■Little Girl【18】
目の前に海の碧と空の蒼、色合いの違う2つの青が重なり、どこまでも続いていた。
切り立った崖の下を覗き込めば弧を描く白い砂浜が見え、丸太を組んで作った桟橋には漁に出る時に使う小舟がゆらゆらと波に揺られている。
鬱蒼とした原生林を貫く獣道を抜けたところにあるこの高台が、将臣のお気に入りの場所だった。
そこから緩やかに続く岬の先端が、まるで咆哮を上げながら天に昇っていく龍の頭のように見えることに気づいたのは、この場所を見つけてすぐのことだ。
それらすべてを全身で感じようとしているかのように目を閉じて立ち尽くしていた将臣は、不意に目を開け、小さな息を吐いてから生い茂る草の上にごろりと身を横たえた。
枕代わりの両手を頭の下に敷き、日差しの眩しさに再び目を閉じる。
吹き抜ける風が、前髪やTシャツに似せて作った簡素な服の袖を揺らしていった。
この名もなき南の島に流れ着いてから、すでに三年の月日が流れていた。
* * * * *
── 三年前のあの日。
目が覚めた時、空はすっかり茜色に染まっていた。
熟睡した後のように軽い身体を起こしてぐるりと見回せば、意識を失う前と同じ配置で倒れ伏している身体がいくつも見えた。
一番最初に目覚めたのは将臣だったらしい。
もう一度辺りを見回してみるものの、どこかで同じように眠りこけていてくれればいい、と願った姿はどこにもなかった。
なんで、という焦りと、やっぱり、という納得が心の中に同居している。
だがきっと納得のほうが勝っていたのだろう。
姿があることを願うということは、姿がないことをおぼろげに確信していたからだ。
── 望美は己の身を犠牲にして、この世界を救ったのだ。
その現実を受け入れた振りをして、将臣はゆっくりと立ち上がった。
軽い身体に反して、心はずしりと重い。
ぽっかりと虚ろになってしまっているはずなのに。
かしゃり、と軽い音を立てて何かが落ちた。
拾い上げ、じっと見つめる。
「……返しそびれちまったな」
持ち主を失ってしまった小さな白い銃を、将臣は大事そうに懐に収め、目を背けるようにしてその場を後にした。
福原に戻って気がついたのは、肌に感じる空気が優しくなっていることだった。
乗ってきた馬を厩に戻し、邸の中へ入る。
将臣が『還内府』と呼ばれるようになってからずっと片腕として働いてくれた経正の部屋で、一通の書状を見つけた。
こうなることがわかっていたかのように綺麗に整えられた部屋の文机の上に置かれた書状には『有川将臣殿』と表書きがあった。
手にとって、ふわっと宙に浮かせるようにして開いた。
流れるような筆文字が綴るのは、これまで平家を率いてくれた将臣への礼と、その重責に縛り付けてしまった詫びの言葉。
「経正……」
礼も詫びも、言いたいのはこっちの方だ──
将臣は思わず唇を噛んだ。
どこの馬の骨かわからない自分に、拾われた当初から好意的に接してくれたのが経正だった。
平家が滅びることを知っていて、形は違えど結局その運命を変えることができなかった。
礼も、詫びも、言えていない。
そして彼の立ち会うこのできない和議の条件。
ほとんど全面降伏に近い内容ではあったけれど、残された者の身の安全を第一に考えられたもの。
それから南へ落ち延びるための食糧や物資について。
相談は受けていなかったが、経正はその日が来ると信じて、十分とは言えないもののある程度の物資を揃えておいてくれたらしい。
それに続くのは新しい生活を始める上でのアドバイスめいた言葉。
将臣の口元に薄い笑みが浮かんだ。
直後、文を破り捨てたい衝動に、将臣の手に筋が浮かび上がるほど力がこもった。
書かれていたのは『白龍の神子』への感謝。
弟の敦盛を含め、怨霊となった者たちすべてからの心からの感謝の言葉だった。
そして。
『── 全てが終わった暁には、神子殿のお姿も元に戻られていることでしょう。
良き伴侶として、末永くお幸せに──』
── いもしねえヤツとどうやって幸せになりゃいいんだよ。
吐き捨てようとした言葉の代わりに、雫がぽたりと紙に落ちて墨をにじませた。
手の力が抜けて、書状がするすると滝のように零れ落ち、床にわだかまる。
後を追うように将臣の身体もその場に崩れ落ちた。
しばらくして、袖でぐいっと乱暴に頬を拭った将臣は書状を元通りに畳み直し、懐に突っ込んで立ち上がる。
確認を続けるため、邸中を歩き回った。
結果、人ならざる存在に身をやつしていた者は、誰一人として残っていなかった。
空気が優しいと感じたのは、彼らが放つ陰の気が消えたからなのだろう。
そして『和議を一月先に延ばしてほしい』と源氏からの使者が訪れたのは、とっぷりと日が暮れた頃のことだった。
一ヶ月というのは、各地に配置していた兵を呼び戻し、完全に武装解除させるには十分過ぎる時間だった。
