■Fall in love with you again and again 【2:失われしもの】

 リブはそっと扉を開け、音もなく中へ滑り込んだ。
 ここは根宮の最上階、皇夫妻の私室。
 広い部屋の奥に置かれた寝台に静かに横たわる男。
 寝台の傍に祈りを捧げるように跪き、片時も離れず寄り添う小さな背中。
 この三日間で見慣れてしまった光景だった。

*  *  *  *  *

 八街からの帰り、まもなく根宮というところでリブと官人たちの前に黒麒麟が舞い降りた。
 口にくわえている布に心当たりがありすぎて、彼らは息を飲む。
 それはついさっき別れてきた后妃が着ていた衣に間違いなく。
 無残に引きちぎられた袖の一部。淡い色合いの布地は赤黒くこわばっている。どう見ても、血。
 明らかな異常事態に踵を返した彼らは黒麒麟に導かれて山間の滝へ辿り着いた。
 滝から流れる川の少し開けた川岸に皇夫妻はいた。
 彼女は足を伸ばして河原に座り、彼は妻の腿を枕にして横たわり。
 一見、微笑ましい光景にも見えた。
 しかし、普通石がごろごろ転がっている河原に横になるだろうか?
 もっと普通ではないのは、膝の上の彼の顔を布でそっと拭っている彼女の首の辺りが遠目で見てもはっきりわかるほど真っ赤に血塗れていたことだった。
「陛下!  妃殿下!」
 足場の悪い河原を駆け寄りながらかけた声にも千尋は反応しなかった。緩慢な動きでアシュヴィンの顔を拭い続けている。
 二人の傍に跪き、リブは力なく横たわる主の様子をざっと確かめる。
 横たわる彼の腕や頭には布が巻かれ、赤く染まっている。
 千尋の方は手や足をすりむいた程度の傷だけのように見えた。
 彼女の衣はいくつにも引き裂かれて包帯や手拭いに変わっていた。
 その一部は、それを見たリブたちが引き返してくることを願って彼女が黒麒麟に託した、あの袖の部分。
「妃殿下?」
 そっと肩を揺すると、千尋はゆっくりと顔を上げた。 放心した顔は涙と血で汚れ、蒼い目はぼんやりと澱んでいる。
「………お願い……アシュヴィンを…………助けて……」
 普段の彼女からは想像できないほど弱々しい声。
 ゆっくりと目を閉じると両目から涙がすっと流れ落ちた。
 再びゆっくり瞼を上げた彼女は、
「……リブ…?」
 ぱちぱちと瞬きを繰り返すと、蒼い目にさっと光が戻った。
「リブ!  お願い、手を貸して!  私ひとりじゃアシュヴィンを抱えられないの!」
 あちらこちらに乾いた血のこびりついた細い指が、リブの腕に痛いほどに食い込んでいた。

