■Little Girl【19】
ふと気がつくと、将臣は茜色に染まる教室に佇んでいた。
口元に自嘲めいた笑みが浮かぶ。
これが現実でないことはわかりきっていた。
日が落ちて高台から戻った将臣は、弟が作ってくれた夕飯を食べた後、窓から月を見上げながら酒を嗜んでいたのだから。
少し前に熊野の船が立ち寄った時、『たまには酒に溺れるのもいいんじゃない?』と悪戯っぽいウインクをしながらヒノエが押し付けていったとっておきの酒を。
── ああ、そういえば今日は満月だったか。
それにしても、この夢を見るのは何年ぶりだろう。
どうせ誰にも会えないのだから、こんな夢を見たって虚しいだけなのに。
溜息を吐きながら、手近な椅子に腰を下ろす。
夢の中でも眠れるのだろうか、と考えながら机に突っ伏そうとしたその時──
開けっ放しになっている扉の向こう、廊下を何かが横切ったような気がして将臣は勢いよく立ち上がった。
椅子が倒れて床にバウンドするのもお構いなしに教室を飛び出していく。
遠く廊下の角を長い髪がふわりと尾を引いて隠れていった。
夢中で走った将臣が辿り着いたのは、校舎の屋上。
膝に手をつき、切れた息を整えていると、カシャン、とフェンスが鳴る音がして顔を上げる。
「── っ !?」
ふわり。
長い髪が風になびいて宙に揺れていた。
懐かしい制服のスカートの裾が、少し強い風にはためいている。
「のぞ……み……?」
フェンスを掴んで外の景色を見下ろしていた制服姿が、ゆっくりと振り返った。
「あ……見つかっちゃった」
苦笑を浮かべて肩をすくめて見せたのは、紛れもなく望美だった。
「おま……っ」
ぐっと拳を握り、つかつかと彼女の元へ歩いていく。
「── 何が『見つかっちゃった』だ!
一人で勝手にあんな無茶しやがって!
ほけほけと夢ん中で遊び歩いてるくらいなら、さっさと戻って──」
肩を掴んで抱き寄せようとした将臣の手は、何の抵抗もなく彼女の身体を通り抜け、スカッと音の聞こえそうな勢いで振り下ろされた。
驚きに将臣が瞠目して、中途半端に伸ばした自分の手を思わず見つめてしまう。
前に見たこの夢は、目覚めてからも手に感触が残っているほどリアルなものだったはずなのに。
「……っ !?」
「ごめん……私、夢を見てるわけじゃないから」
カシャン、と音を立てて、望美がフェンスに凭れた。
将臣が望美に触れることができなくても、望美がこの夢の世界に存在していることは確からしい。
「……龍脈の中を漂ってる状態で……私の身体はないから……」
泣き笑いの表情を浮かべ、俯きがちに望美がぽつりと呟いた。
「だったら……俺の夢ん中に入って来れるんだったらさっさと出て来いよ。
あれから一体何年経ったと思ってんだよっ」
「そっ、そんなこと言ったって!
なんか急にここに引き寄せられたっていうか……あ、合わせる顔がなかったっていうか……」
小さく不明瞭になっていく声と同時に、一度上げた顔を深く俯けていく望美。
将臣は彼女の隣に立ち、同じようにフェンスに背中を預ける。
ガシャン、と大きな音がして、網状の金属がぎしりとたわんだ。
「……そりゃあ合わせる顔もねえよな。
勝手にあんなことやらかして、勝手に人の頭ん中に遺言みたいなセリフ垂れ流して──」
『遺言』と紡いだ自分の声に少なからず衝撃を受けて、将臣は思わず次の言葉を飲み込んだ。
立っているのが苦痛になって、ずるずると背中を滑らせてその場に座り込む。
片膝を抱え込み、もう片方の足を前に投げ出した。
その時初めて、自分の姿が何も知らなかった頃に当たり前のように身に着けていた高校の制服姿になっていることに気がついた。
「わ、私だって色々大変だったんだもん!
