■Fall in love with you again and again 【11:捜索】

 ゆるゆると意識が浮上するにつれ、軋みを上げる身体に痛みが戻ってきた。
 横向きに床に転がっているため、下になっている左肩が痛い。
 楽な態勢になろうとしてできなかったのは、後ろ手に手首を縛られているせいだった。
 さらにもがいてもどうにもならないのは、ご丁寧に足首も纏めて縛られているから。
 はぁ、と溜息を吐くと埃が舞い上がり、千尋はけほけほと咳き込んだ。
 気がつけば口の中が錆の味がする。どうやら倒れた時に口の中を切ってしまったらしい。
 仰向けになることも、うつ伏せになることもできず、千尋は肘と縛られた足でイモムシのように這っていき、何とか身体を起こして一番近い書棚に凭れかかった。
 たった1メートルほどを這うのが思いがけないほどの重労働に思えた。
 千尋はもう一度大きな息をして、上を見上げる。
 壁の上部にある小さな窓から射す光の加減は、最初にここへ入った時とあまり変わっていないように見えた。 たぶん、それほど時間は経っていないのだろう。
「誰かーっ!  聞こえるーっ !?」
 精一杯張り上げた声は立ち並ぶ書棚とそこに納められた竹簡に吸い取られたように響くことなく消えた。
 こてん、と頭を背後の書棚に落とし、目を瞑る。
 ── 私がここにいること、誰か気付いてくれるのかしら…?
 床の埃の積もり具合からして、ここには何年も人が入った形跡はない。 よほどの幸運でない限り、ちょっと資料を取りに、などと誰かが来ることはなさそうに思えた。
 ── アシュヴィンは……探してくれるのかな…?
 そう考えた後、千尋は小さく頭を振って苦笑した。
 以前の彼ならともかく、今の彼にとって自分は『顔見知り』に毛が生えた程度の存在でしかないのだ。 そんな人間を本気で探してくれるだろうか。
 結婚した覚えもないのに『妃』を名乗る自分の存在を疎ましく思っていたとしたら、渡りに船とばかりに放置するのでは?
 いや、記憶を失くしたとはいえ、彼はそんなに薄情な人間ではない。 兵の何人かは自分の捜索に当ててくれるかもしれない。
 あまりの心細さにどんどん後ろ向きになっていく思考の中になんとか光明を見つけ、気持ちを落ち着ける。
 そういえば、自分をここに連れてきた老文官はどうしているのだろう?
 今思えば、最初に小柄だという印象を受けたのは彼が腰を曲げていたからだった。 ここに入ってからは彼は腰をしゃんと伸ばしていた。だから『思ったほど小柄ではない』と感じたのだ。
 なぜそこまでして?
 油断を誘うため?
 どうしてこんなことを?
 だが、ここで考えていてもいつまでも答えなど出るはずもなく。
 とりあえず部屋の入り口を目指そう。
 せめて歩ければ、と思いながら見た足の先。 脱げてしまったサンダルの片方はどこへ行ったのかしら、と考えながら、千尋の意識は再び遠のいていった。

