■Fall in love with you again and again 【16:心のままに】
自分の執務室まで引き返し、アシュヴィンはさっきまで座っていたどっしりとした椅子にドサリと腰を降ろした。
机の上には『早く片付けろ』と言わんばかりに竹簡が広げられたままだ。
席を立つまで読んでいた竹簡に再び向き合っても、飽和状態の頭には何も入ってこない。
国の情勢を記した文字は意味を持たない図形の羅列と化してしまっていた。
ぱっと見は熱心に仕事をしているようなポーズで、その実ぼんやりとしたまましばらく時間が経ったところで軽いノックの音と共に扉が開く。
「── や、まだこちらにおいででしたか」
「……今日の仕事は終わりじゃなかったのか?」
ただ眺めているだけの竹簡から目を上げることもなく憮然と問い返す。
忠実な側近は彼女を部屋まで送り届けた後、自分の様子を窺いに来たのだろう、とアシュヴィンは勝手に決め付けた。
「少々忘れ物をしまして」
リブは部屋の奥の書棚の前で何やらごそごそと竹簡を弄んでいる。
「── それにしても……すごい方ですね、あの方は」
思い出したように呟くリブに、アシュヴィンは視線だけを向ける。
書棚を漁るリブは背中を向けたままだった。
「……誰の…ことだ?」
「お聞きになっていたでしょう?」
「っ…」
言葉に詰まってしまったのが答えである。
確かに地下牢へ下りる階段に身を潜め、話を聞いていたのは事実だった。
彼女が己の命を奪おうとした相手とどんなことを話すのか、興味にかられてしまったのだから仕方ない。
あまり誉められた行動だとは言えないことは重々承知だ。
恐らく気付かれているだろうとは思ってはいたが、ズバリ指摘されてしまうとさすがにバツが悪かった。
「あの短い時間ですっかり改心させてしまわれた──
あの男の口から初めて謝罪の言葉を聞きました」
「……詫びて済むなら、法も裁きもいらんだろう」
「それはそうですが」
リブはくすくすと笑いながらまだ竹簡を漁っている。
「けれど、此度のことであなたが命を落とされていたらと思うと他人事ではありません──
まあ、そんなことがもしもあれば、あの方が殺生以外の方法で仇をとってくださるので私の出る幕はないでしょうが」
「……リブ、言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「そろそろご自身の心の動きに素直になられてはいかがかと思いまして」
ああこれだ、とリブは嬉しそうに呟くと、乱してしまった竹簡の山をざっと整え、一本の竹簡を手に戸口へ向かう。
いつも笑みを貼り付かせたような顔に更に喜色を滲ませて、それでは、と一礼して扉の向こうへ姿を消した。
残されたのは無関心を装ったまま側近の真意を探っていた、渋面のアシュヴィン。
「……『素直に』…?」
苦々しく呟いて、考え込むことしばし。
そして。
ふ、と口元に笑みを浮かべたアシュヴィンは、読み続けることを放棄してしまった竹簡を手早く片付け、執務室を後にする──
彼の側近が『忘れ物』と称して持ち出した竹簡は、開かれることすらなく明日の朝には元の場所に戻されるのだろう、と苦笑しながら。
アシュヴィンが自室の扉を開けると、中はまるで夜更けのようだった。
窓の外に広がる空はまだ夕焼けの茜色と夜闇の藍色が混ざり合っている程度の時間だというのに。
戸口辺りは明かりが灯されているが、奥は闇。
動くもののない、静謐な空気。
頭の中にごちゃごちゃと詰め込まれていたものが、さっきの側近の嫌味混じりの一言ですっきりと片付けられたような気がして。
そうなると事は至極簡単なことのように思えてきた。
そんな訳でせっかく覚悟を決めてきたというのに、その相手が不在とは。
完全な肩透かしをくらってアシュヴィンの口から知らず溜息が零れた。
アシュヴィンは夕食を先に済ませてしまおうと──
楽しかろうが悩んでいようが、人は生きている限り腹が減る──
部屋を出ようとして、奥で何かガサガサと物音が聞こえて部屋に足を踏み入れた。
音を頼りに進んでみれば、寝台の上には薄い上掛けに包まり、身体を丸めて眠っている千尋の姿。
「……………なんだ、いたのか」
思わず呟いて、起こしてしまうのも憚られて慌てて口を噤む。
なんだか脱力してしまい、眠る彼女の足元に腰を降ろした。
「ん……」
静かに座ったつもりだったが、僅かな軋みも彼女を目覚めさせるには十分だったらしい。
小さく身じろぎして、千尋はゆっくりと目を開けた。
「………あ、アシュヴィンっ !?
やだ、私、眠って……ちょっと休もうと思っただけなのにっ」
慌てて身体を起こした彼女はおろおろしながら乱れた髪を撫で付ける。
本当に眠るつもりはなかったのだろう。
彼女が身につけているのは夜着ではなく、さっき階下で見た衣装のままだった。
「……眠いのなら、寝ていればいい」
「あ、ううん、大丈夫、平気だから」
アシュヴィンは寝台から立ち上がり、食堂へ向かおう──
として、くんっと後ろに引っ張られて肩越しに振り返る。
いつの間にか正座していた彼女がマントを掴んでいた。
「……………なんだ?」
「あっ、ご、ごめんなさいっ!」
頬を赤く染めた彼女がパッと手を放すとマントはふわりと空気を孕み、足に纏わりつくように垂れ下がった。
「あ、あの……朝……言ってた…のは…?」
そういえば今朝、『時間が欲しい』と告げていたのだった。
不安げに見上げる彼女の目は、彼が今日一日で出した答えを求めている。
……出鼻を挫かれたせいで仕切り直したいところではあるのだが。
どこか覚悟を決めているようにも見える彼女から顔を逸らして正面を向き、観念してふぅと息を吐き、気合いを入れるかのように大きく息を吸い込んで。
「── 以前の俺は、お前を愛していたか?」
アシュヴィンが発した言葉は想定外だったのか、彼女は一瞬戸惑った。
が、すぐに『ええ』と力強い答えが返ってくる。
「そんなに簡単に断言してもいいのか?