陰の気をごっそり龍脈に引きずり込んで、流れながらちょっとずつ浄化されていって、ようやく最近正常に戻りつつあるんだから!」
この世界の根幹とも言うべき話だろうに、まるで『ちょっと体調崩してました』くらいの重みにしか感じない言い方をする彼女の訴えを聞いていると、なんだか可笑しさが込み上げてきた。
「── だよな……お前も大変だったんだよな」
くすくすと漏れる笑いを隠さずに、気の抜けた声で相槌を打ってやると、望美はストンと隣にしゃがみ込み、将臣の顔を覗き込んできた。
「『お前も』ってことは……将臣くんも、いろいろ大変だった……よね?」
「まあな……長いこと船に揺られて島に辿り着いたはいいが、木の実も採れねえ、魚も獲れねえ、作物も育たねえ……腹減って目ぇ回してる奴が大勢いたさ」
「あー…………ごめん」
ぺたんと座り込み、望美はしょんぼりと両膝を抱えた。
「……何でお前が謝るんだよ。
腹が減るってことは、生きてるってことだろ。
生きてりゃそのうちいいこともあるさ。
『命あっての物種』って言うしな」
「……そうじゃないの」
やけに暗い声に顔を覗き込もうとしたけれど、俯いた彼女の表情はカーテンのように垂れ下がる長い髪に遮られ、うかがい知ることができない。
「── 龍脈に陰の気を巡らせてしまったから、土地が枯れたんだと思う……やっぱり私のせいだよ」
そう聞いてみれば、いろんなことに納得できて、将臣はそっと息を吐き出した。
「……そう気に病むなって。
最初こそ大変な思いもしたが、今じゃ食うに困ることなんてないんだぜ?
みんな──
笑いながら生きてるさ」
すっかり落ち込んでしまった望美を励ますべく、頭を掻き回してやろうと伸ばした手をはたと宙で止めた。
話しているうち忘れかけていたが、彼女は実体のないホログラムのようなものなのだ。
ぎり、と奥歯を噛み、ぎゅっと指を握り込む。
その時だった。
『── 将臣、願って』
頭の中に直接声が響いてきた。
低く温かく響くその声は、初めて聞くはずなのにどこか懐かしい気がする。
── 願う?
『── そう、願って。
強い願いは、叶うよ』
声に出さずに反芻した問いに、再び答えが返って来る。
── 今願うことは…………望美を、この手に──
思考が疑問を感じる間もなく、身体がすぐさま実行に移っていた。
握り締めた指をゆるゆると解き、開いた手のひらを顔を膝に埋めた彼女の頭に恐る恐るそっと下ろす。
ふわっと柔らかなものに触れた。
次の瞬間、将臣は望美の身体を奪い取るようにして引き寄せ、強く抱きしめていた。
「えっ、な、なんでっ !?」
胸元から聞こえる素っ頓狂な声と同時に、視界が一気に白く塗り潰された。
* * * * *
頭がズキリと痛んで目が覚めた。
重いまぶたを薄く開いてみれば、朝の陽射しが目に沁みる。
丸まるようにして横たえた身体には見慣れた衣が掛けられていた。
珍しく酔い潰れて眠り込んでしまった後、弟が掛けてくれたのだろう。
と、胸元で何かがもぞりと動いた。
── 抱き枕……なんて持ってねえよな。
働かない頭でぼんやりと考えてから、胸元のそれをぎゅうっと抱き締める。
柔らかくて、温かくて、心地いい。
「ん……くるし……」
聞こえてきたか細い声に一気に覚醒して、衣を跳ね上げ身体を起こす。
そこにあるあまりに信じられない光景に、将臣は呼吸も忘れて見入ってしまった──
背中を丸めて横たわる望美が静かな寝息を立てていた。
ゆっくりと手を伸ばし、白く細い腕の上に震える指先を滑らせる。
確かに存在する、温かい感触。
泣きそうになりながら滑らせる指を何度か往復させた時、ん、と小さく唸って望美がゆるゆるとまぶたを上げた。
「よっ、おはよ」
「── っ !?」
望美は、ぱちっと目を開いて、がばっと身を起こす。
言葉もなく見つめ合っていると、望美の目がみるみるうちに潤んでいった。
「私……帰ってこれたんだね……」
ふわりと笑った彼女の目から、涙がひとしずく、零れ落ちた。
ああ、と答えた将臣の視線が、ふと彼女の顔から少し下に降りた。
「……………………お」
「どうかした?」
「絶景」
「へ……?」
視線をたどって自分の身体を見下ろした望美の顔が一気に真っ赤になった。
彼女はなぜか、一糸纏わぬ姿を晒していたのである。
「みっ……見ちゃダメーっ!」
傍にあった衣を手繰り寄せ、胸元に抱えてがばっとうずくまる。
「見るなって……お前が何にも着てねえのが悪いんだろうが!」
とそこに引き戸がスパーン!と勢いよく開かれて、
「兄さんっ!
