■Fall in love with you again and again 【13:食い違い】
雑務をこなし、日が暮れてから罪人を連れ根宮に戻ってきた兄と翌日すべきことの手筈を整え、真夜中になってようやくアシュヴィンは自室へと戻ってきた。
明かりが落とされて薄暗い寝台の方へそっと近寄ると、そこにある寝姿にほっと息を吐く。
『部屋を移らせるな』と彼女付きの女官に半ば脅すようにして命じたのだから居て当然ではある──
脅されているというのにやたら嬉しそうにニコニコしていた女官が不気味ではあったが。
広い寝台の端の方に横たわっている千尋。
ちょっと寝返りを打てば床に落ちてしまいそうだ。
そこまで遠慮せずともよかろうに、とアシュヴィンは思わず喉の奥で笑ってしまった。
湯殿で一日の汗を流してから再び戻ってきた時も、彼女はさっきと寸分違わぬ姿で眠っていた。
ふと思い立ち、アシュヴィンは彼女の口元に手をかざしてみる。
小さな寝息が指をくすぐった。
よく、静かに死にゆく様を『眠るように』と表現する。
今の彼女が『眠るように──』ではなく、単に『眠っている』だけであることがアシュヴィンを安堵させた。
そこで『あること』に気がついた──
今更ではあるのだが。
彼女をこの部屋に居させることにしたのはいいが、よく考えれば広いとはいえ寝台はひとつ。
落ちそうなほどの端に寝ている彼女の気持ちがわかる気がした。
椅子で仮眠することも考えるが、疲労の溜まった身体は横になって休むことを要求している。
一国の長が床に寝るのもどうかと思うし。
少々躊躇いつつも、反対側に回り込んで寝台に上がる。
── 眠る女の隣に潜り込む、とはなんとも艶っぽい状況ではないか。
自嘲の笑みを浮かべつつ、アシュヴィンも彼女ほどではないが寝台の端に彼女に背を向けて身を横たえた。
二人の間には大人二人が余裕で寝られるほどのスペースがあった。
そういえば、朝目覚めた時に今彼女が寝ている側を空けていることが多かったように思う。
きっと、これが記憶を失くす前の自分と彼女の位置関係なのだろう。
── 間隔の広さがどうだったのかまではわからないが。
「………ん……」
小さな呻きが聞こえ、アシュヴィンは彼女を起こしてしまったかと振り返ってみた。
外から射す淡い月明かりの中、喘ぐように大きく息を吸った千尋の胸が、呼吸に合わせて大きく上下している。
発作の類なのだろうか。
身じろぎすらできないままじっと見守っていると、今度は唇が微かに震え始めた。
「………ごめ……な…さい…………わたし……せい……」
彼女の閉じた目から涙が流れ落ちた。
「!」
アシュヴィンは語りたくない様子の彼女から無理矢理聞き出したことを後悔した。
もちろん、滝での一件である。
何者かに矢を射掛けられた、というのは断片的に聞いていたものの、記憶を失くす原因となった怪我が別方向からの矢から彼女を庇ってのものだということを今日初めて聞いた。
きっとその時の状況を口にしたことで記憶が新たになり、悪夢となって現れたのだろう、と推察する。
この半月はほぼずっとこんな調子だったことを、別の部屋で寝起きしていたアシュヴィンが知る由もない。
深く俯き『私のせいなの』と自分を責め、身体を震わせ泣いていた千尋の姿を思い出す。
アシュヴィンは静かに彼女の方へとにじり寄った。
初めてこんなに近くで見る彼女の顔。
整った造作を辛そうに歪め、目尻には涙が流れ続けている。
どうしよう、と考える前に身体が動いていた。
アシュヴィンは彼女の首の下に腕を差し込み、転がすようにして彼女の身体を抱き寄せた。
背中をゆっくりとさすってやる。
「── もう過ぎたことだ、そんなに自分を責めなくていい」
胸元にぎゅっとしがみついてきた千尋は多少落ち着いたのか、漏らす嗚咽がだんだん小さくなっていく。
あの日、自分自身の危険を省みることなく身を挺して彼女を庇ったというのなら、その時の自分にとって彼女にはそれほどの価値があったということに違いない。
記憶を失う前の自分と彼女とはきっと愛し合っていたのだろう、と根拠もなく納得する。
けれど今の自分が彼女に対して抱いている気持ちが『愛』なのかどうかはわからなかった。
だが、『好き』か『嫌い』か、と問われれば決して『嫌い』とは答えられない。
だからきっとこの気持ちは『好き』の部類に入るのだろう。
最初に見た彼女の金と蒼のイメージは脳裡に焼き付き、ずっと気になって仕方なかったのだから。
夜着の胸元を掴む彼女の手には相当な力が籠もっているらしく、筋が浮き出て小刻みに震えていた。
「……う……アシュ……ン………しなないで……」
「── 人を勝手に殺すな。死にそうなのは──」
後に続く言葉を口にしたくなくて必死に飲み込んだ。同時に彼女の背をさすっていた手も止まる。
このまま記憶が戻らなくても、せめて最期の時まで心安く過ごさせてやろう。
いや、できることなら取り戻したい。
なんとしても埋もれた記憶を掘り起こしたい。
だが記憶が戻った時、彼女の命が消えかかっていることを知った自分はどうするのだろう?
