■Fall in love with you again and again 【3:深淵の底、遥かな水面】

 千尋は部屋の窓から外を眺めながら、小さな溜息を吐いた。
 ここはすっかり暮らし慣れた部屋のひとつ下の階にある客室。
 年代物の調度類はさすが皇族と思わせる豪華なものばかり。物資に困窮した時期以前の豊かな時代に揃えられたのだろう。
 高千穂で出会う直前から今までの記憶を失ってしまったアシュヴィンにとって、千尋は妃ではなくただの『知らない女』になってしまっている。
 そんな彼と同室で暮らせるわけもなく。
 自分の存在が彼を苛立たせ、記憶を取り戻す障害になってもいけない。
 そう考えて、千尋は意図して出向かなければ顔を合わせることがないであろう別の階に居室を移すことを申し出たのだ。
 広い客室を独り占めするのは心苦しいが、他に部屋もなく。
 元の部屋に戻るのはアシュヴィンの記憶が戻った時。
 それまで誰かを招いて滞在させることはまずなく、客間を使うこともないだろうから、と思い切ってここに留まることにした。
 昨夜は久しぶりに食べ物を口に入れ(あまりたくさんは食べられなかったけれど)、久しぶりに眠った(浅い眠りだったけれど)。
 とりあえず、元気。
 皇の妃として、自分にはやらなければならないことがある。
 ただ、皇が休養しているのに妃が動き回っているというのもおかしいので、数日は部屋でおとなしくしているようにと昨夜の話し合いの時に義兄より言い渡されていた。
 対面上のこともあるけれど、千尋の身体を気遣ってのことだろう。
 本来、一国の皇と妃というものはこうして宮にいて、実働は臣下に任せるのが普通かもしれない。
 しかし、各地の復興は前回より今回の方が進んでいて、次回訪れたら更に進んでいるだろう。 それを目にするのが楽しくて、無理にでも時間を作って各地を回っていた。
 目を通さなければいけない書類など、宮での仕事も山ほどあるけれど、宮から出るなと言われると何とももどかしい。
 大きな窓から一歩出れば、広いテラスになっていた。 元の部屋にもテラスはあるけれど、忙しい日々のため、そこで寛ぐことなんてなかったからなんだか新鮮だった。
 ふと、天鳥船の自室を思い出す。
 『中つ国の二ノ姫』に宛がわれた一人では広すぎる部屋には、部屋と同じくらい広いテラスがついていた。
 命がけの日々の中、あのテラスで一人涙を流したこともある。他の誰かと笑い合ったこともある。
 懐かしい、思い出。
 そんな思い出を失うというのは、どんな感覚なのだろうか?
 手すりに寄りかかり、外を眺める。
 目の前に広がる緑の野から爽やかな風が吹いてきた。
 すぅっと大きく息を吸い込み、空を見上げる。
 ふと、そこから元いた部屋の窓が見えることに気がついた。
「……怪我させてごめんね、アシュヴィン」
 まだ眠っているであろう夫に向けて呟く。 彼もまた、自分とは別の種類の不安を抱えているだろう。
 ふと、鈴の音のような、あるいは水琴窟の音のような、不思議な音が聞こえて来た。
「え……黒麒麟…?」
 いつからいたのか、千尋の後ろに黒い麒麟がふわりふわりと浮いていた。
「どうしたの?  アシュヴィンに呼び出されたの?」
 麒麟は丸い目で静かに千尋を見つめている。
「……もしかして、私を慰めに来てくれたの…?」
 すうっと滑るように近づいてきた黒麒麟は、頬と頬を合わせるようにして擦り寄ってきた。
「そうなのね……ありがとう」
 千尋が首筋を撫でてやると、麒麟は気持ちよさそうにすぃと目を細め、そのまま甘えるように千尋の肩に喉元を預けた。
「……アシュヴィンね、私のこと、忘れちゃったの。 出会ったことも、戦ったことも、力を合わせて戦いを終わらせたことも……私と結婚したことも」
 フォウ、と相槌を打ったかのように麒麟が鳴いた。
「このままアシュヴィンの記憶が戻らなかったら、私はどうなるのかな」
 言葉にした途端に心細くなる。
 彼の記憶が戻らず、千尋を妻とは認めないと言われてしまえば、この国にはいられないかもしれない。
 千尋は堪らなくなって黒麒麟の首にしがみついた。
「── 私、この国が大好きよ。 だってアシュヴィンの国ですもの。 大好きな国で、大好きな人のそばにいたい……早く私を思い出して…」
 いつしか千尋の頬を涙が伝っていた。
 フォウ、と鳴く麒麟の声が身体に直に響いてくる。 まるで『大丈夫、元気出して』とでも言ってくれているような優しい声。
 張り詰めていたものがプチンと切れてしまった千尋は、それからしばらく麒麟にしがみついたまま幼い子供のように泣きじゃくった。

