■Fall in love with you again and again 【1:悲劇の始まり】

 辛く厳しい戦いの終結から1年。
 大地の荒廃を引き起こしていた禍日神の滅びから季節が一巡した常世の国は、黒き太陽の傀儡と化した前皇亡き後即位した黒雷・アシュヴィンと聡明で美しい妃・千尋のもと、以前の美しさを取り戻すと共に活気に溢れ、復興と更なる発展を遂げつつあった。
 戦いの後、皇夫妻は忙しい政務の合間を縫って各地を精力的に訪問した。
 二人で手分けをして、あるいは二人一緒に。
 実際に自分の目で見て、民から直接話を聞き、取り入れられるものは極力政に組み入れ、実現不可能に思われることも考慮を重ね、民の納得が得られる方向へ持っていく。
 いまや二人は国民の絶大な支持を得ており、千尋に至ってはその可憐な容姿と相まって『国民的超人気アイドル』的な扱いをされるほどになっていた。

*  *  *  *  *

 その日、アシュヴィンと千尋はわずかな従者だけを伴い、根宮に程近い八街の村を訪れていた。
 根宮に居座っていた禍日神の影響を最も強く受け、大地の荒廃と疲弊が最も甚大だった村である。
 以前は乾ききった土地に崩れ落ちた家の残骸が散らばり不気味な雰囲気すら漂っていたのだが、今では家も立ち並び、整備された畑も青々と葉を茂らせている。 宮に近いだけに人も集まり、村というより町と呼んだ方が正しいと言えるほどに大きな集落になっていた。
 皇ご一行が村に一歩足を踏み入れればどこからともなく集まってきた子供たちが彼らを囲んできゃっきゃとはしゃぎ、通りを歩けばそこかしこは笑顔に満ちていた。
 昔の最も繁栄していた時代を考えればまだまだ遠く及ばないのかもしれないが、復興の第一歩としては十分だろう。

 村人たちからの深刻な陳情もなく、のどかな光景に満足した彼らは根宮への帰途につく。
 春の景色を堪能しながらぞろぞろと歩いていると、ふいにアシュヴィンが隣を歩く千尋の肘をくいっと引っ張り、身体を少しかがめて彼女の耳元に囁いた。
「── 行くか?」
 真横に現れた夫の顔を見れば、その口元には楽しげな笑みが浮かんでいる。
 千尋の顔がぱぁっと輝いた。
「うん、行くっ!」
 二人していたずらっ子のようにニッと笑い合う。
 アシュヴィンがすっと片手を上げた。
「── 出でよ、闇の聖獣」
 瞬間、虚空に生まれた黒い靄が渦を巻きながら大きく広がり始めた。黒い渦が大人の男が両手を広げたより一回りほどの大きさになると、中心からすっとした鼻面が顔を出す。 そして蹄の音もなくこちら側に躍り出たのは漆黒の身体に緋色の模様が美しい一頭の黒麒麟だった。
「へ、陛下っ !?」
 慌てだす文官たちをよそに、アシュヴィンは千尋の両脇を支えて軽々と持ち上げる。
 すると黒麒麟は宙に浮いていた身体を地に下ろし、『さあどうぞ』と言わんばかりに四本の足を折って身体を低くした。
「陛下、どちらへ行かれますっ !?」
「フッ……野暮なことを聞くな」
「で、ですが夕刻には会議がっ!」
 先に黒麒麟の背に千尋を乗せてやったアシュヴィンがその後ろにひらりと身軽に跨った。
「ごめんなさい、会議までには必ず戻ります」
 へらっと笑った千尋がすまなそうに顔の前でぱちんと手を合わせる。
 そんな彼女を包み込むように伸ばした手でアシュヴィンが豊かな鬣(たてがみ)を掴むと、黒麒麟はふわりと身体を宙に浮かべ、あっという間に空を駆けていった。
「……まったく、あのお二人には一国の主である自覚がおありになるのか…?」
 呆れを隠さずぼやく文官の一人に、成り行きをそっと見守っていたリブは思わず苦笑した。
「リブ殿!  リブ殿からも皇に進言してくだされ!  一国の皇たる者は──」
 ── やれやれ、向けそびれた矛先がどうやら自分へと向かってきたらしい。
 リブは苦笑を深めながら、依然続いている文官の苦言をやんわりと制した。
「や、あのお二人はあれでいいんだと思いますよ。 いつものことですし」
「なっ !?  皇に最も近いリブ殿がそんなことをおっしゃっていてはっ!」
「ですが、あのお二人は少々働きすぎだとは思いませんか?」
 ぐ、と呻いて文官は口を噤んだ。まだ何か言い足りないようではあったけれど。
 今では以前のように『寝る間もない』という状況ではなくなったものの、交代で休みが取れる臣下たちとは違い他に代わりのいない皇とその妃は休みなく動き回っている。 体力のあるアシュヴィンはともかく、華奢な身体の千尋が過労で倒れてしまわないのが不思議なほどに。
 リブは更に言い募る。
「それに、お二人きりになっても話すのは国のためになることばかりのようですしね」
「それは……」
 何か思い当たることがあったのだろう。文官は今度こそ完全に沈黙した。
 実際、二人きりの時間を過ごした彼らから『ちょっと考えてみたんだけど』と持ち出された提案は、どれもこれまでの常識では考えられない妙案ばかりだったのだ。
 そのほとんどが千尋が言い出したことらしいのだが、聞けば『前にいた世界にそういうのがあったの』という返答が帰ってきた。 突っ込んで聞いていくうち、リブの発明好きの血を刺激する話題が出てくるのだが、詳細を聞こうとすると『そういうのは風早とか那岐のほうが詳しいかも』と千尋は困った顔をする。 そろそろ復興も一段落ついたことだし、しばしの休暇をもらって橿原へ出向いてみようかと心躍らせているところだ。
「や、お二人が戻られたらすぐに会議を始められるよう、宮に戻って準備をしませんか?」
「まあ、リブ殿がそうおっしゃるなら……」
 とりあえず納得したのか、文官たちは根宮へ向かって街道を歩き始めた。
 リブはふと黒麒麟が飛び去った空を見上げた。
 さっきからなんとなく感じる違和感のようなもの。
 ── 今は戦の最中でもないし、移動は空なのだから心配はないとは思いますが…
 不安を振り払うように頭を振ると、リブは少し距離が開いてしまった文官たちに追いつこうと、歩き出した足を速めた。

