■Little Girl【14】
宴の夜以来、言仁は望美のところに足繁く出向いていた。
だが和議に乗じて源氏が攻めてくることがわかった以上、『平家の還内府』たる将臣にはやらねばならないことがありすぎて、日のあるうちに望美の傍についている時間などゼロに等しい。
将臣がいつもの儀式を行ってやらなければ望美はイモムシ状態のままだ。
一緒に遊ぶことはおろか、目を開けた顔すら見ることができないまま、言仁は肩を落として祖母の元に戻るしかなかった。
和議が十日後に迫った日の夕刻、言仁は望美が眠る部屋の前にいた。
きょろきょろと辺りを窺う様子は明らかに挙動不審。
だが、彼にとって幸運だったのは、戦の準備が大詰めで殺気立っている大人たちには眠り続ける姫に目を向ける余裕がなかったことだろう。
言仁は誰の目にも触れることなく、部屋の中に潜り込んだ。
褥の上に広がった袿の中、掻巻の襟元を掻き寄せて丸まって眠っている望美。
言仁はその傍に腰を下ろし、顔を覗き込む。
眉を寄せ、浅い息をする彼女を見ていると胸が苦しくなった。
「望美殿……いつになったら一緒に遊べるのだ?」
ぽつりと呟いた言仁は握りしめていた手をそっと開く。
幼い小さな手の中には、黒く艶やかな一片があった。
「……これはお祖父様が大事にしているものなのだ。
死んだ者を蘇らせる力があるのだぞ。
そのような力があるのならば、望美殿もすぐに元気になる。
望美殿が元気な顔を見せれば、お祖父様も還内府殿もきっと喜ばれるに違いない──」
眠る望美に話しかけるというよりも、自分自身に言い聞かせるように言い訳をする。
それは祖父の元から『大事な物』を黙って持ち出してしまった罪悪感から来るものだろう。
けれど今の言仁には、祖父から叱られることよりも、元気になった可愛らしい姫と一緒に遊べることの方が重要だった。
「お祖父様もきっと許してくださる──」
こくん、と喉を鳴らして唾を飲み込むと、掻巻の分厚い襟の合わせに黒い一片をぐっと差し込み、立ち上がる。
彼は大きな事を成し遂げたような充実感を抱きながら、静かに部屋を後にした。
明日は何をして遊ぼうか、と考えるだけで楽しくて仕方なかった。
* * * * *
『──── 神子』
自分を呼ぶ声がする── 望美は必死に目を開けた。
薄暗い視界に充満するのは黒い靄。
それ以外何も見えない。
そこにあるはずの物が靄に隠されていて見えないのか、それとも本当に何も存在しないのか、判別はできなかった。
『── 神子』
「誰………?」
声が響いてくる方向がわからなくて、きょろきょろと辺りを見回す。
靄の向こうに黒い影が動いたような気がして、望美は思わず駆け出した。
だが懸命に走っても何にも追いつけず、どこにも行きつけなかった。
「ここって……」
足を止めた望美は再びぐるりと周囲を見渡した。
そういえば、以前似たような場所に来たことがある。
その時はもっと白く明るく、眩しいほどだったが。
「もしかして……白龍…?」
何かに縋るようにきゅっと胸元で手を握り合わせ、呟くように訊いてみる。
『── あなたは……私の神子ではないのだな』
悲しげな声が低く響く。
『意気消沈』という言葉を声に表せばこんな感じなのだろうと思わせるような痛々しい声だった。
望美を神子に選んだ龍神が成長した時の声によく似ている。
それよりももっと深く昏い色が滲んだ響きを持っていた。
声の主は白龍ではありえない。
今の白龍は力が足りなくて、いまだ子供の姿のはずだからだ。
「黒龍……なの?」
呟いた途端、目の前に黒がわだかまる。
それは人の姿のようであり、目を凝らすとただの靄にしか見えない曖昧なものだった。
『私に流れ込んできた気は、あなたのものだったのか……力強く、温かい…』
「え……」
『……私の神子の気配を感じた……優しく、慈悲深い……懐かしい、私の神子』
「朔は── あなたの神子は、私の一番の親友だよ!」
『── そうか』
黒いわだかまりが優しく微笑んだような気がして、望美の顔にも笑みが浮かぶ。
だが、望美はすぐに緩んだ口元をきゅっと引き締めた。
「ねえ、黒龍……さっき、私の気があなたに流れ込んだって言ったよね?
