■Fall in love with you again and again 【8:ささやかな進展】

 岩肌からこんこんと湧き出す湯で白く煙る源泉。
 その周りは高い木の柵で囲まれ、数人の男たちが見張りに立っていた。
 手には鍬や鋤の農具を携えている。稚拙な武装ではあるが、武器を持たない調査団には対抗する術はなかっただろう。
 そこに現れた二人に、男たちはざわめいた。
「あ、アシュヴィン様……」
「千尋様も……」
 源泉を背中で守ろうとするように柵の前に集まってきた男たちの前に立ったアシュヴィンは、無表情のまま彼らの顔をゆっくりと見回した。 彼の放つプレッシャーに怯んだのか、ゴクリと唾を飲み込んで肩を寄せ合う村の男たち。
「── 今すぐここを開放し、調査の者たちに協力してほしい」
 震える手で鍬の柄を握り締めた一人の男が勇気を振り絞って一歩前に出た。
「で、ですがアシュヴィン様、ここに離宮ができて村を追い出されるようなことになれば、私たちは生きてはいけませんっ!」
「……誰から聞いたかは知らんが、俺は離宮を作ろうなどと考えたこともないんだがな」
「でもそういう噂で持ちきりで…」
「そんな根も葉もない噂に惑わされるな。 この村を保養地として発展させる計画に変更はない」
「でもっ……」
 アシュヴィンは、はぁ、と大袈裟に溜息を吐いて、くるりと踵を返す。
「千尋、根宮に戻るぞ」
「えっ、あ、アシュヴィンっ !?」
 数歩進んだところで足を止め、肩越しに振り返り、
「村の者たちに信用されぬ計画をそのまま進めるわけにもいくまい?  もう一度、考え直してみる必要がありそうだ」
「待って!  ちゃんと話をすれば、みんなだってわかって──」
「保養地なら無理に温泉でなくても── そうだな、南の海岸沿いを整備するというのはどうだ?」
 駆け寄ってきて腕を引っ張り、連れ戻そうとする千尋に向けてニヤリと笑い。
「ちょ、ちょっと待って!  それじゃいつまで経ってもこの村は豊かにならないわ!」
「仕方ないだろう?  聞く耳を持たぬ者にいくら説いてみても時間の無駄というものだ。 それに、お前は泳ぎたいんじゃなかったのか?」
「え……」
「ついさっき、村の童と約束していただろう、『大きな風呂で一緒に泳ごう』とな。 風呂が作れぬなら海で泳げばよかろう?」
「そ、そういう問題じゃないでしょう!」
「ああ、さっきの童には約束は守れないとちゃんと詫びておけよ。 相手が幼子とはいえ約束は約束だからな」
「アシュヴィンっ!」
 二人が言い争いを始めてからずっとひとかたまりになって小声で何か話し合っていた村の男たち。
 その中の一人が二人の傍にやって来て、おずおずと口を開いた。
「あのぉ……『離宮』の話は、本当にただの噂なんでしょうか…?」
 ── これで調査団もすぐに仕事を再開できそうだ。
 そんな手応えを感じてニヤリとするアシュヴィン。
 その時。
 背後から突き刺すような強い殺気。
 左腕に掴まっている千尋を振り払ったアシュヴィンは振り向きざまに抜き放った剣で虚空を薙ぎ上げた。
 カンッ、と響く乾いた音。
 源泉から連なる湯気を立てる小川にぽちゃりと落ちたのはへし折れた矢。
「血迷ったか─── 黒麒麟っ!」
 アシュヴィンの声に応えて姿を現した麒麟が捻り上げた首を勢いよくぐるんと回せば、渦巻く突風が矢の飛んできた方向にある森へ唸りを上げて突き進んでいった。
 森の中、木立の合間を下草に足を取られつつ奥へと逃げていく男の姿がちらりと見えた。
 麒麟の放った突風は木立に威力を削がれながらも、下草や枝葉と一緒に男の身体を宙へと舞い上げる。 そのまま近くの木に背中から激突して、男はドサリと力なく地面に落ちた。
「── 陛下!  今の音は !?」
 村長の家を辞した後、半刻後に源泉に向かうよう指示を出しておいた調査団が丁度到着し、騒ぎに驚いて駆け寄ってくる。
「あの男を捕らえろ」
「あ、あの者が何を… !?」
「俺の命を狙った」
「なんですと !?」
 調査団は慌てて木立へと分け入り、気を失ってぐったりしている男を運び出してきた。
「あ……あれは村長のところの……」
 村の男の誰かが呟いた。
「── 不穏な噂をまことしやかに流布し村の者を惑わせた罪、及び皇並びに后妃の暗殺を謀った罪にて、この男を捕縛する」
 アシュヴィンによって朗々と告げられた男の罪状に、村の男たちの手から『武器』が滑り落ちてカランカランと音を立てて地面に転がっていく。 柵を組んだ残りだろうか、調査団の一人が近くにあった縄を取ってきて罪人の身体を縛り上げるのを、ただ呆然と見つめていた。