*  *  *  *  *

 飛沫を上げて轟々と流れ落ちていく大量の水。
 苔むした岩に囲まれた滝壷には小さな虹が掛かっていた。
 滝壷から始まる清流に沿って広がる岩場をよたよたと進んでいた千尋は、上部が平坦に近い大きな岩に上がると思いっきり背伸びをした。
「ん〜っ、気持ちいいー♪  マイナスイオンいっぱいだ〜♪」
 高いところから落ちて砕かれた水のミストがひんやりと心地よい。
 ばっさりと切り落として以降ずいぶん伸びた千尋の金糸の髪が、落ちる水が生んだ空気の流れにふわりと舞い踊った。
「なんだ、その『まいなすいおん』とやらは?」
 空へと伸ばしていた腕を下ろした途端、後ろからふわりと抱きしめられ、耳元から聞こえてくる声。
 彼らはこうして時折、ささやかな二人きりの時間を楽しんでいた。
 それは森の中の清廉な泉だったり、緑のじゅうたんを敷き詰めたような草原だったり、色とりどりの花が咲き乱れる花畑だったり。
 まだ敵同士だった頃、出雲で連れていかれた笹百合の谷にしてもそうだ。
 『復興状況の視察じゃなくてデートスポットを探しに行ってるんじゃない?』と聞いた千尋に、アシュヴィンは耳慣れない言葉の意味を質問で返し、 頬を染めながらの千尋の答えを聞いた彼が大笑いしたこともある。
 自分の国だから、というだけでは説明できないほど、アシュヴィンは二人きりで静かに過ごせる穴場を知り尽くしているのだ。
 そして今日の『デートスポット』は山間を流れる川の上流のこの滝。
「えーっと、こういう滝とか、思いっきり水を出したシャワーとかでも発生する……とにかく身体にいいって言われてるのっ!」
「フッ、お前の話は時々訳がわからんな」
 耳に吐息がかかり、千尋はぞわぞわとした感覚が走り抜けた身体を竦ませる。
「ちょっ……もうっ、そうやって耳元でしゃべらないでっ!」
 必死に身を捩っても、アシュヴィンは抱きすくめる腕を緩めない。
「それは失礼した」
 くつくつと笑いながらおどけたように言って、千尋の頭の天辺にそっと顎を乗せた。
「あ、そうだ、打たせ湯なんてどう?」
「打たせ湯?」
「うん、滝を見てて思い出したんだけど、これくらいの太さでお湯を高いところから流して肩とかに当てるの」
 千尋は親指と人差し指で輪を作った片手をアシュヴィンに見えるように掲げた後、身体の前で交差する彼の腕を両手できゅっと掴んだ。
 唐突な話題転換のようではあるが、実は現在温泉施設を作る計画を立てているところなので、二人にとっては特に唐突な話題ではないのである。
 西方のとある村の裏手にある山の岩肌から温泉が湧き出ているのが最近になって発見されたのだ。
 その村は禍日神による土地の荒廃はなんとか免れたものの、元々寂れた村だった。
 そこに温泉施設を作れば、生活に余裕のできてきた民が地方から湯治に訪れ、村は賑わうだろう。いわゆる『村おこし』のようなものだ。
 人の流れができれば物や文化も流れ、国全体の繁栄にも繋がる── と、彼らの意見は一致した。
 スパやクアハウス、有名温泉宿といったおぼろげな千尋の知識を参考に、間もなく職人たちが現地調査を始める予定になっている。
「へえ、それはいいかもしれんな」
「でしょ? 痛気持ちいいらしいよ」
「『いたきもちいい』?」
「落ちてくるお湯がちょっと痛いけど、それが気持ちいいんだって」
「ふっ……はははっ」
 頭の上で突然笑い出したアシュヴィンを、千尋はぐいっと首を捻って見上げた。
「なによ、そんなに笑うほど変なこと言った?」
 恨みがましい視線を送っても彼の笑いは止まらない。
「ははっ、お前の話はいつまでも俺を飽きさせんと思ってな」
 笑い続けるアシュヴィンに、結局千尋までが笑い出していた。

