■Fall in love with you again and again 【15:断罪】
この数日で慎重に歩くのが癖になってしまった千尋はゆっくりとした足取りでテラスへと出た。
昼間は随分気温が上がって汗ばむほどだったが、夕方ともなれば吹く風も心地よい。
低く傾いたブラッドオレンジのような太陽が、その果汁をこぼしたように西の空を赤く染め上げている。
はぁ、と溜息を吐いてそっと下腹に手を当てる──
その仕草もすっかり癖になっていた。
今朝、エイカからシズルを紹介されているところに戻ってきたアシュヴィン。
土蜘蛛たちが静かにその場を辞し、二人きりになったところで彼の口から出たのは『少し考える時間が欲しい』の一言だった。
── やっぱり素直に喜んではもらえないよね…
またも零れる溜息。
今日一日ずっとこんな調子だった。
彼は何を考えるのだろうか?
そして、どんな答えを出すのだろう?
もしも自分が男だったとして、全く知らない女の人に『私があなたの妻よ、お腹にはあなたの赤ちゃんがいるの』などと聞かされても信じられるはずもない。
今のアシュヴィンはきっとそんな状態なのだ。
もしかすると『中つ国へ帰れ』と言われる可能性もある。
── 覚悟を、しておいたほうがいいのかもしれない。
とはいえ、ただ待っているのは落ち着かなかった。
何かしなければ、と考えてふと思いつき、千尋は部屋を出た。
千尋が向かったのは文官たちの執務室だった。
今は夕方。
朝早い時間から行われた審問はいくらなんでも終わっているはず。
あの老文官がどう裁かれたのか、知っておきたいと思ったのだ。
扉をノックしてそっと中へ入る。
突然の后妃の訪れだがそう珍しいことでもなかったため、文官たちはいつも通りにこやかに彼女を迎え入れた。
「これは妃殿下。
どうなさいましたか?」
「お仕事中にごめんなさい。
今日の審問の記録を見せてもらおうと思って」
すると文官たちは少し眉を曇らせ、顔を見合わせた。
「どうかしたの?
まさかまだ終わってないとか?」
「いえ……審問は昼には終わっております。
が、しかし……」
彼らはなぜ渋っているのだろう?
疑問に思って部屋の中を見回すと、他の文官たちも一様に複雑な表情を見せていた。
ふと、机の上に広げっぱなしになっている竹簡を見つけた。
「あ、もしかして清書したばかりで乾かしてたの?
大丈夫、汚したりしないわ」
つかつかと竹簡の置かれた机に歩み寄る。
「いや、それは、あのっ」
慌ててついて来た文官は諦めたように溜息を吐くと、
「…妃殿下、お読みになるのはお止めしませぬが……お気を確かに持たれませ」
そう言って下がっていった。
千尋は首を傾げながらも竹簡を覗き込んだ。
常世の文字には慣れたつもりではあったけれど、やたら難しい言い回しで書いてあるので読みにくかった。
ちょっとした暗号の解読に近いものがある。
なんとか読み進めると、まずは罪状として『皇とその妃の暗殺を企てた罪』とあった。
── 『父殺し』の皇の下では常世の国の繁栄は望めない。
この国のためには皇を抹殺し、自分が頂点に立たねばならないのだ──
老文官はそう語ったと書かれている。
仲間と呼べるのは温泉村を混乱させた若者ひとりくらいのもので、そんな大それたクーデターをたった一人でやり遂げられる訳がないのに。
千尋はそっと溜息を吐く。
それから、逃亡時のことが書かれたくだりに入る。
文官長に呼び出された時点で企てが露見したことを察し、逃げることを決意した、と。
次の一文を読み進めるうち、ゾクリと寒気を感じて千尋は思わず自分の身体を抱き締めた。
小難しい文章を要約すると、
『逃げる前にせめて妃だけでも殺しておこうと思って呼び出したが、あまりにも無防備についてきた妃を見ていたら自分の手を汚すのが馬鹿馬鹿しくなったので、
縛って転がしておくだけにしておいた』
と証言したと書いてあったのだ。
つわりとは別の吐き気に襲われ、喉元をさすりながら大きく深呼吸する。
文官が『気を確かに』と言ったのはこれだったか、とようやく気付いた。
吐き気も落ち着いて、最後まで竹簡を読む。
彼に与えられた罰は、残る生涯を地下牢で送ること、だった。
* * * * *
皇の執務室での仕事を終えたリブは、今日一日ずっと考え込んでいた主を残したまま部屋を退出した。
長い付き合いである主の扱いには自信があったが、今日に限っては扱いにくいことこの上なかった。
書き物をしていればいつしか筆が止まっているし、話しかけても聞こえていない。
まあ、彼がそういう状態になっている理由は見当がついているのだが。
回廊に出て、ずいぶん涼しくなった空気を胸いっぱいに吸い込み自分の執務室へ戻ろうと身体の向きを変えたその先に、主の物思いの原因であろう人物の姿が見えた。
「── 妃殿下!」
足を止めて振り返った彼女に駆け寄った。
「お部屋にいらっしゃらなくてよろしいのですか?」
「ええ、大丈夫」
千尋の身に起きたことは本来なら国を挙げて喜ぶべきことなのに、それができないでいる。
今もその事実を知るのは彼女に近しい者と生活面で直接彼女と関わる者、ごく僅かに限られているのだ。
その事実をどう受け止めていいのかわからない主は思い悩んでいる。
そしてそれを受け入れてもらえない彼女は、今最も辛い思いをしていることだろう。
「── あ、あのね、ちょっと行きたいところがあって」
「……この先は地下牢ですが」
「うん……あの人と少し話をしてくるわ」
彼女はくるりと踵を返し、地下牢へ降りる階段に向かって歩き始めた。
『あの人』とは今日裁かれた老文官のことだろう。
ふと、リブは気配を感じて振り返る。
さっき彼女を呼び止めた声が聞こえたのか、執務室の扉の前にアシュヴィンが佇んでいた。
彼は小さく顎をしゃくって見せる。
『行け』ということか。
リブも小さく頷き返し、
「妃殿下!
