■Fall in love with you again and again 【5:再会】
碧の斎庭はその名の通り緑が溢れ、色とりどりの花が咲き誇っていた。
ゆっくりと散策できるように幾筋もの小道を整備し、それらが合わさるところには休憩用の小さな東屋が設えてある。
東屋といっても4本の柱に屋根を乗せ、その下に木の長椅子が置いてあるだけの簡素なもの。座って休みながらも周りの花々を愛でられるのだ。
「── 本当に綺麗ね」
広大な花畑を眺めてしみじみと呟く義姉の横顔を、シャニは複雑な思いで見つめていた。
休憩中の今は屋根の下にいるせいでよくわからないが、この東屋まで歩いてくる途中の日の光の下で見た義姉の顔は、元々の白さを通り越してとても健康的とは言えない青白さだった。
ずっとふさいでいる彼女をやっと外へ連れ出したものの、かける言葉がうまく見つけられない。
もちろん傷を負い、記憶を失くしてしまった兄のことは心配している。
けれどあの兄なら持ち前のたくましさで記憶の有無に関わらず何でもやりこなしていくだろう。
后妃としての仕事を再開し、青白いやつれた顔で懸命に笑顔を作っている義姉の方が今はもっと心配だった。
初めて会った時の彼女は『花蓮(はなばちす)』を連想させた。
薄紅色の花は可憐だけれど、水の下の泥の中でしっかり根を張る強さも持ち合わせている。
けれど今の義姉は繊細な玻璃細工のように脆そうに見えて。
あの日からずっと──
彼女は自分を責め続けているのだ。
自分の存在が兄の記憶の回復に差し障ってはいけないと言って部屋を移り、人づてに兄の様子を聞いては一喜一憂している──
ほとんど『一憂』ばかりだけれど。
そんな健気な義姉の心を少しでも軽くしてやりたくても、自分にはこうして花を見せることしかできないのがもどかしかった。
一日でも早く元の仲睦まじい兄と義姉に戻ってほしいのに──
「── ねえ義姉様、今度は向こうの道を歩いてみない?
もうすぐ咲き始める夏の花を植えてあるんだ」
「…ええ、じゃあ行ってみましょうか」
東屋を後にして、そこから伸びる別の道へ。
夏が近づきずいぶんと強くなった日差しに少し汗ばみながら、緩やかに弧を描く小道を歩いていく。
目指すは小さな丘。
目的地に近づくと、隣を歩いていた義姉がひゅっと息を飲んで足を止めた。
「あれは……」
「うん、あれは笹百合──」
何気なく見た義姉の顔に、シャニはドキリとした。
口元を押さえる手は微かに震え、大きく見開いた目からすっと一筋の涙が零れ落ちていったから。
そういえば、国の復興が始まってこの碧の斎庭の管理を任された時に兄に頼まれたのだ──
できるだけたくさんの笹百合を植えてくれ、と。
『どうして笹百合なの?』と訊ねたら、『俺にも好きな花のひとつくらいあってもいいだろう?』と笑っていた兄。
今の義姉の様子からしても、笹百合の花は二人にとって大切な思い出があるに違いない。
シャニは自分の失態を悔やんだ。
義姉は何かに操られているかのようにふらふらと歩を進め、小さな丘ひとつを埋め尽くす笹百合畑の前にしゃがみこんだ。
まだ固く閉ざしている蕾にそっと手を触れて、
「── 私、逃げてるよね」
「え…?」
小さな呟きは聞き取りづらくて、シャニはやけに小さく見える義姉の傍に近づいた。
「……今一番辛くて心細いのはアシュヴィンなのに……本当は私が傍で支えてあげなきゃいけないのに……私は彼から逃げてるの」
「そんなこと……」
「ううん、わかってるの。
でもね……とても怖いの……目覚めた時に私を見たアシュヴィンの目が忘れられなくて……知らない他人を見るような目だったから」
「でもそれは兄様の記憶がなかったからだよ!
記憶が戻れば──」
「そうね、記憶が戻れば───
でも」
不意に言葉を切って、義姉は抱えた膝に顔を埋めた。
小さく見えた身体がますます小さくなってしまったようで、シャニは無性に切なくなった。
「─── 私もね、子供の頃の記憶がなかったの」
「えっ !?」
「私の場合は術で記憶を封じられていたんだけど、術を解かれた今でも思い出せないことがたくさんあるわ。
私が中つ国の二ノ姫で、人とは違う髪と目の色を疎まれて橿原宮の奥に閉じ込められるようにして育ったこととか、橿原宮が燃えていたこととかは思い出せた。
優しかった姉様のことは思い出せても、母様のお顔は思い出せなかった。
父様のことなんてどんなお姿だったか今でもわからないままよ」
くぐもった囁き声は震えていた。
胸を押し潰されそうなほどに切なく。
「── アシュヴィンの記憶は戻ってくれると信じてる。
けど……私のことだけ思い出してもらえなかったら、って考えたら怖くて……怖くてたまらないの。
ずっとあんな目で見られることに耐えられそうになくて……逃げてるのよ」
「義姉…様……」
何と声をかければいいのだろう。
綺麗で優しくて強い義姉がそんな辛い過去を抱えていたなんて知らなかった。
戻らない記憶もあるということを知っている彼女だからこそ、来ないかもしれない最悪の事態を想像してにこんなにも怯えている。
目には見えない『記憶』という曖昧なものに『絶対』はないのかもしれないけれど──
シャニはぎゅっと拳を握り締め、
「義姉様、きっと大丈夫だよ!