 涙がやっと止まって。
 泣くとすっきりする、というのは本当なんだと妙な感心をしながら。
「─── アシュヴィンの怪我が治ったら、頭をガツンと一発殴ってみようかしら?」
 ぽつりと呟いた千尋の一言に、黒麒麟がピクリと震えたような気がした。
 かつて出会った白い麒麟は人の言葉を操っていた。 以前力を貸してくれた朱雀や青龍たちもそう。 姿は獣だが神という存在なのだから不思議でもなんでもないことなのかもしれないが。
 ここにいる黒麒麟がどういう存在なのかは知らないし、しゃべるのを聞いたこともないが、少なくとも人の言葉を理解していることは確実。
 おそらく彼はきっと『何を物騒なことを!』と驚いたのに違いない。
「ふふっ、心配しないで、実行なんてしないから」
 抱きついていた腕を解き、上着の裾をぐいっと持ち上げ、涙で濡らしてしまった麒麟の首を拭いてやりながら千尋はくすくす笑う。
「私が前にいた世界でね、そういうドラマとか漫画とかがあったの。 『転んで頭を打って記憶を失くした人が、もう一度転んで頭を打ったら記憶が戻った』っていうのが。 作り話の中でのことだもの、現実ではそんなにうまくいくなんて思ってないわ」
 ほんの少し首を傾げて見つめてくる目がなんとも心許なげで、思わず吹き出してしまった。
 鼻筋を撫でてやりながら、
「本当に賢い子ね。 ごめんなさい、変なこと言って。 そんな危険なことなんてしないから安心して?」
 麒麟は千尋の頬に顔を摺り寄せると、すっと後ろへ下がった。 後ろ足を折り、弾みをつけて空へ舞い上がる。
 そして、いつの間にか頭上に現れていた黒い靄の渦の中に飛び込み、その姿を消した。
 空を見上げ、ありがとう、と呟いた千尋はすべきことをするために部屋へ戻った。

*  *  *  *  *

 数日後、千尋は兵の鍛錬場へいた。
 これまでもちょくちょくここで弓の練習をしていた千尋に「どうしてこんなところへ?」と訝しむ者はいなかった。 逆にお妃様にいいところを見せようと張り切る兵たちでその場はにわかに活気付いた。
 武力の鍛錬など、しなくて済むならそれに越したことはないのだけれど。
 有事には国を守る兵力が必要だし、平和な世になったからこそ現れる悪事を企む者を抑えなければならない。いわば、現代の自衛隊と警察のようなものだ。
 兵たちに声をかけながら弓場へ向かう。
 気を利かせた弓兵の一人が盛った土に的を据え、準備を整えてくれた。
「ありがとう」
「い、いえっ、とんでもございませんっ!」
 顔を赤らめて恐縮している兵に微笑みかけると、彼はますます真っ赤になって下がっていった。
 地面に線を引いただけの射場に立ち、手に持った弓を見下ろした。
 『天鹿児弓』── 姉・一ノ姫から譲り受けた大切な弓。 戦の頃は千尋の心の拠り所のひとつでもあったもの。
 だが、今の彼女にとって弓は大切な人を傷つけた武器。
 本当は見たくも触れたくもなかったのだが、雪のようにしんしんと降り積もっていく不安を振り払いたくて、前へ進む力を分けてほしくて。 姉の弓を手にすることしか千尋には思いつかなかったのだ。
 矢を番えて、そのまま腕を上げ。
 ぎりぎりと弦を引き絞りながら左腕が地面と水平になるまでゆっくりと下ろし、的を狙う。
 アシュヴィンが目覚めて以来、千尋は彼とは一度も顔を合わせていなかった。
 元々頭と腕にしか大きな怪我のなかった彼は、目覚めた翌日から部屋の中を動き回っているらしい。
 窓から見た外の風景に絶句した彼は現在の状況をリブに問い質した。
 最初リブは『記憶が戻ればわかります』とはぐらかしていたのだが、アシュヴィンのあまりのしつこさに折れるしかなく、歴史の年表を読み上げるかのように淡々と起こった出来事を話して聞かせたという。
 耳にした内容を完全に納得したわけではないが、皇として働くために彼は今、これまでの国の動きを記した竹簡を読み漁っている。 だが、記憶が戻る兆候はない── と報告を受けている。
 ── この矢が当たったら、アシュヴィンの記憶が戻る!
 右手を放せば、痛切な想いが込められた矢が放たれた。
 何度か繰り返し、結局的に当たったのは放った矢の総数の半分だった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 今回は黒麒麟が大活躍!(笑)
 完全にペット化してるなー。よく懐いてる、うん。
 千尋ちゃん、浮上しようと頑張ってます。

【2008/10/04 up】