少し不安になって千尋の細い身体を抱き締める。
腕の中にすっぽりと納まる彼女の感触はやけにしっくりとしていて、懐かしい感じがした。
* * * * *
鳥の声で目が覚めた。
また眠りながら泣いてしまったのだろう。目が腫れぼったくて開けられない。
少し硬いけれど弾力のある枕にすりすりと頬を摺り寄せる。
── 枕、こんなに硬かったっけ?
外からは依然やかましいほどの鳥の声が聞こえてくるというのに、どうしてこんなに薄暗いのだろうか。
天気が悪いなら、鳥はこれほど鳴かないと思うのだが。
抱えていた大きめの抱き枕を抱き締め直し、ぐりぐりと額をこすり付ける。
── あれ? 私、抱き枕なんて持ってない……
正体不明の抱き枕に慌てて勢いよく頭を上げた瞬間、ゴンッ、と頭の骨に直接響く衝撃。
まるでいきなり頭の天辺を殴りつけられたような。
「痛っ!」
まさに『目から火花が散る』とはこのこと。
チカチカする目を必死に開き、おずおずと見上げると、そこには大きく仰け反った喉が見えた。
「な……っ !?」
飛び起きようとすると枕がくるんと頭を包み込んで動くことができない。
「……そんなに慌てると……落ちるぞ…」
「え…」
抱き枕から伸びている腕が巻きついていた千尋の背からゆらりと持ち上がり、仰け反った喉の先端を撫で始めた。
「……同じ起こすなら、頭突きよりももう少し色気のある方法で起こしてもらいたいものだな」
「な、ななななななっ !?」
そう、少し硬い枕だと思っていたのはアシュヴィンの腕、外の日差しを遮るほど大きい抱き枕だと思っていたのはアシュヴィンの身体。
仰け反った喉の向こうから、少し赤くなった顎をさすっているアシュヴィンの不機嫌そうな顔がゆっくりと下りてきた。
「『な』…?」
「な、なんでっ !?」
「…さあな……大方、夜中に寝ぼけて抱きついたんじゃないのか…?」
「ごごごごめんなさいっ!」
起きぬけの少し鼻にかかった声が不愉快そうで、千尋は咄嗟に謝った。
と、不機嫌そうに歪められていたアシュヴィンの顔が、今度は皮肉っぽい笑みの形に変わる。
「……寝ぼけたのがお前だ、とは言ってないだろう」
「ぅえっ !?」
何を思ったのか、顎をさすっていたアシュヴィンの手が千尋の頭を撫で回し始めた。
「あー……僅かだが瘤になってるな……痛かっただろう?」
「わ、私は大丈夫!
アシュヴィンは?
顎、大丈夫?」
「ああ、何ともない」
千尋はゆっくりと手を伸ばし、自分の頭がぶつかったらしい少し赤くなっている彼の顎の先端にそっと指先を触れてみた。
そこで千尋は気付く。
寝ぼけて抱きついたというのは、この際どちらからでも構わない。
だが、お互い目覚めているというのに、こうしてほとんど抱き合った状態で横になったままでいるというのは?
彼への気持ちが変わったわけではない自分はいいとしても、彼はどういうつもりで…?
「アシュヴィン、もしかして記憶──」
突然、千尋の頭がカクンと落ちた。アシュヴィンが千尋の頭の下から腕を引き抜いたのだ。
起き上がった彼は千尋に背を向け、そのまま寝台を下りていった。
千尋もゆっくりと身体を起こし、小さな溜息を吐く。
「……そんなに都合よくはいかないよね…」
図らずも千尋の頭が彼の顎にクリーンヒットさせたアッパーは、彼の頭を刺激して失われた記憶を回復させるまでには至らなかったようだった。
【プチあとがき】
いや、千尋さんの寝起きシーンが好きなわけでは決して……(汗)
そろそろ少しは二人を戯れさせてやろうと思ったらこうなっちゃいまして。
なんか遅々として話が進んでない状況ですが……次の14話は急展開、たぶん(笑)
今回ちょっと短くてごめんなさい。
【2008/11/14 up】