■Fall in love with you again and again 【9:訪問者】

 女官に先導されて向かったのは謁見の間の控え室。
 控え室とはいえ、他国の来賓を迎え、皇との対面までしばし寛いでもらうための部屋なので、それなりに豪奢な造りになっている。
 千尋がその部屋へ足を踏み入れると、懐かしい姿がそこにあった。
「え……風早…?」
「久しぶりですね、千尋」
 以前と変わらない優しい笑みを湛えている風早とは、そういえばもう一年近くも会っていなかった。
 自分は后妃としての執務に忙しく、風早もまた新しい中つ国の王の側近として忙しい日々を過ごしていたのだから。
 千尋は懐かしさに思わずこみ上げてくる涙を必死に堪え、突然の来訪の理由が気になって彼に駆け寄った。
「風早、まさか中つ国で何かあったの?」
「いいえ、平和そのものですよ。 那岐もずいぶん王様らしくなりましたし── ああ、昼寝ができない、ってしょっちゅうボヤいてますけどね。 橿原もすっかり落ち着いて、やっと休暇がもらえたので千尋の顔を見に来たんです」
「本当にそれだけ?」
「ははっ、千尋の心配性は相変わらずですね……そうだな、まあ強いて言えば──」
 風早は千尋のさらさらの金の髪をそっと撫でて、少し悲しそうに微笑んだ。
「── 千尋が泣いているような気がしたから、かな」
 その一言に、千尋の大きく見開いた目からぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。

 この半月の出来事を話し終えて。
 千尋はしばらく目を冷やしていた濡れた手拭いを取り、ほぅ、と息を吐いてから、前に置かれたカップからお茶を一口、ぐびりと飲んだ。
 最初に女官が出してくれた時には熱かったお茶は、すっかり冷たくなっていた。
 今はその冷たさが喉に心地よい。
 泣くのにも体力がいるんだ、とつくづく思った。
 それでなくても体力が落ちている今、身体を襲う疲労感は尋常ではない。 横になればストンと眠りに落ちそうなほど。
 けれど、不思議と気分は軽かった。
「── 落ち着きましたか?」
 静かに見守ってくれていたらしい風早の優しい笑顔があった。
 時々支離滅裂になってしまう千尋の話を根気強く聞いてくれた。
 子供のように泣きじゃくってしまって、少し気恥ずかしい。
「うん……すっきりした、かな。 たぶん、こうして誰かに聞いてほしかったんだと思う」
「すぐに連絡してくれればよかったのに」
「ごめんなさい……でも、思いつかなかったの。 私がしっかりしなきゃ、って、そればかりで」
 傍にいてくれるのが当たり前だった頃には無条件で甘やかしてくれる風早に無条件で甘えることができたけれど。 無意識に『頼るべきではない』と思ったのか、本当に風早や他の戦友たちのことは思い出しもしなかったのだ。
「あまり一人で抱え込んではいけませんよ、千尋。 リブやシャニ、ナーサティヤだっているんですから、少しくらい甘えていいんです」
「うん……そうだね」
 そう答えたものの、彼らにだって大切な兄弟、主の記憶喪失は相当なショックだっただろう。 アシュヴィンが動けなかった分、彼らに負担がかかっている。 その上千尋自身寝込んだりして迷惑をかけた。 彼らが千尋のことを気遣ってくれていることも痛いほどにわかっている。 なのに、これ以上甘えることは──
「── 戻ってほしいですか?」
「え…?」
「アシュヴィンの記憶、です」
 風早の顔から笑みが消え、真剣な眼差しになる。
 彼の言葉が意図することが読み取れず、千尋は少し首を傾げながら、
「それは、もちろんだよ。 だって、楽しいことも辛いことも、積み重ねてきた思い出がなくなってしまうのは悲しいことだわ」
 ほんの少し、風早の顔が歪んだ。
 それは千尋自身にも失われた記憶があることを知っているからだろう、と千尋は思った。
「でもね、焦らなくてもいいかな、って思うことにしたの。 もちろん思い出してくれるなら早い方がいいんだけど……もう逃げなくて済みそうだから」
「え?」
 不思議そうな顔をする風早。千尋は思わずクスクスと笑い、
「記憶を失ってもアシュヴィンはアシュヴィンなんだよね── すごいのよ、一年間の国の復興状況をあっという間に覚えて、もうバリバリ仕事してるんだから。 私のことも『赤の他人』から『ちょっとした知り合い』くらいには昇格したみたいだし、記憶が戻るまできっとうまくやっていけると思うわ」
 おぼろげに胸の内にあったものを言葉にしてみると意外と簡単なことのように思えてくるから不思議なものだ。 大丈夫よ、と自分に念を押すように呟いてみた。
 自然に浮かんでくる千尋の笑みを見て、釣られるように微笑んだ風早がすっと席を立った。
「風早?」
「俺はそろそろ帰りますね」
「えっ、まだ来てからそんなに時間も経ってないのに?」
「残念ながら俺の休暇は今日一日だけなんですよ。 千尋の顔もちゃんと見られたことですし、目的は果たしましたから」
「そんなぁ……」
「千尋が頑張ってることがわかって、安心して帰れます。 ただ── 頑張りすぎないでくださいね。 ちゃんとご飯を食べて、体力をつけてください。 千尋が倒れてしまっては元も子もありませんからね」
 体調のこともすべてお見通しだったらしい。
 自分でも『痩せたな』と思うのだから、一年振りに会ったとはいえ保護者としてずっと見守ってくれていた彼には一目瞭然だったのだろう。
「はい……気をつけます」
 思わず苦笑する── ここ数日、唯一口が受け付けてくれる果物が主食になってしまった食生活を改めなければ。

