行くか」
「え、でも……」
柔らかな眼差しで見下ろしているアシュヴィンを上目遣いで窺いながら、少々頬を朱に染めて戸惑っている千尋。
そんな義姉の様子にシャニはにこりと笑い、
「ねえ義姉様、ちょっと手を貸して」
「え?
手…?」
首を傾げながらもおずおずと出された千尋の手をやんわりと引っ張り、その手をアシュヴィンの腕に掴まらせた。
「シャ、シャニっ !?」
「義姉様、転ばないように兄様にしっかり掴まっててよね」
「やだ、私そんなに慌て者じゃないわ!」
「……さて、それはどうかな?」
「ひどいっ! アシュヴィンまで!」
真っ赤な顔で抗議する千尋を見て、兄弟は声を立てて笑うのだった。
目の前の小さな丘ひとつを埋め尽くすのは白い花。
むせかえるような濃密な芳香が身体の中にまで染み込みそうなほどに漂っている。
「── 笹百合、か」
「ええ………綺麗ね」
「そう、だな」
並んで白い花を眺めている彼らは、仕方ないこととはいえ、どこかぎこちない。
けれど千尋のほっそりとした手は、アシュヴィンの逞しい腕にずっと添えられたままだった。
「……アシュヴィンが、ここに笹百合を植えるようにシャニに頼んでくれたんですってね」
「……そうらしいな」
ふ、と漏れた小さな笑い声に、千尋は隣を見上げた。
そこにはじっと百合の花に視線を据えたまま、口元に自嘲気味の笑みを張り付かせたアシュヴィンの横顔があった。
曖昧な答えは、彼にとってその事実は人から聞いた知識でしかないから。
「── この花を見ていると……なぜ俺が出雲でお前をあの谷に連れて行ったのか、解らなくもない」
「え…?」
その頃、彼らはまだ敵同士。
何を思って彼女にあの光景を見せたのか、今のアシュヴィンには知る由もない──
が。
「恐らく、この花にお前の姿を重ねたんだろう──
真っ直ぐに伸びた茎に可憐な真白き大輪の花を咲かせ、だが頭(こうべ)を垂れる謙虚さも忘れない」
「え……ええっ !?」
ぶわっと赤くなって慌ててぱっと後ろへ飛び退ろうとした千尋の腰を、さっきまで彼女が掴まっていたアシュヴィンの腕が引き止めた。
「暴れると転ぶぞ」
「あ、暴れてなんか── っ」
「第一どうしてお前がそこまで照れる?
俺は花の話をしただけだろう」
「で、でもっ、す、姿を重ねたって……」
アシュヴィンは答えることなくさも可笑しそうにくつくつと笑うと、千尋の腰を支えたまま、空いている手を一番手前で咲いている一輪の百合の花へと伸ばす。
「── あっ、だめっ!」
千尋が声を上げた時には、既に花は摘まれ、アシュヴィンの手の中にあった。
「あ、あのね、やっぱり花は地に根付いたまま咲いているのがいいんだと思うの」
怪訝な顔をしていたアシュヴィンは手の中の花に目を落とすと、
「……我が妃は慈悲深いな。
だが──」
手折った笹百合をすっと千尋の髪に挿し、彼女の額にそっと口付け、名残惜しそうに頬を撫で。
その流れるような動きに千尋は何も言えずに口をパクパクさせている。
「── お前を美しく飾りたいと思ったまでだ。
許せ」
アシュヴィンはニヤリと笑う。
「もう……っ」
さっきから赤くなりっぱなしの顔を俯けてしまった彼女が、アシュヴィンには可愛く見えてしかたなかった。
ちょうどその時。
「── 兄様ー、義姉様ー、お昼ご飯が届いたよー!」
叫ぶ声に振り返ると、頭上で大きく手を振りながらシャニがぴょんぴょん跳ねているのが小さく見えた。
「はーい!