人の心の中までは見ることはできまい?」
「そうだけど……でもわかるわ」
躊躇いなく言い放つ彼女の言葉に、アシュヴィンは小さな笑みを浮かべる。
「ならば………お前は、以前の俺を愛していたのか?」
息を飲む気配がして、それから彼女は黙りこくってしまった。
彼女が今どんな表情をしているのかが気になり始めた時、
「─── 『以前』とか、過去形なんかで言わないで」
聞こえた潤んだ声に、アシュヴィンは何も考えられずに振り返った。
「……何があってもアシュヴィンはアシュヴィンだし、何があっても私の気持ちは変わらないわ」
ふるふると震える拳を膝の上でぎゅっと握り締め、今にも零れそうなほどに涙を溜めた蒼い目で睨むようにじっと見上げてくる千尋。
手を伸ばしたくなる衝動をぐっと抑え込み、更に問いかける。
「── このまま俺の記憶が戻らなくても、か?」
千尋はこくんと頷いた。
弾みで涙が一滴、彼女の膝に小さな丸い染みを作る。
彼女の涙には何か特別な力があるのかもしれない──
アシュヴィンはさっき腰掛けていた場所に再び腰を降ろしていた。
俺は、とアシュヴィンは口を開く。
開いた膝の間に指を組み合わせた腕をダラリと垂らし、背中を丸めて。
こんなにも自信なげな彼の姿を、これまで誰も見たことはないだろう。
「── 昨日、お前とエイカが話しているのを聞いて、お前が死に至る病に冒されているのだと思った。
最期を看取ってやるつもりになった」
千尋が、え、と声を上げた。
振り返れば彼女は目を丸くして両手で口元を押さえている。
まあ聞け、とアシュヴィンは自嘲の笑みを浮かべ、再び足元に視線を戻した。
「── だが、一夜明けてみれば──」
アシュヴィンはククッと喉を鳴らして笑った。
「俺にはお前と睦み合った覚えはない。
ならば誰の子だ、と考えて当然だろう。
だが、俺に似た姫を想像して嬉しそうに話しているのを聞けば、認めざるを得まい?
── 恋敵は他でもない、俺自身だった、とな」
「ええっ !?
それも聞いてたのっ !?」
耳まで真っ赤に染め上げ、頬をすっぽりと両手で覆い、激しい瞬きをしながら視線を泳がせて。
自分の命を奪おうとした罪人のところへわざわざ出向いていき、妻と認めてもくれない男のために弁明するような強さを持っている女なのに──
可愛い、と思わないわけがない。
アシュヴィンは腰を捻り、彼女の方へ身体の向きを変えて座り直した。
「── ひとつ、頼みがある」
「な、なあに…?」
彼女も身じろぎして姿勢を正す。
「俺とお前が出会ってからこれまでのこと、聞かせてくれないか」
「え……」
「失った記憶はいつか必ず取り戻してみせる。
だがそれまでの間、記憶の代わりに知っておきたいんだ──
お前と共に過ごした時間を」
瞬間、彼女の見開いた目からはらはらと涙が零れ落ちる。
ぐっと強い力で押さえつけられたかのように胸が苦しくなった。
「……泣くなよ──
お前に泣かれると、どうしていいかわからなくなる…」
苛立たしげに頭をがしがしと掻く。
途端に彼女の涙は滝のように激しくなった。
「なっ、なんでそこまで泣くっ !?」
「── だって、やっぱりアシュヴィンなんだもん」
「はぁ?」
「前にも言ってたわ……『お前に泣かれるとどうしていいかわからない』って」
胸の苦しさは痛みに変わった。
「……俺はお前を泣かせてばかりなんだな」
「今はいいの──
嬉しい涙だから」
千尋はすんっと鼻をすすり、涙でぐちゃぐちゃになった顔でふわりと微笑んだ。
その笑顔がやけに美しく見えて、アシュヴィンは照れ隠しに思わず彼女がさっきまで使っていた上掛けを掴んでぼふっと彼女の顔に押し付けた。
乱暴にぐしぐしとこすってやると、千尋は『痛いよアシュヴィン!』と仰け反りながら後退り。
アシュヴィンの手を逃れてペタンと座り込んだ彼女は傍にあった枕を手繰り寄せて抱き込んで。
そこにまだ赤い顔を半分埋めつつ、上目遣いになりながら、
「………で、でも、それって……もしかして……」
── 『恋敵』と言った時点で気付けよ…
心の中で苦笑混じりにひとりごちながら、身体を乗り出し手を伸ばし、触れた彼女の小さな頭を引き寄せ、震えている薄紅色の唇にそっと口付けた。
【プチあとがき】
今回はリブに仕事をさせてみました(笑)
それにしても……うわぁアシュさま、しゃべるしゃべる(笑)
本当はアシュの心の声で展開させる予定だったんだけど、
書いてるうちに予想外にアシュが素直になられたようで(笑)
うーん、『言葉足らずなんだけど、でも千尋にはわかってるよ』みたいな
展開にするつもりだったんだけどなー…
ある意味、急展開。
復縁おめでとう(笑)
【2008/12/02 up】