■Fall in love with you again and again 【12:歓喜と懸念】

 ふわり、ゆらり。
 たゆたうような眠りの中から引き寄せられるように意識が浮かび上がっていく。
 今日は珍しく良い夢を見たような気がする。
 閉じた瞼越しに感じる光。きっと太陽は空高くまで昇ってしまったのだろう。
 ── やだ、寝過ごしちゃった?
 のん気に考えて身じろぎした直後、みしり、と凝り固まった身体の節々が軋みを上げ、自分に起きた出来事を一瞬にして思い出してパチリと目を開けた。
 見えた天井はここ半月ほどで見慣れたものではなく、それまでの一年ですっかり馴染んだもの。
「あ……」
 漏れたのはかすれた声。
 痛みを堪え、ゆっくりと起こした身体を思わず抱きしめる。
 鼻の奥に黴と埃の臭いが残っているような気がした。
「── あっ、千尋様っ!」
 千尋の目覚めに気づいた女官が駆け寄ってくる。 妙に張り切っている彼女は満面の笑みで、
「ご気分がよろしければ湯浴みをなさってくださいませ。 あのような埃だらけの場所におられたのですもの、さっぱりなさいますわ」
「あの、でも……」
「それとも、食欲がおありでしたら先にお食事をご用意しましょうか?」
「そうじゃなくて── 私、元の客室に戻るわ」
「それはご無理です」
 清々しいほどきっぱりと言い放つ女官。 やたら嬉しそうな笑顔は迫力すらある。
「え…どうして…?」
「アシュヴィン様のお言い付けですわ。 あちらのお部屋に持ち込んだお荷物も、すべてこちらのお部屋に戻してありますのよ」
「え」
「あの時のアシュヴィン様のお姿、千尋様にもご覧いただきたかったですわ」
 上品に袖口で口元を隠し、女官はくすくすと思い出し笑いをしている。
「あ、あの……アシュヴィンの姿って…?」
 千尋はごそごそと身体を動かして、寝台から足を下ろす。
 すかさず女官が足元に揃えてくれた部屋履きの柔らかなサンダルに足を入れ、寝台に腰掛けた形で女官と向き合った。
「あの広い書庫で千尋様をお見つけになったアシュヴィン様は、千尋様をそれはもう大事そうに抱きかかえて、このお部屋にお戻りになったのですわ」
 女官はうっとりとした顔で手のひらを合わせた両手を頬に当て、昨日のアシュヴィンの様子を思い出しているらしい。 目はキラキラと輝き、頬はほんのりと薄紅色が差している。 なんとなく、コイバナに花を咲かせるクラスメイトたちを思い出した。
「じゃあ……あれは夢じゃなかったのね」
「夢、でございますか?」
「ええ……アシュヴィンが助けに来てくれたのは夢の中の出来事なんだと思っていたの。 だって、私のことを忘れてしまっている彼が、私を探してくれるなんて思わなかったもの」
「とんでもございません。 アシュヴィン様は件の文官の捜索をナーサティヤ様にお任せになって、それは必死なご様子で千尋様をお探しになっておりました」
「え…」
「アシュヴィン様はアシュヴィン様ですもの、記憶は失くされても千尋様への愛はお忘れにならなかったのですわ」
 ── 記憶を失っても、アシュヴィンはアシュヴィン。
 訪ねてきてくれた風早に自分で言った言葉。
 あの時は自分を奮い立たせるため、半分は自分に言い聞かせるように口にしたのだが。
 第三者にそう言ってもらえて、あらためて確信できた。
 ドキドキと早鐘のような鼓動とは裏腹に、胸の奥底は静かに凪いでじんわりと温かくなっていく。
 異世界で学校に通っている頃、『片思いの彼と廊下ですれ違っちゃった!』などと興奮気味に話していた友人たちの気持ちが今さらながらに理解できたような気がした。
 結婚して一年も経った後に、その結婚相手に片思いなんて滑稽だけれど。
 『愛』がどうのこうの、というところはさておき、彼が自分を探してくれたことがとても嬉しかった。
 ── とても、頬が、熱い。
「……今、アシュヴィンは…?」
「千尋様をこちらにお連れになってすぐ、ナーサティヤ様と合流するとおっしゃってお出かけになりましたわ」
「そう……」
「それから、アシュヴィン様よりのご伝言です── 本日午後にはエイカ殿が熊野より戻られるのでちゃんと診ていただくこと。 その後は、何も考えずにゆっくり休むこと── だそうですわ」
 千尋が涙に暮れていたのをすぐ傍で見てきた女官は我が事のように嬉しそうに伝令を務めた。
「そ、そうなの…?」
 声が自然と上ずった。
 気にかけてもらえたことが嬉しくて、顔が緩んでくる。
 にこにこ顔の女官の視線にぶつかった途端、一気に恥ずかしさと居心地の悪さが押し寄せてきた。
 一刻も早くこの場から逃げ出したくなるほどに。
「……ゆ、湯浴みをするわ」
 寝台から立ち上がろうとすると、お掴まりください、と女官が手を差し出してくれた。
 その手にすがり、よろよろと湯殿へ向かう。
 と、女官が、う、と喉を詰まらせた。
「── わたくし、昨日は生きた心地がしませんでしたわ。 本当にご無事でよろしゅうございました」
 女官は泣き顔が混ざった笑顔を見せると、空いた手の袖でそっと目元を押さえた。
 単なる主従関係だけでない彼女の気持ちが千尋の胸に温かく沁みてくる。
「ありがとう……心配かけてごめんなさいね」
 いいえ、と首を振り、今度は純粋な笑みを見せる女官に釣られて千尋も微笑んだ。