すぐ行くわ!」
千尋が手を上げてそれに答える。
「── この匂いが平気なら、ここで花を愛でながら食べるというのも悪くないな」
思いついたことを素直に言葉にした。
なんとなく、このままこの場から離れてしまうのが惜しまれるような気がしたのだ。
あっ、と声を上げた彼女は両手を頬に当て、目を丸くしている。
「……そういえば、こんなに強い香りなのに吐き気がしないわ……不思議ね」
「この花は特別、というわけか」
「ええ……きっとそうね」
顔を見合わせ、微笑み合って。
「ならば何か適当に貰って来るとするか」
彼らの背後、少し離れたところでふよふよと浮かんでいた黒麒麟──
彼もまた咲き乱れる花を楽しんでいたのかもしれない──
が、すいっと近づいてくる。
アシュヴィンは近くにあった長椅子に千尋を座らせておいてから、黒麒麟の背にひらりと跨った。
* * * * *
── 私を翻弄してそんなに楽しいのかしら。
そんな恨み言を心の中で呟きながら、宙に舞い上がっていく麒麟の姿を見上げつつ、かっかと熱い頬を押さえてほぅと溜息を吐く。
数日前に彼の想いを聞いて以来、身体がフワフワして所在なくて。
彼の言動にいちいち過剰反応している気がする。
くすぐったいような居心地悪いような。
けれど気分はいいような。
片思いが成就して両思いになる、というのはこういう気分なのかもしれない、と千尋は思った。
この世界に戻るまで恋を経験したこともなく、アシュヴィンのことが好きだと自覚したのは既に結婚した後だったので、実際のところはよくわからないが。
「……あなたもいるのにね」
下腹を撫でながら、くすくすと笑う。
再び空を見上げ、
「── えっ !?」
そこに見えた異変に、千尋は思わず椅子から立ち上がった。
黒麒麟が背に乗るアシュヴィンを拒絶するかのように暴れまわっていたのだ。
アシュヴィンは歯を食いしばってたてがみを掴み、必死に御そうとしている。
強く掴まれてちぎれたのか抜けたのか、黒く艶やかなたてがみの毛がキラキラと光って宙を舞っていた。
「鎮まって黒麒麟!
アシュヴィンが落ちちゃう!」
暴れ馬のように跳ね回る黒麒麟は、普段なら従順に従う千尋の声にも耳を貸すことなく、さらに狂ったように身体を揺らす。
「黒麒麟っ!
やめてっ!」
高く舞い上がったかと思えば急降下、ぐいっと身体を捻った瞬間、
強い遠心力に引っ張られてたてがみから手を離してしまったアシュヴィンの身体は笹百合の咲く丘の頂上へドサリと振り落とされていた。
「いやっ!
アシュヴィンっ!」
ついさっき『手折るな』とたしなめたはずの百合の花を踏み散らし、千尋は丘へ駆け上がる。
「アシュヴィンっ!
大丈夫っ !?」
到着した頂上で無残に踏み潰された花に埋もれて大の字になっているアシュヴィンは、意外にも目を開けていた。
彼が落下した距離は2メートルもなかったし下敷きになった笹百合がクッションになったはずだから、命に関わるようなことはないだろうが──
それでももし打ちどころが悪かったら、と考えれば背筋が凍る。
アシュヴィンがパチパチと瞬きをしたのが見えて、ほっと胸を撫で下ろした。
「……よかった」
途端に力が抜け、千尋はアシュヴィンの頭の横にへなへなと座り込む。
「どこか打ったりしてない?
痛いところは?」
「…………中つ国へ行くぞ」
空の彼方を見つめたまま、ゆっくりと呟かれた言葉。
「え? 中つ国……?」
「……風早に『記憶が戻ったら覚悟しておけ』と言われたからな」
ニヤリ、と卑屈っぽい笑みが浮かぶ。
「そ、それって… !?」
「ああ……ずっと頭の中にかかっていた靄が晴れたようだ」
やっと訪れたのだ、待ちわびていたこの瞬間が。
千尋は安堵と喜びの気持ちを言葉にしたいのに、何も出てきてはくれなかった。
それを代弁するかのようにぽろぽろと涙が零れ落ちる。
ずっと空に向けられていたアシュヴィンの視線がゆっくりと下りてきて、千尋の顔の上に止まった。
「千尋……辛い思いをさせた……ごめん」
呟いた彼は今にも泣き出しそうに顔を歪め、彼女の頬に手を伸ばし、流れる涙を手のひらでそっと拭う。
「……『ごめん』なんて言葉じゃ済まないわ」
「そうだな……償うさ、一生をかけて」
心底申し訳なさそうな、なんとも情けない顔で笑ったアシュヴィンは、上体を捻りつつ起こし、そのまま千尋の膝へと崩れ込んだ。
ふわりと彼女の腰に腕を回し、腹に顔を埋めて。
「── お前の母を泣かせた、この父を許してくれ…」
そう懇願するように呟くアシュヴィンの頭を、千尋は愛しげにそっと撫でた。
【プチあとがき】
祝・記憶復活っ!
どういうきっかけでアシュさまが記憶を取り戻すのか、
いろいろ予想なさった方もいらっしゃるかと思いますが……
結局こうなりました(笑)
脳震盪などで損傷した脳は3週間ほどで修復されるそうです。
ほっといてもひょっこり戻ったのかもしれませんが、
黒麒麟がちょっとしたショックを与えてみたら思い出しちゃった、って感じで。
記憶喪失時の記憶は戻ってきた記憶と置き換わると聞いたことがあるのですが、
今回アシュは全部覚えてます。
それはまあ、白麒麟さんのお力ということにしておいてください(汗)
じゃないと話が進みませんので。
さて、黒麒麟の行動の真相は……
1. 千尋大好きな黒麒麟がもどかしさのあまり強硬手段に出た
2. 風早に命令されて機会を窺っていた黒麒麟が『今だ!』と実行した
3. 暴れてみたかっただけ
さあどれでしょう?
【2008/12/08 up】