*  *  *  *  *

 得体の知れぬ男の言葉がアシュヴィンの頭から離れなかった。
 『今、事を起こすつもりはありません』
 『記憶が戻った時には覚悟しておいてくださいね』
 中つ国はいまや国力を取り戻している。
 記憶が戻った途端、常世へ攻め入ってくるつもりなのだろうか。
 あの男が中つ国でどれほどの地位にいるのかは知らないが、親しげに名前で呼ぶほどの人物がいる国に簡単に攻め込むような真似をするような馬鹿な男ではないと思いたいが…… 前もって彼女を連れ去った上で、ということなら考えられなくもない。
 ── 向こうがその気なら、何が何でも彼女を手放さなければよいことだ。
 納得できる考えに辿り着き、アシュヴィンはニヤリと口の端に笑みを浮かべた。
 宮門への通路で黒麒麟を闇に帰し、自らの足で北門をくぐって根宮に戻り、そのまま執務室へ向かう。
 先に厄介事を片付けた後、事の顛末の報告がてら彼女を呼び、そのまま彼女を自分の目の届くところに置いておけばいい── そんな短絡的な考えに苦笑しつつ。
 執務室に入ると困惑顔のリブが駆け寄ってきた。
「陛下っ!  今までどちらに?」
「ああ、ちょっと野暮用でな──」
 室内を見回すと、数人の兵が姿勢よく並んでいるだけだった。
「── 例の文官の姿が見えぬようだが?」
「や、それが……警戒されぬよう文官長を通じて呼び出したのですが、一向に姿を見せません。 文官長は確実に本人に伝えたと言っているのですが……用心するあまり文官長にも呼び出す理由を話さなかった私の手落ちです、申し訳ありません」
 リブは深々と頭を下げ、ナーサティヤ指揮の下で根宮内と周辺を捜させていることと、騎馬も盗まれたりすることなく揃っていることを付け加えた。
 老文官には呼び出された理由はすぐに思い当たったはずである。 捕らえられることを恐れて慌てて逃げ出したに違いない。 既にこの根宮から抜け出しているだろう。
 その時、バタバタとせわしない足音が近づいてきて、バン、と執務室の扉が勢いよく開かれた。
 転がるように飛び込んで来た軽装の兵が戸口に跪いて一礼する。
「申し上げますっ!  件の文官、いまだ発見されません!  それから、このような物が──」
 兵が捧げるように差し出した手には女物の履物── 女官たちが履いている簡素なものではなく、一目でよい物とわかる小さな花飾りがついた可愛らしいサンダル── の片方。
 こんなものを履いているのは、この根宮内にはただ一人しかいない。
 冷たい何かに肌を撫でられたように、ゾクリと身体が震えた。
「……どこで見つけた?」
「はっ、北門の近くの植え込みの根元に」
「もしや件の文官が妃殿下を攫って……」
「北門から逃げたのでしょうか !?」
「……いや、それはないな」
 無責任なほど簡単にそう口にする兵たちの言葉を一蹴して、アシュヴィンは腕を組み、しばし考える。 ぐっと眉を寄せ、ぎりりと奥歯を噛み締めて。
「── 散らばった兵を束ね、南を捜せとサティに伝えろ」
「はっ!」
 小気味よい返事を残し、兵の一人が部屋を飛び出していった。
「残る者は宮内を虱潰しに当たり── 千尋を捜せ」

 じりじりと焦れるような時間だけが過ぎていく。
 追っ手を南に向けたのは、北に逃げた可能性が低いからだった。
 城塞型の根宮からは門を通らねば外に出ることはできない。
 が、老文官を呼びつけた直後からアシュヴィン自身が北門から宮門へ繋がる通路に陣取っていたし、そこにいる間も中つ国の男と別れてから宮へ戻るまでの間も誰の姿も見ていない。
 北門の傍に手がかりを残したのは北に目を向けさせるためだろう。
 それに温泉村の村長が言っていた、捕らえた男は『南方から流れてきた』という話が作り話でなければ、老文官自身も南方に土地勘があるのかもしれない。
 国外に脱出するとしても、彼の年齢を考えれば北の比良坂を越えるより、南から船に乗る方を選択すると踏んだのだ。
 さらに年齢からして人一人連れて逃げおおせるわけもない。
 一度抱え上げた彼女の身体は驚くほど華奢で羽根のように軽かったけれど、それでも老人一人にどうこうできるものではないだろう。
 そして偽の手がかりとして使われた彼女のサンダル。
 それは彼女が老文官と接触したことと、履物を奪われるような状況にあったということを示している。
 不吉な予感がずっとアシュヴィンを支配していた。
 頭に浮かぶビジョンは力なく倒れている彼女の身体と床を染める血の赤。
 彼女が血に染まった姿を目にするのは途轍もなく嫌だった。
 不吉な想像を追い払うように頭を振る。
 老文官を目の前にしたら有無を言わさず斬りかかってしまいそうな怒りに目をギラつかせ、アシュヴィンは成果のなかった部屋を出て次の場所へ向かった。

