■Fall in love with you again and again 【10:忍び寄る危機】

 根宮に戻ったアシュヴィンがまず最初に行ったのは、捕らえた男から黒幕として名前が出た文官を執務室へ呼ぶことだった。
 兵を数名つけて、自分がそこへ行くまで絶対に目を離すな、と言い添えて。
 三日間着っ放しの衣を着替えるために一旦自室へ戻り、腰から外した果物入りの袋をごとりとテーブルの上に置いた時、一人の女官が衣裳部屋から出て来た。
 その部屋は文字通り衣装を納めた部屋なのだが、いつも誰かの手で次に身につける衣が用意されているのでアシュヴィン自らそこへ入ったことはない、いわば未知の部屋である。
「おかえりなさいませ、アシュヴィン様」
 恭しく頭を下げる女官の手には綺麗に畳まれた衣がいくつか乗っている。
 明るく柔らかな色合いの衣は、黒を始めとして暗色を好む自分の物では決してなく。
 手元を見つめているアシュヴィンの視線に気付いたのだろう、女官は少し慌てて、
「ゆ、湯殿のご用意をしてまいります。 着替えのお召し物はそちらにお持ち──」
「その衣は?」
「……千尋様のお召し物でございます。 あちらのお部屋にはわずかなものしか持ち込んでおりませぬゆえ」
 緊張した面持ちの女官はおずおずとそう答えた。
 アシュヴィンはしばし考えて、
「── で、その奥方殿はどうしている?」
「は、はい?」
「西の村で別れる時に体調が悪そうだったのでな」
「はぁ……あの…」
 女官の顔が緊張から警戒に変わったような気がした。 千尋に関する情報を漏らすなとでも命じられているのだろうか。
「なんだ、夫が妻の身体を気遣うのがそれほどおかしなことか?」
 くっくと喉を鳴らして笑うアシュヴィンに、女官はあっさり警戒を解いた。
「それが……お戻りになってからもお加減が優れないご様子で、昨日一昨日はずっと寝台の上でお過ごしになりました。 お食事も果物くらいしかお召し上がりにならなくて……けれど今日はご気分も幾分よろしいようで、床払いなさいましたわ」
 気遣わしげに、次第に自分のことのように嬉しそうに彼女の様子を話す女官。 さっきの警戒丸出しの状況から一転した口の軽さに内心苦笑しながら、例の文官と対峙する前に彼女の顔を見ておこう、とアシュヴィンは考えた。
「床払いしているのなら丁度いい、千尋をここへ── いや、俺が出向こう。 下の客間だったな?」
「いえ、今はお部屋には── 只今千尋様は謁見の間にてお客様とお会いになっておられます」
「客…?」
「わたくしも詳しくは存じませぬが……中つ国の方だとか」
 ざわり。
 胸の内が波立った。
「── 湯浴みは後でいい」
「あ、アシュヴィン様 !?」
 バサッとマントを翻し、アシュヴィンは自室を飛び出した。

*  *  *  *  *

 老文官に先導され、これまで歩いたことのなかった廊下の一番奥、上り階段の裏に人目を避けるように作られた扉の中に千尋は足を踏み入れた。
 薄闇の中、ぷんと黴と埃の臭いが鼻を突いて、思わず袖口で顔の下半分を覆う。
 老文官が壁の燭台に明かりを灯すとやっと視界が開けた。
 そこは広い書庫だった。 随分広いと思っていた大広間の二倍ほどはあろうか。
「こんな場所があるなんて……初めて知ったわ」
 この根宮に住まうようになって1年になるが、宮内の構造のすべてを知っているわけではなかった。
 ── 見取り図とかがあるなら見せてもらってちゃんと覚えなくちゃ。
 数段のステップを降りて広い空間を物珍しそうに眺めながら、そう考える。
 どうやらここは半地下になっているらしい。
 周囲の壁の高い位置に小さな窓がいくつか並んでいる。 明かり取り、というよりは換気のための窓らしい。 差し込む外の光は空間を照らしきれず、床に近づくにつれ闇がわだかまっているように見えた。
 おそらく天井は他の一階の部屋と同じ。
 1.5階分の床から天井まで伸びるたくさんの書棚は圧巻だった。
 よく見ると棚の一つ一つにはびっしりと竹簡が詰め込まれている。
「── 常世の国の始祖がこの宮を建てた時、何を思ってこの部屋を作ったのかは知る由もありませぬが……数代前の皇の時代より、ここを書庫として使うようになったそうでございます。 ここには常世の国数百年の歴史が納められております」
「そう……歴史の勉強は苦手だったけど、ここにある竹簡は読んでみたいわ」
 くすくすと笑っていた千尋は、はたと思い出した。
 ここに来たのは常世の歴史を学ぶためではない。
「それで、温泉村の件で私に見せたいものって?」
「この奥に」
 吸い込まれそうな闇に向けて差し出された皺だらけの手。
 それに誘われるように千尋は部屋の奥に向かって歩き出した。
 一歩足を踏み出すごとに床に積もった埃が舞い上がる。 吸い込まないように、たっぷり布を使った袖で口元を覆いつつ歩を進めた。
 後ろを歩く老文官の持つ明かりが前方に長く床に影を落として揺らめくのがなんとも不気味で、千尋は小さく身を震わせた。
「── この一件、すべてはある文官の企みにございます」
 背後で静かに紡がれた言葉に、千尋は思わず足を止めて振り返った。
「それって、根宮の内部の誰かってこと !?」
 老文官は、はい、と答えた。
 ふと、千尋は違和感を覚えた。
 明かりを手にした彼の柔和な顔は変わらないが── もう少し小柄な人物だと思っていたのに。
 促すようにすっと手が差し出され、千尋は首を捻りながらも再び奥へ歩き始めた。
 部屋のほぼ中央を横切るように、ビルのように立ち並ぶ書棚を抜けると、目の前に見えてきたのは壁。 左右に伸びる壁の先は闇に隠されていて、無限に続いているかのような錯覚にとらわれる。
「何もないみたいだけど……右かしら、それとも左──っ!」
 振り返ろうとした瞬間、右の首筋にドン、と鈍い衝撃。
 ぐらり、と身体が傾いていく。
 再び衝撃。 今度は肩から腕にかけて。 不思議と痛みは感じなかったが、目の前でぶわっと埃が舞うのが見えて床に倒れたのだとわかる。
 遠のいていく意識の中、声が聞こえた。
「── 申し訳ありません、妃殿下。 その『文官』とは、私のことなのですよ」
 そして、自分の迂闊さに歯噛みすることもできぬまま、千尋の意識は完全に闇に落ちた。