「── 怪我はなかったか?」
 アシュヴィンは地面にぺたんと座り込んでいる千尋に手を差し延べた。
 ぼんやりしていたらしく、ピクッと身体を震わせると、
「…私は大丈夫」
 少し蒼褪めた顔に弱々しい笑みを浮かべ、差し出された手に掴まった。
 ぐいっと引っ張り上げてやると、身体の力がぬけてしまっているのか、よろけてアシュヴィンの胸に倒れこんできた。
「ご、ごめんなさいっ」
「いや、構わん……お前は先に黒麒麟で根宮へ戻っていろ。 俺は後始末をしてから帰る」
「本当に私は大丈夫だからっ!」
 千尋は慌ててアシュヴィンから離れ、衣についた土をぱたぱたと払う。
「そんな顔色で言っても説得力がないな。 まあ、物々しい光景を目の当たりにしたとあっては仕方がないが── 黒麒麟、奥方殿を根宮までお連れしろ」
 黒麒麟の身体を軽く叩き、アシュヴィンは板切れに乗せられた罪人を運ぶ行列の後ろに続いた。

*  *  *  *  *

 遠ざかっていく一団の後ろ姿をぼんやりと見送っていた千尋は彼らの姿が見えなくなると、ふぅ、と溜息を吐いた。
「……そんなに顔に出ちゃってたのかな…」
 頬を両手で覆い、再び溜息。
 物々しい光景、というなら、千尋はもっと凄まじいものをその目で見てきている。
 かつては中つ国の軍の総大将として、激戦の中心に身を置いていたのだから。
 それに比べれば、人一人が取り押さえられたくらいで取り乱したりなどしない。
 けれど、アシュヴィンが叩き落した矢を見た瞬間、身体が震えてしまった。
 フラッシュバックする赤い血のイメージ。
 吐き気すら催してくる。
 滝での出来事は、千尋の中ですっかりトラウマになってしまっているらしかった。
「……じゃあ、帰ろっか」
 麒麟の首を撫で、その背にまたがる。
 やけに重く感じる身体を起こしたままにできなくて、麒麟の首に抱きついてフワフワのたてがみに額を擦り付けるようにして顔を埋めた。
 空を翔ける麒麟の揺れが睡魔を呼び寄せる。
 ずっと浅く短い睡眠しか取れていなかったせいだろう。 眠ってもすぐに悪夢が彼女を覚醒させるのだから。
 食事の量もめっきり減ってしまったから体力が落ちているのかもしれない。
 ストレスのせいか、女性の身体に起きる周期もすっかり乱れてしまっているし。
 気を張っていて気付かなかったけれど、身体がだるくてたまらない。
 この半月、気力だけで身体を動かしていたようなものなのだから、当然のことなのかもしれないが。
 それでも久しぶりに『お腹空いたな』と考えている自分が可笑しくて、千尋はたてがみの中でクスクス笑っていた。
 笑ったのも随分久しぶりのような気がした。
 彼の記憶が戻る気配はない。
 けれど、彼が自分を見る眼差しが変わっていた。
 以前のような包み込むよう温かみはないけれど、他人を見るような冷ややかさは消えていた。
 たったそれだけのことが嬉しくて。
 振り落とされないように必死に意識を保ち、麒麟の首にしがみつき。
 空の旅を終え、仮の居室となっている客室のテラスに降ろされた千尋はそのまま寝台に潜り込み、半月振りに深い眠りに身を委ねた。

「ふぅ…」
 みしり、と軋ませ椅子に座り、テーブルの上の皿に盛られた山桃の実をひとつ摘んで口に放り込み。
 奥歯で噛むと、甘酸っぱい果汁が口の中に広がった。
 久しぶりの入浴でさっぱりした身体をぐいっと伸ばす。
 凝り固まった首を回すとコキコキと音がした。
 西の温泉村から帰った翌日と翌々日は、身体がまるで寝台と一体化してしまったかのように動くことができなかったのだ。
 医師兼薬師であるエイカはアシュヴィンの記憶を戻す方法を求めて数日前から土蜘蛛の本拠地である熊野に出向いているため体調の診断を受けることはできなかったが、 代わりに彼が厳選して常備してある滋養のつく薬草茶というものを飲まされた。 お世辞にも美味しいとは言えない代物で、味を思い出すだけでげっそりしてしまうほどである。
 薬草茶のお陰か休息のお陰か、三日目の今日になってようやく起き上がることができた。
 目覚めてすぐ、女官にアシュヴィンのことを訊ねたが、彼は今日もまだ根宮へ戻っていないらしかった。
 あの後どうなったのだろう?
 こんな時、この世界に携帯電話がないことが悔やまれる。
 この世界では情報はほぼすべて人の手によって運ばれるのだから、情報伝達のタイムラグが大きいのは仕方がないこと。
 結果は後でアシュヴィンに聞くとして── そう気持ちを切り替えて、もうひとつ山桃を口に入れ。
 生乾きの髪をゆるくおさげに編んで、もう一度背伸びをした。
 コンコン、と木の扉がノックされ。
 返事をすると顔を見せたのは嬉しそうに微笑んでいる千尋付きの女官だった。
「千尋様、お客様がお見えになりましたわ」
「お客様……?」
 湯浴み直後で軽装のままの千尋のための衣装を選びに行く女官の足取りがやけに軽いのを不思議そうに眺めながら、千尋はせっかく編んだばかりの三つ編みをしゅるりと解いた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 さあ、『ありがち都合よすぎ展開』オンパレードですよ♪
 いやすげーな、アシュさまの反射神経(笑)
 黒麒麟ってどんな攻撃してたっけかなぁ…、いつも戦闘はスキップしてたからなぁ。
 いや、ゲームやればいいんですけどね……
 なんかポ○モンのわざみたい(笑)
 さーて、客とは一体誰だ?

 終盤、エイカの所在について加筆しました。(11/4)

【2008/10/24 up/2008/11/04 改】