*  *  *  *  *

 老文官の決死の逃避行は翌日の昼前に幕を下ろした。
 老体に鞭打ち、夜通し歩いたのだろう。 よくぞここまで距離を稼いだと賞賛したくなるほど。
 だがそこは重ねた齢が仇となり、疲れ果ててぐっすり眠り込んでしまったらしい。
 南へ向かう街道から少し山間に入った廃村の朽ちかけた廃屋の片隅で丸くなっているところを発見されたのだった。
 その場でバッサリ斬り捨ててしまいたくなる衝動を抑え込み、アシュヴィンは老文官の移送を兄に任せて一足先に根宮へと戻った。
 老人を問い詰めるには、すっかり聞きそびれてしまっている『滝で襲われた』件について先に耳に入れておく必要があると判断したのだ。
 宮に戻り、簡単な指示を出してすぐに自室へ戻る。
 ぐっと扉を押し開くと同時に、中から声が聞こえて来た。思わずそのまま立ち止まってしまう。
「── 本当にそれでよろしいのですね?」
 土蜘蛛・エイカの静かな声だった。
「ええ── こんな時に言ったら、混乱させてしまうだけだもの」
 次に聞こえて来たのは千尋の、やはり穏やかで静かな声。
「ですが、いつまでも隠し通せるものではございませんよ」
「わかってるわ……でも、今はごたごたしているし、もう少し落ち着いてからにさせて」
 はぁ、とエイカの諦めの混ざった小さな溜息が聞こえた。
「……承知いたしました。 私は急ぎ熊野に戻り、手配をしてまいります。 妃殿下はご無理をなさらず、お静かにお過ごしくださいませ」
「わがまま言ってごめんなさい。 よろしくお願いします」
 シュッと衣擦れのような音がして、部屋の中の気配が減った。
 異端の民族である土蜘蛛は瞬間的に場所を移動できる能力を持っている。 その力を使い、エイカは部屋を去ったのだろう。
 扉を押さえたまま動きを止めていたアシュヴィンは、まだ動けないでいた。
 たった今聞いた会話が耳から離れない。
 深刻な、静かに何かを受け入れたような。
 ── まさか、彼女の身体は病に蝕まれているというのか。
 先の戦を戦い抜き、ここ一月足らずに降りかかった危機にも命を落とすことなく生き永らえたというのに、今度は病とは── 気の毒に。
 他人事のようにそう考えてみて、違和感を覚える。
 この迫ってくるような焦燥感はなんなのだろう?
 じくじくと痛み始めた頭を軽く振り、蝶番が軋みを上げるようにわざと乱暴に扉を押し開いて部屋へ足を踏み入れた。