*  *  *  *  *

 謁見の間にも、その控え室にも、客人の姿らしきものは見えなかった。
 後片付けをしていた女官を捕まえ訊ねると、客人はつい先刻帰っていったらしい。
 アシュヴィンはすぐさま中庭に出て黒麒麟を呼び出し、その背に飛び乗り空へ舞い上がる。
 根宮から宮門までの長い通路を歩く人影が見えた。
 上空から先回りし、人影の行く手を遮るようにして麒麟の背からひらりと飛び降りる。
 人影は若い男だった。
 異国の衣を身に纏い、全体的に『白』を連想させる男。
 浅黒い肌を持つ常世の人間でないことは間違いない。
 大股で十歩歩いたほどの距離を開け、得体の知れない男と対峙した。
「── お前が中つ国からの客か?」
 男ののほほんとした笑みが苦笑に変わった。
「やはり俺のこともすっかり忘れてしまっているんですね。 二度も共に危地を脱した仲だというのに、寂しいなぁ」
「ふっ……失われた記憶に埋もれし者、か── 貴様、何者だ?」
「俺は中つ国の二ノ姫付きの従者── 『元』、ですけどね」
 そう言って、男は寂しげに微笑んだ。
 茫洋とした男はただそこに立っているだけなのに、隙がない。 只者ではないのはすぐに見て取れた。
「……その従者がここへ何をしに来た?」
「千尋の顔を見に、ですが」
 しれっとした男の答えに、ぴくりとアシュヴィンの眉が上がった。
 常世の国と中つ国とでは生活習慣が違う部分がある。
 だが、一介の従者が己が仕える主の名前を呼び捨てることがあるだろうか?
「……それだけか?」
「ははっ、疑り深いですね── まあ、千尋が望むならなんとかしようと思ってはいたんですが、その必要もなさそうですし」
 ぶつぶつと訳のわからないことを言っている男を睨みつけるが、男は意に介さぬように笑っていた。
「── 千尋を中つ国に連れ戻そうというのではあるまいな?」
「は……?」
 『中つ国からの客』と聞いて頭に浮かんだことを唸るように搾り出したアシュヴィンの言葉に、きょとんと目を見開いた男はぱちぱちと瞬きを繰り返すと、ぷっ、と吹き出した。
「ああ、その手もありましたね。 ですが、俺はそんなことのためにここへ来たわけではありませんよ。 言ったでしょう?  『千尋の顔を見に来た』って」
 ひとしきり笑った後、男の顔からすっと笑みが消えた。
 真剣な射抜くような眼差しに、アシュヴィンは知らずゴクリと喉を鳴らす。
「千尋は強い子です。 反面昔から泣き虫で── そんな千尋を泣かせないように守ることが俺の役目でした。 きっかけはどうであれ千尋があなたの妃となってからは、その役目はあなたのものです。 だから不可抗力とはいえ、あなたの記憶喪失が千尋を泣かせたことを俺は許すことはできない。 もちろん、今、事を起こすつもりはありません。 ですが──」
 男はツカツカと距離を詰め、ポン、とアシュヴィンの肩に手を乗せた。
「── 記憶が戻った時には覚悟しておいてくださいね、アシュヴィン」
 くすっと笑って、男はそのまま宮門へ向かって歩いていった。
 遠ざかっていく足音の中、アシュヴィンは混乱の極みに呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 ここまで書いておいてなんですが……
 常世の国に仕える女性は『采女』じゃなくて『女官』だったよね、確か……
 ま、いっか。
 下っ端は采女で、その上に女官がいる、ってことにしておこう(汗)
 後半、『教えてチャン』になってるアシュ(笑)
 風早に関する補完は番外編で♪

 中つ国での役職『官人/武人/采女』を常世での役職『文官/武官/女官』に書き換えました。
 過去掲載分も遡って訂正してあります。
 (見落としに気付かれた方、メールか拍手コメでこっそり報告お願いします(汗))
 他にもちょびっとずつ修正してたりして……
 それと、第8話終盤に加筆しています。今後の展開に必要っぽいので(汗)

【2008/11/02 up/2008/11/04 改】