 落ち着いたら橿原へ遊びに来てください、という風早に、必ず、と答えて。
 謁見の間の入り口で、女官に案内されていく彼に大きく手を振って見送って。
 姿が見えなくなると、しばらく忘れていた倒れてしまいそうなほどの疲労感が蘇ってきた。
 ── 少し部屋で休もう。
 よろよろと回廊を歩き、足を引きずるようにして階段を上がり。
 もう少しで部屋に着く、というところで、
「── 妃殿下」
 振り返ると、一人の文官がいた。
 白髪頭の小柄な老人で、皺の多い顔に柔和な笑みを浮かべている。
 ── えっと……誰だったかしら…?
 国内各地の村の住人の顔はそこそこ覚えている千尋だが、意外に根宮の中に知らない人物がいたりするのだ。
 視察へ行く時に同行する若手の文官や、訓練場で見かける武官や兵たちとは面識があるけれど、内向きの事務的な仕事のみをする者とはほとんど接点がない。 もちろんこれまで広間などで一堂に会することは何度もあったのだから一度や二度は顔を見ているのかもしれないが、大勢の中の一人の顔までは彼女の記憶に留まってはいなかった。
 老文官は恭しくお辞儀をすると、
「妃殿下にご覧いただきたいものがございまして。 少々お時間をいただけませぬでしょうか」
「あの…緊急のことかしら?  差し支えなければ、明日にしてもらえると助かるんだけど……」
「── 西の温泉村の一件に関するものでございます」
 疲れを一瞬にして忘れさせるその一言。
「……わかったわ、案内して」
 千尋は背筋をピンと伸ばし、先導する老文官の後に続いた。

*  *  *  *  *

 黒麒麟を駆るアシュヴィンの口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
 腰に括りつけた布袋には温泉の村の住人から『千尋様が早くお元気になられますように』と渡された新鮮な果物が入っている。
 確かにあの時顔色の悪かった千尋。
 それを心配してもらえるほどに彼女が民に愛されていることが、やけに誇らしく思えた。
 自身で調達したものではないにしろ、彼女への贈り物を持っているということがなぜか心を躍らせる。
 彼女がどんな顔をして喜んでくれるのか、想像するだけで楽しくなってくるのだ。
 記憶のあったころの自分もこんな気持ちだったのだろうか?
 彼女が自分の妻であるという記憶はない。
 だが彼女が常世の国の皇の妃であるということは周囲の現実が告げている。
 自分が皇なのだから皇の妃である彼女は自分の妻なのだ、という遠回しな認識しかできないのが現状。
 だから今湧き上がってくる気持ちを何と言い表していいものかと考えあぐねていた。
 ああ── ふと思い浮かんだ考えにアシュヴィンは飛びついた。
 きっと『年若い弟へ土産を持ち帰ろう』とか『貧しい村の子供のために菓子を持参しよう』などと考えるのと同じなのだろう── そう結論づけることにした。

 不意に彼の顔から笑みが消え、険しさが現れる。
 村の騒動は鎮静化したものの、まだ完全に片がついた訳ではない。
 捕らえた男は意識を取り戻すなり、拍子抜けするほどあっけなく洗いざらい白状した。
 ── 一年前、男は兵として仕えるようになってすぐ、訓練もそこそこに戦に借り出された。
 敵は黒雷軍。
 二分された軍のうち、男は黒雷の妃率いる軍と交戦し、ろくに訓練を受けていなかった未熟さから重傷を負い、この一年のほとんどを療養に費やしたらしい。
 そして、やっと傷も癒えた頃、一人の老人と出会った。
 老人は見るからに高価そうな財宝をちらつかせ、ある話を持ちかけてきた。
 『父を殺して皇の座に就いた非道な男を討ち倒し、新たな世を築こう』、と。
 財宝と提示された地位に目が眩んだ男は、老人の企みに乗ることにした。
 老人の指示通り温泉村へ入り込み、噂を流して村の若者たちを煽動し、戦に参加した経験のある数人を引き連れ皇夫妻を弓で襲った。
 それが失敗に終わると、今度は村の開発計画を混乱させ、根宮に詰めている兵たちがすぐに駆けつけることができない場所での再びの暗殺の機会を窺っていたという。
 最後に男が語ったのは── 話を持ちかけてきた老人は根宮に仕える文官だ、ということだった。

 何と穴だらけの計略だろうか。 その程度の企みで転覆するような国家では世も末だ。
 アシュヴィンは、ふん、と鼻で笑った。
 男が語った『父を殺して』というくだりが気にならないわけではなかった。
 だが、自分の記憶にある父は既に何かに蝕まれ、人ならざるモノと化していた。
 今のこの国の平和を得るためには、その父を手にかける必要があったのだと信じている。
 目覚めてすぐにリブが言ったではないか── 父皇は安らかに黄泉に旅立った、と。
 それから彼女も言っていた『襲われた』という件。 詳しいことは根宮に戻って彼女から聞くとして──
 それにしても、彼女はいくつの顔を持っているのだろう。
 最初に見た泣き顔、ぎこちない強張った顔、后妃然とした威厳を感じる顔。
 そして、軍を率いる大将としての顔。
 実際に目にしたわけではないが── 凛として美しい、戦場に咲く一輪の花のようだろうと想像する。
 野に咲く花に囲まれているほうがよほど似合うだろうに──
 結局また彼女のことを考えていることに気づいて、アシュヴィンはチクチクと痛むこめかみを押さえながら苦笑した。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 やって来たのは風早さんでございました。
 まあ、想像の範疇だったとは思いますが。
 そして、アシュさまの『千尋らぶ♥』がダダ漏れ傾向になりつつあります(笑)

【2008/10/29 up】