 頭を打って意識を失っているアシュヴィンを運ぶには、間に合わせの担架を作るか、八街で荷車でも借りてくるかのどちらかが考えられたが、どちらにしても移動は徒歩になる。
 それでは時間が惜しい、一刻も早く治療を受けさせたい、という千尋の願いを叶え、結局黒麒麟に乗った千尋に背負わせるようにしてアシュヴィンを凭れさせ、彼女の身体に紐で固定して根宮まで飛ぶことになった。
 もちろん紐なんて持ち合わせていなかったから、リブと文官たちの上着が紐に化けた。
 そして、飛び去った黒麒麟を追うように根宮に駆け込み、皇夫妻の部屋に辿り着いた時には、医師兼薬師として常世の国に仕える土蜘蛛・エイカによってアシュヴィンの治療は終わっていた。
 出血量の割に頭の傷は小さく、ざっくりと裂けた腕の傷も土蜘蛛の癒しの術をもってすれば完治するまでにそう時間はかからないという。
 心配なのは頭を強打したことにより意識が戻らないこと。
 しかし『この怪我で彼の命が消えることはない』と自信を持って断言するエイカの言葉でひとまず安心したものの、リブは今後のことを考えねばならなかった。
 まずは『皇負傷』の事実を知る者に緘口令を敷くこと。
 根宮内の混乱は国の混乱に直結する。宮内部にこの気に乗じてよからぬことをしようと考える者がいる可能性がなくもないのだ。
 幸い、空を翔る黒麒麟をたまたま見かけた皇弟・シャニが、大好きな兄と大好きな義姉のご機嫌伺いに部屋を訪れたおかげで大騒ぎになることは避けられた。
 年若いとはいえ皇家の男子であるシャニは、血濡れの義姉とそれにぐったりと寄りかかる満身創痍の兄が乗る黒麒麟が窓から部屋に飛び込んで来たのにはさすがに驚いたものの、その後は冷静に立ち回った。
 信頼できる武官を二人呼んで兄を寝台に寝かせるように命じ、エイカを探して部屋へ連れてきた。 急いではいたけれど、知らぬ者が見れば宮内の散歩をしているように見えただろう。
 それから、千尋付きの女官二人に彼女の着替えと湯浴みを命じ、寝台の傍を離れようとしない血まみれの義姉を女官もろとも湯殿へ押し込んだ。
 その後、役目を終えた武官と采女を部屋の片隅に控えさせておいて、千尋に事情を問い質そうとしたところでリブたちが部屋に入ってきたらしい。
 リブは部屋の隅で寄り添うようにして立っている武官たちの前に立つと、
「── 国の復興も一段落ということで、陛下はしばらく休養なさいます。 よろしいですね?」
 裏に『他言無用』を含ませて、ゆっくりと諭すように告げる。
 いつしか傍に寄ってきていた八街帰りの文官たちを含め、一斉に神妙に頷いた。
 彼らを解散させてから、リブは小さく溜息を漏らす。
 次にやらねばならないことの方が気が重かった。
 床にぺたりと座り込み、寝台にもたれかかるようにしてアシュヴィンの眠る横顔をじっと見つめている后妃の傍に片膝をついた。
 寝台に乗せられた彼女の白い腕には、さっきまでの血の痕跡の代わりに擦り傷に塗った薬草の汁のくすんだ緑色があった。
「── 妃殿下……あの滝で何が起きたのか、お話しくださいますか?」
 千尋はゆっくりと身体を起こして深く俯くと、
「……ごめんなさい……私の……私のせいなの…っ」
 搾り出すように呟いて、両手で顔を覆ってすすり泣き始めた。
「義姉様……」
 シャニが彼女の傍に寄り添い、そっと背中を撫でてやる。
 次第に嗚咽も落ち着いてきて、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
 あの滝で矢を射掛けられ、アシュヴィンが犯人を追おうとしたところ、考え事をしていた彼女に向けられた別方向からの矢から彼女を庇おうとして彼が負傷した、ということらしい。
「── それって義姉様のせいなんかじゃないよ!  悪いのは全部矢を射掛けてきた人たちだよ!」
「ううん、私がぼんやりしてたから……アシュヴィンはちゃんと警告してくれたのに……」
 再び千尋の嗚咽が始まる。
 リブはゆっくりと立ち上がり、身体を伸ばすと、こっそりと溜息を吐いた。
 国のためにも反逆者を野放しにしておくわけにはいかない。が、人相もわからない人間をどう探せばいいのだろうか、と。

*  *  *  *  *

 状況は何も変わらぬまま三日が過ぎ、今日も同じ状況で暮れていくのかと思っていた頃。
「あ……」
 千尋が小さな声を上げた。
 少し離れた場所に控えていたリブは、皇の容態に異変が起きたのかと慌てて寝台に駆け寄った。
 覗き込むと、アシュヴィンのまぶたがピクピクと動いている。
 僅かに眉をしかめた後、彼はゆっくりと目を開けた。
「よかった……!  気がついたのね、アシュヴィン!」
 半眼のままぼんやりと宙を彷徨っていた彼の視線は千尋の顔に止まり、同時に眉間に皺が刻まれた。
 ほとんど停滞することなく千尋の後ろに立っているリブに視線を移すと、
「……リブ、レヴァンタの件はどうなっている?」
「えっ?」
 思わず声を上げた千尋。
 同時にリブと部屋に残っていたシャニの喉がヒュッと鳴った。
 土雷・レヴァンタなど、とうの昔にその手で葬ったというのに。
 怪我のせいで記憶が混乱しているのだろうか。
 もぞもぞと身じろぎし、身体を起こそうとしたアシュヴィンの肩を千尋が慌てて押さえた。
「だめよアシュヴィン、まだ寝てなきゃ!」
「そうです陛下、頭を打っておられるのですから」
 痛みが走ったのだろう、アシュヴィンは、う、と顔をしかめて枕に頭を埋めた。
 動いたせいで乱れてしまった栗色の髪を直してやろうと千尋は手を伸ばす。
 が、アシュヴィンはその手を傷を負っていない方の手でパンと払った。
「リブ……俺は皇子だ。 間違っても『陛下』などと呼ぶな。 それに──」
 払われた手を胸に握り締め、唖然として見つめている千尋を睨むように見据えると、
「── さっきから馴れ馴れしいこの女は誰だ?  さっさと追い出せ」
 ── まさか、高千穂潜入以降の記憶が失われている…?
 予想もしなかった事態に呆然と立ち尽くすリブの視界の片隅で、千尋のやつれた細い身体が糸を断たれた操り人形のように崩れ落ちていった。