 千尋を抱きしめる腕にぐっと力を込めたアシュヴィンが、再び彼女の耳元に顔を寄せた。
「── 千尋」
 再び耳にかかる吐息に『また!』と文句を言おうとした千尋だったが、咄嗟に声を飲み込んだ。
 彼の声に緊張が混ざっていたからだ。
「どうしたの?」
 潜めた声で聞き返す。
「後ろの木立に数人── 俺が腕を離したら、すぐに岩陰に身を隠せ」
「わかった……あなたは?」
「常世の皇とその妃を付け狙う不届き者の正体を突き止める」
「……無理はしないで」
「ああ」
 アシュヴィンが腕を解くと同時に二人はぱっと離れ、二手に分かれて岩から飛び退いた。
 ひゅん、と微かな音を立て、さっきまで二人が立っていた空間を数本の矢が突き抜けていく。
 対岸に届いた矢は岩に弾かれ、乾いた音を立てて転がった。
 ゾクリと背筋を走った悪寒に、岩の後ろにしゃがみこんでいた千尋は思わず自分の身体をぎゅっと抱きしめた。 行動に移すのがあと数秒遅ければ、アシュヴィンの背にはあの矢が突き立っていたに違いない。
 木立の中から『まずい、逃げろっ!』と焦りの声が聞こえた。 続けてガサガサと草を踏み荒らしていく乱れた足音。
「千尋!  ここにいろよっ!」
 聞こえた声に恐る恐る岩から顔を出せば、ちょうどアシュヴィンが黒麒麟の背に飛び乗るのが見えた。賊を追うのだろう。
 宙に駆け上がっていく麒麟につられるように立ち上がり、見上げながら祈りの形に両手を胸元で握り締める。
 どうして平和が訪れた今になってまで命を狙われなければいけないのだろうか?
 どこかの国が常世の国に侵攻しようとしている?
 いや、中つ国や周辺の諸国とも友好関係を保っているはず。
 訪れる村々の活気と笑顔の裏で、皇に牙を剥くほどの何かを抱えている人がいる?
 そうだとすれば、自分たちの力不足が胸に痛い。
「伏せろっ!」
「え……?」
 鋭い声にはっと我に返った。
 顔を上げると黒麒麟が真っ直ぐに急降下してくる。
 途中で宙に身を躍らせたアシュヴィンは足場の悪さも物ともせず着地して、即座に地を蹴り千尋に飛び掛った。
 訳もわからぬまま押し倒されて流れていく景色がぱっと赤く染まった。
 直後、下になった半身を襲う激痛。
 いつの間にか閉じていた目をぎゅっと瞑ったまま痛みをやり過ごす。
 首に何かが乗っていて、少し重い。
 喉の上を温かい何かが撫でていくのがくすぐったかった。
 身体の痛みが落ち着いてきて、千尋はゆるゆると目を開けた。
 開けたはずなのに妙に薄暗い。
 目の前に黒が迫り、首に乗った何かが日差しを遮っている。
「アシュ……ヴィン……?」
 目の前は黒い衣装のアシュヴィンの胸。
 首の重みは彼の腕。
 千尋の頭を抱え込むようにして彼女と共に倒れている。
「…アシュヴィン、大丈夫…?」
 返事がない。
 首に掛かった彼の腕を持ち上げると、ぬるぬるしたもので指先がズルッと滑った。
 彼の二の腕にできた醜い傷からドクドクと血が流れ出しているのが見える。
 震え始めた手で彼の腕を支えながら、千尋はゆっくりと上半身を起こした。
「アシュヴィン…?」
 目を閉ざして蒼褪めた顔の彼が枕のように頭を乗せている岩が赤黒く染まり、それはじわじわと侵食を続けていた。
「アシュヴィン!  アシュヴィン、目を開けてっ!  ───── いやあああああああぁぁぁぁぁぁっ!!!」
 彼らに起きた出来事に関係なく流れ続ける滝の轟音の中、悲痛な叫びが山間に響き渡った。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 さあ始まりました、アシュ千長編っ!
 あぁ、肝心なところまでかけなかった……(泣)
 それはまあ次回持ち越しってことで。
 なぜにこんなにシリアス?
 タイトルで展開とエンディングがバレバレではありますが。
 実は、着地点はおぼろげに決まってはいるものの、
 その間の展開はまだ白紙という驚異的超見切り発車!
 そんなわけで、しばしお付き合いくださいませ♪
 それにしても……最近あたしが書く文章はなんかクドい…?
 よし、最後までクドいまんま突っ走ってやるっ!(笑)

【2008/09/27 up】