「あ……おかえりなさい、アシュヴィン。 あの人は?」
 寝台の上で身体を起こした状態の千尋が声をかけてくる。
 どこかから帰ってくると臣下たちから『お帰りなさいませ』と頭を下げられるのが常ではあったが、彼女の口から聞くと違って聞こえるのは何故なのだろう。 不思議と肩の力が抜けていくように感じた。
「ああ……捕らえた。 夜半にはこちらに着くだろう」
 彼女になにかしら労わりの言葉をかけようと思っていたのに、『あの人は?』と付け加えられてしまったせいで口にしそびれてしまった。
 だが人への気遣いを表に出すことが得意ではない自分らしい、と思うことにした。
「そう……」
 小さな溜息を漏らした千尋は、急にうずくまるようにもぞもぞと膝を畳み、上掛けを口元まで引っ張り上げた。
「あ、あの……」
 身体を小さく丸めてもごもごと呟く彼女の姿は、まるで森を駆け回る栗鼠のように見えた。 熱でもあるのか、頬が赤く染まっている。
「なんだ?」
「その……私を探してくれて……ありがとう」
 更に赤味の増した頬を緩ませ、ほんわりと微笑む彼女の顔に、アシュヴィンの胸の鼓動が一際高鳴った。
 温泉村での異変を報せに来た兵に見せた彼女の微笑は上に立つ者としての威厳から生まれたものだったが、今のはにかんだ笑みにはそういうものは一切なく、年相応の少女のように見える。
 初めて見た彼女の笑みは、アシュヴィンが想像していた以上に愛らしかったのだ。
 迂闊にも狼狽している自分が可笑しかったが、なぜかこういうのも悪くないとも思えた。
「それは……呼び出した文官が姿を消し、女官たちのものではない履物が不自然に外に落ちていたら、お前を探すに決まっているだろう?」
「でも…やっぱりありがとう、探してくれて── 嬉しかった」
 嬉しそうに、だが少し寂しそうに彼女が紡ぐ言葉がまるで遺言のように聞こえて胸が痛い。
「えと、それから……私、できれば部屋を移りたいんだけど……」
 自分の膝と上掛けに口元を埋めている彼女はますます小動物じみて見える。
 その姿は愛らしいが、今の発言をそのまま認めるわけにはいかなかった。
「そんなに俺と同じ部屋にいるのが嫌か?」
「そ、そういう訳じゃ──」
「心配するな、不用意に近づいたりはせん」
「そういう意味でもなくてっ」
 記憶を失くした自分を『夫』として認めることができなくて部屋を移ったのだと思っていた。自分も彼女を『妻』だと思えなかったのだからおあいこではあるのだが。
 それで今回もまた部屋を移りたがっているのだろうと思っていたが、ぶんぶんと首を横に振る彼女の目いっぱいの否定からしてそうではなかったらしい。
 それがなんとなく嬉しく思えてくる。
「── 妃がいつまでもひとり客室に居座っているのもおかしかろう?  知られれば臣下たちに示しがつかん、それだけだ」
 感情を出さないようにして言い捨て、話を打ち切るように彼女に背を向けた。
「あ……」
 思わず零れたのだろう彼女の声が名残惜しそうに聞こえたのは自惚れだろうか。
 だが、ここから立ち去るわけではなかった。
 部屋を横切り椅子を抱え、再び寝台の傍に戻るとドサリと腰を据え、鷹揚に足を組む。
「え……」
「約束だっただろう?  聞かせてもらおうか、滝で襲われた、という話をな」
 戸惑いの表情を見せた千尋にそう促すと、彼女は辛そうに顔をしかめ、ほんの僅か頷いた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 またも千尋の目覚めシーンから(笑)
 アシュがどんどんニセモノになっていくぞ(笑)
 文章もなんだか変だし……
 あぅ…書き直したいっ(泣)

【2008/11/11 up】