兄様は絶対思い出す。もし……もしも義姉様が不安に思ってるようなことになったとしても、僕が兄様を蹴り飛ばしてでも思い出させてやるもの!」
膝から顔を上げた千尋は微かに笑みを浮かべ、
「………ふふっ、ありがとう、シャニ」
「── 物騒なことを言ってくれるぜ」
突然後ろから聞こえた声に、二人揃って飛び上がるように振り返る。
「っ──」
「兄様……」
開花を待つ夏の花の緑の上に浮かぶ黒麒麟から、アシュヴィンが二人を見下ろしていた。
「兄様、どうしてここへ…?」
「我が弟君と語らおうと思ってな。
ここを散策していると聞いて来てみたんだが……」
アシュヴィンは黒麒麟を小道の上へ移動させてからひらりと飛び降りると、二人の前へ──
いや、千尋の前へと立った。
すっと目を細めると、
「お前が……『千尋』、か?」
「…………ええ」
こくり、と喉が鳴るのが横にいるシャニの耳にも聞こえた。
その横顔は気の毒に思えるほどに強張っている。
「ふぅん……この俺が娶ったのが亡国の姫だったとはな。
記録では中つ国の王家も復活して、今は我が国とも友好関係にあるらしいが──
なるほど、中つ国は大事な姫を差し出して自国の復興を図ったか」
「兄様っ!」
「いいの、シャニ」
千尋は小さな声で鋭くシャニを制すると、アシュヴィンへと向き直った。
「── 怪我の具合は、どう?」
「……ああ、見ての通りだ」
「そう……よかったわ」
彼女が必死に口元を笑みの形にしようとしているのが見て取れた。
作ろうとして作り損ねた微笑みのまま、千尋はシャニの方へと視線を移す。
「……私は先に宮へ帰るわね」
「それなら僕も一緒に帰るよ!」
「ううん、アシュヴィンはあなたに話があるみたいだから。
今日はお花を見せてくれてありがとう」
「義姉様……」
花畑の中の小道を下り始めた千尋を、待て、とアシュヴィンが引き止めた。
ぴくり、と肩を震わせて足を止めると、肩越しに僅かに振り返る。
「……なに、かしら…?」
「宮へ戻るなら、こいつに乗っていけ」
アシュヴィンに軽く胴を叩かれた黒麒麟はふわりと空を舞って千尋の前へ降り立った。
「でも……近いから歩いて帰れるわ」
「一国の妃殿下が供もつけずにふらふらと一人歩きするというのは、あまり褒められた話ではないと思うが?
それに──
人の好意は素直に受けるものだ」
きゅ、と千尋が唇を噛む。
「……そうね……それじゃ、お言葉に甘えて黒麒麟を借りるわ」
黒麒麟はわざわざ脚を折り、腹を地に着けて彼女が乗りやすいように背を低くしてやった。
千尋が背にまたがってたてがみを掴むとそのまま身体を浮かせながら脚を伸ばし、弾みをつけて空へと舞い上がる。
天翔る黒き獣神の姿はすぐに小さくなり、見えなくなった。
「ほう……あれほどまでに乗りこなすとはな」
「兄様っ!
どうしてあんな言い方をするのっ!」
まるで他人事な口振りをする兄に、シャニの怒りは頂点に達してしまった。
握る拳が震えるのが自覚できるほどだ。
「僕たちの話を聞いてたんでしょ !?
義姉様はあんなにも兄様のことを思って傷ついてるのに、どうしてもっと傷つけるような言い方しかできないのっ!」
「そうは言っても、俺はあの女のことをすっかり忘れているらしいからな。
仕方ないだろう?」
「義姉様を『あの女』なんて言わないでよっ!
今でも僕たちには触れさせてもくれない黒麒麟があんなに義姉様に懐いてるのを見て、何とも思わないの !?
僕のことは忘れてちゃってもいいから、義姉様のことだけは早く思い出してあげてよっ !!」
記憶回復を強いるようなことはしないよう注意されていたけれど、言わずにはいられなかった。
兄だって記憶を失いたくて失ったわけではないのもわかっている。
ほとんど言いがかりだということも。
それでも、義姉の気持ちを思えば兄には一刻も早く記憶を取り戻して欲しい。
シャニは兄がどんな表情をしているのかも見ないまま、その場から駆け出していた。
【プチあとがき】
シャニ視点。
千尋さん、いまだに浮上できず。
そして、記憶がないとはいえ、ヒドイ男・アシュ(笑)
第4話でだいたいの話の筋は予想できてたと思いますが(汗)
【2008/10/15 up】