■Fall in love with you again and again 【4:道標】

 ただ一人、草原に佇んでいた。
 見渡す限りの草原は緑ではなく金色に輝いていて。
 一陣の風が通り抜けていけば、光の粒を纏った金の草が輝きながら波のようにさざめいた。
 頭上は一点の曇りなくどこまでも続く蒼い空。
 心が静かに凪いでいくようなその景色が、不意に遠のき始めた。
 いや、自分自身が引きずり込まれようとしているのだ── 昏い闇へ。
 抗っても抗いきれない強い力で引っ張られ、成す術なく闇の中へ──

*  *  *  *  *

 目を開けると、馴染みのない天井が見えた。
 夢を、見ていたらしい── 不吉な夢を。
 身体を起こそうと思ったが、重石をつけられたように重くて身じろぎしかできなかった。
「── ご気分は?」
 やっとの思いで首を回して頭を横に向ければ、いつもの見慣れた顔。
「昨夜はやっとお目覚めになったと思ったら、少し席を外している間にまたお休みになっていたのでどうしようかと思いましたよ」
 あれも夢かと思っていたが、どうやら現実だったようだ。
 気がつけば見知らぬ女がいた。 はっきりとは覚えていないが、綺麗な女だった、と思う。 印象的な黄金色の髪が部屋の明かりに揺らめいていた。
 リブに話しかけた自分の声がまるで他人のもののように遠くに聞こえ、その途端、その場が冷たく凍ったような気がする。
 目の前で女が崩れるように倒れ、リブが申し訳なさそうに『失礼します』と断ってからその女を抱え上げて運んでいったところまでは覚えているが──
 そして再び気がついたのが、今。
「── 状況を説明しろ、リブ」
「状況、と言われましても……」
 ポリポリと頭を掻いているリブの笑みには苦味が混じっているように見える。
「そうだな、まずは俺が置かれている状況からだ。 こんな傷、負った記憶がないんだが?」
 左腕に触れれば巻かれた包帯の目の荒いごわついた感触。
「はぁ……まさにそのお言葉通りかと」
「……なんだと?」
 起き上がるのも億劫で、横になったままギロリとリブを睨みつけた。 だが長年仕えていてアシュヴィンという人間をよく知っているリブは笑顔のまま、臆することはない。
「アシュヴィン様は、ここ二年ばかりの記憶を失くしておいでのようですよ」
「は……?」
「失ったといっても全く消えてしまった訳ではなくて、土の中に埋もれているような状態だとエイカは言っていました。 そのうちひょっこり思い出されるでしょうから、それまでは休暇だと思ってゆっくりなさってください」
 事もなげにそう言うリブ。
 だが、アシュヴィンにとって『記憶を失くした』という記憶があるはずもなく、ますます混乱する一方だった。
「はっ……何を戯言を……」
「……でしたら、外をご覧になりますか?」
 ふらつく身体をリブに支えてもらいながら── 聞けば丸四日間近く眠っていたらしいから、こんな状況も仕方ないだろう── テラスに出てみて言葉を失った。
 漆黒の太陽を頂き、いつもどんよりと赤く濁っていたはずの空は青く澄み渡り、紛れもない本物の太陽から暖かな黄金色の日差しが降り注いでいた。
 恵が枯渇し荒れ果てていたはずの大地には緑が生い茂り、さやかに吹く風の中で小さな虫や小鳥たちが遊び、そこかしこに命が満ち溢れていた。
 こんな変化が起きた時のことを、アシュヴィンは覚えていない。
 記憶を失っている、というリブの言葉を信じない訳にはいかなくなってしまった。
「── すべて話せ」
「や、私の口からは……寝台へ戻りましょう、お身体に障ります」
 アシュヴィンは苛立たしげにリブの支えを振り払った。 危うく倒れそうになった身体をテラスの手すりで支え、困惑顔のリブを睨み据える。
「はぐらかすなっ!  ……高千穂で何があった?  あの忌々しい黒い太陽はどうした?  どうして俺は根宮にいる?  父上は?  ── 何があったのか全部話せっ!」
 吠えたアシュヴィンは、う、と呻いて頭を押さえた。 急に大声を出したせいで立ちくらみでも起こしたか、それとも頭痛に襲われたか。
 肩で荒い息をしている彼に、リブは小さな息を漏らし、
「……まずは体力の回復が先です。 何か召し上がるものをご用意してきますので」
 静かにその場を離れ、部屋を出て行った。

「くそっ……リブの奴め……」
 納得のいく答えをくれなかったことも腹立たしかったが、まともに歩けない自分をテラスに置き去りにしたことへの怒りの方が今は大きかった。
 おそらく彼が手を貸そうとしても拒絶しただろうから、結局は同じことなのだが。
 ふらつく足を引きずるように手すり伝いに、壁伝いに移動して部屋に戻る。
 時間をかけてようやく辿り着いた窓のひとつから何気なく外を見ると、
「な……?」
 下に見えるテラスには、己が召喚しなければ姿を現さないはずの黒麒麟がいた。
 その首に抱きついている一人の女。
 顔は見えないが、その黄金色の髪は一度目覚めた時に見たものに間違いない。
 そして、人の形をしていればきっと彼女を優しく抱きしめているのだろうと思わせるような、荒ぶる獣の神らしからぬ慈愛に満ちた様子で寄り添っている黒麒麟の姿に目を疑った。
 ── あの女、何者だ…?
 そう考えた瞬間、頭の中を刺すような痛みが走り、アシュヴィンは堪らず頭を押さえて蹲った。
 しばらくして頭痛の治まった彼がもう一度窓の外を見ると、黒麒麟も金の髪の女も既にいなくなっていた。