 千尋の行方を示す手がかりの欠片も見つけられずに一旦執務室へ戻ると、リブとシャニが大きな執務机の上を覗き込んでいた。
「や、アシュヴィン様!  妃殿下は……?」
 アシュヴィンが入ってきたことに気付いたリブが訊ねてくるが、アシュヴィンは小さく首を横に振る。
 リブは肩を落とし、再び机の上に目を向けた。
 彼らが見ているのは机に広げられた古ぼけた大きな紙。
「それは?」
「この宮の見取り図です。 どこかに隠し部屋のようなものがないかと」
「兄様、見て見て。 ここに扉があるみたいなんだ。 何の部屋があるのかまでは書かれてないんだけど…」
 シャニが指差したのは、根宮1階を貫く廊下の奥、階段の下に書かれた扉の印だった。
 ただでさえ広い根宮。 幼い頃から幽宮で育ったアシュヴィンにはそこが何の部屋なのかはわかるはずもなかった。
「何があるのかわからなければ── 入ってみればいいことだろう」

 リブとシャニ、数人の兵を引き連れ、アシュヴィンは廊下を走る。
 行き止まりには上の階へ上がる階段。 何度かここを昇り降りしたことがある。
 その階段の後ろへ回り込んでみると、確かにそこに扉があった。
「こんなところに扉が……や、気付きませんでした」
 ノブに手をかけ、ゆっくりと引っ張ると、扉はきぃ、と小さな軋みを上げて難なく開いた。
 途端、埃と黴の混ざった澱んだ空気が鼻を突く。
 その奥は闇だった。
 気を利かせた兵の誰かがすぐに明かりを持ってきた。
「こんな大きな書庫があったなんて、知らなかった……」
「……すごい数の竹簡ですね…」
 迫ってくるような背の高い書棚の間、長年の埃が積もった床には奥に向かう二対の足跡と戻ってくる一対の足跡。
 それを辿って進んでいくと、壁に行き当たったところで足跡は乱れ、そこから何かを引きずったような形跡。
 さらにそれを辿り──
 ドクン。
 痛みすら伴って心臓が跳ねる。
「── っ!  千尋っ !!」
 書棚の側面にぐったりと凭れかかっている千尋の姿があった。
 アシュヴィンは駆け寄ると同時に腰の小刀を抜き、投げ出された足と後ろに回された腕の縛めを切り落とす。 ぐらりと彼女の身体が傾き、慌てて小刀を手から放り出して受け止めた。
 兵が持つ明かりに照らされた彼女の身体に血の痕跡はない。
 不吉な予感が外れてくれたことにひとまずほっと息を吐いた。
 片手で彼女の背を支え、もう片方の手で頬をパチパチと細かく叩く。
「千尋!  千尋っ!  目を開けろっ!」
 千尋の瞼がぴくりと動いた。
 ゆるゆると上がる瞼の下から蒼い瞳が現れる。
「……アシュ……ヴィン……?」
「ああ、もう大丈夫だ」
「……来て……くれ…た……」
 ふわりと嬉しそうな笑みを浮かべた千尋は再びくたりと意識を失った。
「くそっ……」
 アシュヴィンは千尋の身体をぎゅっと胸に抱きしめると、
「── リブ、千尋の発見を皆に知らせてくれ」
 彼女の細い身体を抱き上げ、黴臭い闇の中から明るい光の中へと連れ出した。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 根宮の構造が想像できない…
 なんか高台にあったような気もするから、南に門はなさそうなんだけどなぁ(笑)
 そもそも『北門』があるかすらもわかんないし。
 ありがちオンパレード、まだまだ続きます(笑)

【2008/11/06 up】