 隣の部屋に運び込んだ千尋は、意外にもすぐに目を覚ました。
 この三日間一睡もせず、ほとんど食べ物も口にしていない上に夫の記憶喪失という衝撃、このまま一晩目を覚まさないと思ったのだが。
 すっかりやつれて蒼褪めた顔が痛々しい。
 もうしばらく休むよう勧めても、彼女は横になろうとはしなかった。
「寝てなんていられないわ。 こういう時こそ私がしっかりしていないと」
 と微笑む彼女。 なんて気丈な女性(ひと)なのだろうか、と感服せざるを得なかった。
「ねえリブ、私、どのくらい意識を失っていたの?」
「や、まばたきを何度かするほどしか経ってはいませんよ。 たった今、こちらへお連れしたばかりです」
「そう……よかった」
 彼女は安堵の溜息を漏らす。
「あのね、記憶を失くした人に無理に思い出させようとするとよくないって聞いたことがあるの。 だから──」
「や、わかっております。 当分の間、陛下にはおとなしく療養に専念していただきましょう」
 千尋はこくりと頷いて、
「それから今夜、今後のことを話し合いたいの。 サティとシャニに伝えておいてくれる?  もちろんリブも加わってね」
「はい、わかりました」
 弱々しい笑みを浮かべた千尋は寝台から立ち上がると、ふらりと扉の方へと歩いていった。
「妃殿下、どちらへ?」
「厨房へ行こうと思って。 何か食べさせてもらって、体力を取り戻しておかなくちゃ」
「や、それなら私が手配してこちらに運ばせます」
「でも」
「食べることも大事ですが、今の妃殿下には身体を休めることも大切な仕事ですよ」
 千尋は口元に手を添えて少し考えてから、
「……じゃあ、お言葉に甘えて、お願いね……ごめんなさい、リブにばっかり用事を押し付けてしまって」
「や、これが私の仕事ですから」
 リブは『いつも微笑んでいるようだ』と言われる顔に笑みを上乗せする。
 申し訳なさそうに眉をゆがめていた千尋に微かな笑みが戻ると、静かに部屋を出て扉をそっと閉めた。
 その途端、顔つきがすっと無表情に近くなる。
 きっかけはどうであれ、今では心底心酔して仕える皇とその妃。
 彼らは戦で普通なら見放されても仕方ないような傷を負った自分の命を救ってくれた。
 辛い戦いを乗り越え、やっと平和を掴んだ彼らがこんな悲しい思いをしていいはずがないのだ。
 返しても返しきれない恩を僅かでも返すため、何が何でも謀反人を捕らえて罰せねば──
 リブは決意を新たに、厨房へ向かって歩き始めた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 ををぅ、リブ大活躍ぅ♪
 さあ、もうお分かりですね?
 恋愛ものでは定番中の定番、記憶喪失ネタに挑戦いたしますっ!
 本当はここまでを1話としてプロローグにしたかったんだけど、やたら長くなっちゃって。
 ダラダラとクドい文章でごめんなさい(汗)
 日本の皇室になぞらえれば千尋の敬称は『(皇后)陛下』になるのでしょうが、
 いろいろ調べてみた上であえて『妃殿下』と呼ばせてます。
 そして、終盤の千尋のセリフだけで補完のおまけを書くことに…。
 必要なかったかもしんないなー。

【2008/10/02 up】