私も一緒にまいります!」
彼女の後ろ姿に声をかけ、追いかけた。
階段を降りるにつれ、ひんやりと湿った空気に変わっていく。
この一年、牢送りになるほどの罪を犯したものはいない。
今この地下牢にいるのは今日裁かれた老文官と、先に捕らえられた青年の二人のみ。
青年の方は五年間の牢暮らしが既に決まっていた。
ちなみに青年が引き入れ滝での襲撃に加担した村の若者数名は村長預かりのお沙汰待ち状態になっている。
青年が捕らえられたことで自分たちの犯した罪の大きさに気付き、後に村長のところに名乗り出たのだ。
見張りの兵を階段の上まで下がらせておいて、リブは千尋を伴って文官が入れられた牢の前まで進んだ。
独房の奥で膝を抱えて項垂れていた老文官は二人の出現に気付き、ゆるゆると顔を上げる。
審問の場では瞳の奥に炎をたぎらせ周囲を睨みつけていたが、今の彼はたった半日ですっかりやつれきってしまっていた。
「……愚かな老いぼれを嗤いに来られたか…?」
「いいえ……誤解を解いておきたくて」
地を這うような低く暗い声で唸る老人に、千尋は静かに告げる。
老人はぴくりと眉を動かしただけで、興味がなさそうに膝に顔を埋めた。
「── アシュヴィンは実の父親を殺してまで国が欲しいなんて思う人じゃないわ。
この国を──
世界を守るためには仕方なかったの。
一番辛かったのはアシュヴィンなのよ」
老人がほんの少し顔を上げる。
「荒魂になってしまった人間は、人に戻ることも和魂になることもできないの」
「……それは…どういう…」
「前の皇は荒魂になって黒龍に操られていたの。
この世界を滅ぼそうとする黒龍を止めるために、皇に僅かに残っていた人としての意思がアシュヴィンに彼を討たせたのよ」
「っ……」
再び老人の頭が膝の上に落ちる。
さっきのような『拒絶』の意味ではなく、単に力が抜けただけのように見えた。
それはそうだろう。
真実はあの激しい戦いの場にいた者しか知らないこと。
皇軍と黒雷軍が戦い黒雷軍が勝利したとなれば『息子が父を屠った』という事実のみしか表に出ていない。
その後皇位に就いたアシュヴィンは言い訳がましい発言は一切しなかったのだ。
「それから──
私たちを殺さないでくれて、ありがとう」
はっと顔を上げた老人。
何を言われたのか解らない、といった表情をしている。
「私もまさか十代で結婚して『お母さん』にまでなっちゃうなんて、思ってもいなかったんだけど」
えへへ、と照れ笑いしながら下腹を撫でる千尋の姿に目を見開き、老文官は老人とも思えぬ素早さで這うようにして駆け寄り、鉄格子に縋り付いた。
ガシャン、と耳障りな金属音が響く。
「もしや……スーリヤ様の孫君が…?」
「ええ──
こうして命は繋がれていくのね」
堰を切ったようにはらはらと涙をこぼし始めた老文官は独り言のように呟き始めた。
昔、武官として仕えていた頃、大きな戦でスーリヤに命を救われたこと。
その時の怪我で解雇されるかと思いきや、文官として残ることを許されたこと。
その大恩人を手にかけたアシュヴィンが許せなかった── と。
同じような経験を持つリブには彼の気持ちがよく理解できた。
もしもアシュヴィンが彼によって命を絶たれていたならば、何が何でも仇を討とうと自分も動いていただろう。
格子に縋り涙を流す老人の姿は、ともすれば自分の姿だったかもしれないのだ。
「……妃殿下に似た姫ならば、さぞお可愛らしいことでしょうなあ」
「そ、そうかな…?
でも、女の子は父親に似ると幸せになる、って聞いたことがあるわ」
「それでは凛々しく勇ましくおなりでしょう」
「うーん、女の子が勇ましいのも……ねぇ。
でもアシュヴィンは綺麗な顔立ちだから、彼に似たらきっと美人になるわね。
男の子でも絶対美男子!」
あなたに似ても『凛々しく勇ましく美しい子』ですよ、と内心思いながら苦笑する。
地下牢という場にそぐわない和やかな会話の中、リブはずっと階段に潜んでいた気配が消えているのに気付いて千尋に声をかけた。
「── 妃殿下、そろそろ」
「ええ、そうね」
立ち去ろうとした千尋を老文官が呼び止めた。
「妃殿下……元気なお子を」
「── ありがとう」
ふわりと柔らかに微笑み、千尋は地下牢を後にする。
去り際にちらりと振り返った時に見えたのは、格子を握り締めたままの老文官の穏やかな顔。
カツンカツンと響く足音に紛れ、『申し訳ありませんでした』と詫びる声が後ろから聞こえてくる。
その弱々しい声に、二度と日の当たる場所に出られず恩人の孫を目にすることもできない彼のことが、リブにはやけに憐れに思えた。
【プチあとがき】
前回から間が空いてしまってすんません。
これまでの話を読み返しつつ、がんばってみましたが……(汗)
なんだかわけわかめに…
【2008/11/28 up】