船さえあればすぐにでも発てる状態になっている。
本当に落ち延びられるのかという不安と、落ち延びた先での新しい生活への期待がないまぜになった、もどかしい日々が過ぎていった。
源氏の代表としてやってきたのは九郎だった。
一時期仲間として行動した者たちが後ろに控えている。
「── どうしてここに将臣が !?」
「……悪いな、俺が『還内府』だったんだよ」
苦笑混じりに告げれば、瞠目して言葉を失ったのは九郎だけだった。
他の者は薄々感づいていたらしい。
中立である熊野別当として和議の立会人を任されたヒノエが、ニヤニヤと笑いながら成り行きを眺めていた。
双方の内部事情を知っている彼には面白い見世物に違いない。
そんな彼の正体もつい最近知ったらしい九郎は、忌々しそうにヒノエを睨みつけていた。
── あの日、目覚めた彼らが有馬に戻ると、陣中は大騒ぎになっていたらしい。
和議のための使者に立つ北条政子が陣に到着して早々、辺りが白く光ったと思った途端、皆が揃って気を失ってしまったという。
その後目覚めた政子がきょとんとした顔で『あらわたくし、どうしてこんなところにいるのかしら?』と呟いたのだから、大将不在の陣が大騒ぎにならないはずがない。
和議延期を伝える使者を出し、政子を送り届けるのを兼ねて、九郎、弁慶、景時が鎌倉へ出向き、頼朝に直談判した。
頼朝の諦観したような皮肉っぽい笑みを浮かべる口から聞こえたのは『好きにしろ』という一言。
そして一月後の今日、ようやく正式に和議を結ぶこととなった。
とはいえ、形だけの和議の場で交わす言葉はそう多くない。
別れを惜しむ言葉と、互いを励ます言葉。
敢えて触れない話題があることは、皆が身に沁みてよくわかっていた。
熊野の交易船を連ねての南への船旅を終え。
入植した無人島での生活は過酷だった。
身体を休めるための屋根を作り、農地を拓き、寝る間も惜しんで身体を動かす日々。
豊かに見えた自然がなぜか侵入者を威嚇するかのように牙をむいた。
木々が付けた実は熟す前に地に落ち、沖まで船を出しても魚影はなく。
熊野の交易船が時折立ち寄って、かつての仲間たちからの支援物資を置いていってくれていなければ、おそらく悲惨な事態に陥っていただろう。
『もっと大量に持ってきてやれたらいいんだけど』という呟きに問い返すと、本土も天候が荒れた訳でもないのに作物が不作だったらしい。
二年目が過ぎる頃には自給自足の生活も徐々に安定してきた。
島は徐々に侵入者への警戒を解いたように恵みを与えてくれ始めた。
採れたものを皆で分け合い日々の糧にする。
きちんとした家も建ち始め、村としての体裁も整っていった。
そんな中、この島で初めての新たな命が生まれた時は、皆が我がことのように喜んだ。
明確な春夏秋冬のない夏ばかりのこの島で、それでも僅かに感じる気候の変化が三度巡った頃。
将臣は不意に『役目が終わった』と感じた。
波に揺られる船の上で『俺はもう還内府じゃない』と宣言して以降、最近になってようやく『将臣殿』と本来の名前で呼ばれることが多くなったのもその理由の一つかもしれない。
面倒事が持ち込まれれば、『譲に言え』と一緒に海を渡ってくれた弟へ押し付ける。
マメで几帳面な弟の方が、そういう問題処理はうってつけなのだから。
嫌そうな顔で睨まれるけれど、結局ちゃんと始末をつけてくれる。
今では将臣に面倒事を持ち込んでくる者もほとんどいなくなった。
隠居のような生活をしていても、不満を言う者は誰もいない。
魂が抜けたような目でぼんやりと遠くを見つめている彼の姿を見れば、文句なんて言えるはずもなかった。
恐らく、自分が不意に姿を消したとしても、上手く回り始めたこの島での生活に大きな混乱をきたすことはないだろう。
皆が助け合って生きていける──
そう確信していた。
* * * * *
草の上に転がって、眩しいほどの蒼い空に目を細めながら、将臣はごそごそと腰のあたりを探った。
取り出したのは、手にすっぽりと収まる大きさの白い塊──
あの日、望美に返しそびれてしまった彼女の白い銃だった。
目にするのは福原を発つ時に荷造りした荷物の中にしまい込んで以来。
この高台でぼんやり過ごそうと思い立った時、なんとなく持ち出してきた。
白く美しい丸っこい銃は、とても武器とは思えない優しい輝きを保っていた。
「── なんか……オカリナみてえ」
吹いても音なんて出るはずもないのは解りきっている。
それでも将臣はその小さな銃をそっと唇に押し当てた。
静かに目を閉じる。
唇に触れる感触は確かに硬いのに、どこか温かい気がした。
その時、小さな銃が微かに光を放ったことに、目を瞑っていた将臣が気づくはずもなかった。
【プチあとがき】
ラストにしようと思ったのに……
状況説明が長くなった(汗)
【2010/07/27 up】