*  *  *  *  *

 顔を見る度に『話せ』としつこく言い続けたため辟易したのだろう、リブはようやく経緯を話してくれた。
 高千穂で荒魂と化していた土雷レヴァンタをこの手で屠り、突如現れた二ノ姫率いる中つ国の残党との交戦中に父からの攻撃を受け、そのまま中つ国と手を組み、 父を操っていた黒き太陽・禍日神を打ち破った、と。
 レヴァンタの件はいずれそうなる可能性もあると思っていたからいいとして。
 よもや敵と手を組んでいたとは驚きだった。
 師・ムドガラが名誉の戦死を遂げたことは残念だが、禍日神の傀儡となっていた父皇が安らかに黄泉に旅立ったということは救いだった。 以前から父が荒魂になっていると確信的に疑い、その原因と思われる禍日神共々なんとかしなければとずっと心を痛めていたのだから。
 そして、『それ以降のことについてはこちらをご覧になられた方が早いですよ』とリブが山のような竹簡を運んできた。
 目覚めてから数日経って起き上がれるようになったアシュヴィンは、その竹簡を読み漁っているのである。
 経緯はどうあれ、皇となったからには国のために働かなければならない。
 幸い復興はアシュヴィンの理想通りに進んでいるらしい。
 後はそれをいかに発展させるかを考えればいいのだ。
 記憶の有無など、これからの国の政には関係ない。
 だが、肝心な部分をごまかされていることに気がついた。
 怪我の原因。
 自分に傷をつけるなど、どれほどの手練と戦ったというのか。
 ふと、脳裡を金色が過ぎった。
 ズキン、と頭を痛みが走る。
「くっ……」
 眉を寄せ、こめかみを押さえてしばらくじっとしていると痛みは徐々に引いていった。
 アシュヴィンはこれまでの復興状況を頭に入れることを最優先とし、怪我の原因についてリブを問い詰めるのは後回しにすることに決めた。

 竹簡を読み進めていると、どうにも見過ごせない言葉が度々出てくるようになった。
 『千尋妃』── 文脈からして皇である自分の妃であるらしい。
 記録によると、顔すら知らぬ妃は政治手腕もなかなかのようだ。
 だが傷を負って床に臥している夫の元に一度も顔を見せないというのはどういうことだ?
 自分が結婚していたということは意外だったが、滅亡間近だった国に嫁いでくるとは酔狂な女もいたものだ── 俄然興味が湧いてくる。
 ── あんな辛気臭い顔をした女なら願い下げだな。
 なぜかあの金色の髪の女の切なげに歪められた顔を思い浮かべている自分にアシュヴィンは驚いた。
 しかし彼女が妃だとすれば辻褄が合うのだ。
 目覚めた時に彼女の顔が一番に見えたことも、やけに黒麒麟が彼女に馴染んでいることも。
 リブはあまりこの部屋へ近寄らなくなってしまった。 これ以上は話せないという、彼なりの意思表示なのかもしれない。
 他に話を聞けるとすれば、と考えて、
「──誰かいないか!」
 はい、と応えて姿を現したのは一人の女官。数少ない事情を知る者の一人である。
「ご用でしょうか?」
「シャニを呼べ」
 かしこまりました、と恭しくお辞儀をして女官は部屋を出て行った。

 しばらくして戻ってきた女官はすまなそうな顔でシャニの不在を告げた。
「ならば俺が出向こう。 シャニはどこへ行った?」
「それは……お戻りになられたらこちらへお越しいただくよう伝えましたゆえ」
「待てん。 行き先を言え」
「はぁ……碧の斎庭に向かわれたとのこと……」
 アシュヴィンは席を立ってテラスに向かった。
「── 出でよ、黒麒麟」
「へ、陛下っ!  どちらへっ !?」
「決まっているだろう?  碧の斎庭だ」
「こ、困りますっ、外にお出になられては!」
「俺が記憶を失くしていることが知られれば、宮内の、ひいては国の混乱を招く、というのだろう?  それくらい心得ているさ。 そんな失態を犯すほど俺は愚かではないつもりだが?」
「そ…それはもちろん……」
 背を丸めて小さくなってしまった女官に、ふん、と鼻を鳴らし、アシュヴィンは姿を現した黒麒麟の首にそっと手を添える。
「── お前はあの女と何を話していた…?」
 黒麒麟はアシュヴィンの目をじっと見つめ、フォウ、と一言だけ鳴いた。
「ふっ……お前が言葉を話せないのが悔やまれるな」
 アシュヴィンがひらりと背にまたがると、黒麒麟は勢いよく飛び上がり空を翔けていった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 アシュさまサイド。
 なんつーか、文章があざといというかなんというか(笑)
 この話の行き先によって今後の展開が大きく変わってくる恐れがあるので、
 なかなか進まなくてなー。
 さあて、妃の存在を知ったアシュは今後どう動くのか?

【2008/10/09 up】