朝っぱらから何ひとりで騒い……で……って、せ、先輩っ !?」
戸口に仁王立ちになった譲が、そこにある後ろ姿を認めて見事なまでに顔を赤く染めた。
くるりと回れ右して、さっきと同じようにスパーンと小気味よい音をさせて戸を閉める。
「は、早く何か着てくださいっ!
詳しい話はその後で聞かせてもらいますからっ!」
家中響く大きな足音が徐々に遠ざかっていった。
肩越しに振り返った彼女の無防備な背中は、彼の目には神々しくもなまめかしく映っていたに違いない。
それ以上に、彼女が兄の部屋で肌を晒していたことをどう捉えただろうか。
考えて見れば気の毒やら可笑しいやらで、将臣はこの島に来て初めて、涙が浮かぶほどの大きな笑い声を上げた。
「もう……そんなに笑うことないじゃない」
むくれた声に振り返ると、ちょうど望美が適当に見つけ出した腰紐をきゅっと縛り終えたところだった。
着ているのはもちろん、さっきまで掛け布団代わりにしていた衣である。
振り返った彼女が将臣の足元を見て、あ、と小さな声を上げた。
釣られて見下ろすと、そこにあったのは小さな白い銃。
「……ああ、これな。
熊野でお前が消えた時に拾ってから、返そうと思ってずっと持ってたんだが……」
拾い上げ、一度きゅっと握り締めてから、ぐいっと腕を突き出した。
「そっか……あの時落としちゃったんだ。
戦うこともなかったし、もうすっかり忘れちゃってたけど」
望美はくすくすと笑いながらゆっくりと近付いて、差し出した手の上の銃に手を伸ばす。
その指先が触れた瞬間、銃は弾けて眩しい光の粒となり、きらきらと瞬きながら消えていった。
驚いて目を見開いた将臣とは対照的に、望美は少し驚いた後で柔らかい笑みを浮かべていた。
「── うん、わかった」
「……何が『わかった』なんだよ」
「あのね、白龍がね──
もうすぐ力が満ちて応龍になれるから、元の世界に帰してあげられるって」
「もうすぐ……って?」
「んー、季節が一周するくらい?」
「一年、か…………よしっ」
きゃ、と悲鳴を上げて望美が将臣の胸にぶつかった。
急に引き寄せられたのだ。
「あと一年、南国生活をエンジョイしようぜ」
ニカッと笑う将臣の顔を見て、締めつけられる苦しさに文句を言おうと開いた望美の口がパクパクと動き、
「よ……よろしく、おねがいしま、す……」
ぽっと赤く染めた顔を胸に埋めてきた身体をさらに強く抱きしめて、確かにここに存在していることを実感した。
「── で、お前の銃、なんで消えちまったんだ?」
「龍脈に還ったんだと思う。
あの銃は、白龍の力を具現化したものだから。
たぶん、役目を終えたから、なんじゃないのかな」
「へえ」
「と……ところでさ、将臣くん、あの銃に何か変なことしなかった……?」
「変なこと、ってなんだよ」
「だ、だから……あの銃って、私の気を集めて撃ち出してたじゃない?
少しは私の気が残ってたんじゃないかなって……」
「それで?」
「ほ、ほら、急に将臣くんの夢の中に入れたりとか、こうして戻って来れたりとか──っ」
その先に続く言葉を、将臣は奪い取った。
素直に教えてやるのは少し癪だったけれど。
唇が触れ合うまま、『こうしたんだよ』と囁いて、改めて柔らかな彼女の唇に口付けた。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
よしっ、終わった!
趣味に始まり、趣味に終わったというか。
第1話が2006年11月……足掛け4年。
まあ、途中止まってたけど。
埋め損ねて唐突に出て来たネタ、埋めたけど回収しきれなかったネタもあり。
最後のほうは蛇足の連続だし。
もう頭の中がワケワカメなので、この辺りで勘弁してください(汗)
ともあれ、続きを待っていてくださった神子様方、大変お待たせいたしました。
ここまでお付き合いくださった皆様に感謝です。
【2010/07/27 up】