それって、返してもらうことはできないの?
私にはやらなきゃいけないことがあるの。
こんなところでいつまでも寝てるわけにはいかないの!」
『それは……』
黒い影が身を竦めるように僅かに縮んだように見えた。
『……私に残った力と、あなたの神子としての力……一つに溶け合い、分かつことはできない』
「それじゃあ……」
『今のあなたには、悲しき存在を封じることはできない』
「っ !?」
神子の力がない── 怨霊を封じることができない自分に、一体何ができる?
絶望は立つ気力を奪っていく。
望美はその場にへなへなと崩れ落ちた。
『── ただ、ひとつだけ方法がある……あなたが前に進むための方法が』
心の中を読み取ったかのように、黒龍の声が響く。
望美は思わず顔を上げた。
「それは……どんな方法…?」
そして感情をどこかに置き去りにしたかのように淡々とした声で語られた言葉。
作為的にそういう言い方をしているのではないかと思えるその声を聞いているうち、涙が溢れて視界がぼやけてきた。
どうしようもなく震える身体を必死に抱き締める。
しばらくの間、膝を抱えて身体を小さく丸め、黒龍の言葉を頭の中で反芻しながら必死に考えた。
そして、望美は膝に押し当てていた顔をすっと上げた。
子供みたいに袖でぐいっと乱暴に涙を拭い、すっくと立ち上がる。
「……いつまでも泣いてたって、何も変わらないよね……私、やってみるよ」
ふわり、と身体が温かい何かに包まれた。
目の前の黒い靄が濃さを増している。
たぶん黒龍が抱き締めてくれているのだ、と望美は思った。
「ありがとう、黒龍……ふふっ、朔には内緒にしておかなきゃね。やきもち焼かれちゃうよ」
身体を包む温度が急に跳ね上がったように感じた。
こんなところは龍神も人もあまり変わりがないのかもしれない。
込み上げてくる笑いを抑えられずにクスクス笑ってしまう。
『神子、龍の宝玉を──』
念を押すような声が響く中、望美は優しい闇に引きずり込まれていった。
はぁ。
大きな息を吐いて、ぱちりと目を開ける。
この明るさは、朝と昼のちょうど中間、といったところか。
手探りで掻巻の帯を解き、合わせを跳ね上げるようにして寝転んだまま思い切り背伸びをした。
誰か見ている者がいれば『イモムシがいきなり蝶になった』と思ったかもしれない。
湿った目元を袖口でぐしぐしと拭い、天井を見上げながら胸元に手をやった。
少し肌蹴た単の襟の合わせに滑らせた指先には、硬く滑らかな感触があった。
* * * * *
「── 還内府殿、本当によいのか?」
「ああ、かまわねぇぜ。和議の準備も一段落したし、たまには昼間起こしてやんねぇとな」
廂を歩く足元に鬱陶しいほどに纏わりついてくる少年の姿に、将臣は思わず苦笑した。
まるで飼い主にじゃれつく子犬のようだ。
少年── 言仁が何かに追い立てられるように『望美殿はもう目覚めたのか?』と訊きに来たのはつい先ほど。
何をそれほど焦っているのか不思議に思いつつも、将臣は望美の元に向かうことにした。
和議の、いや和議に乗じて勃発するであろう戦の準備は実際に一段落している。
作戦も綿密に立てた。
後は実際に人を配置するだけ。
船の集まりが芳しくないから、ギリギリまで交渉しなければならないが。
そして、彼女の身柄をどうするか、本気で考えなければならない時期が迫っていた。
望美は── 『源氏の神子』なのだ。
自分は平家を守り抜くと決めた以上、彼女を元いた場所に帰すべきであることはわかっている。
熊野別当に宛てた文にもそう書いた。
だが、今のイモムシ状態の彼女を送り返すのは不安が大きすぎた。
自分の身も自分で守れないような状態では、いくら他の八葉たちが周りにいたとしても危険すぎる。
ならばいっそ自分の手元で守ったほうがよほどいい。
いや、この手で守りたい。
けれどやはり彼女は『源氏の神子』── 思考はいつまで経っても堂々巡りする。
いつか戦場で彼女と剣を合わせることになるのかもしれない、と覚悟したこともあったが、今の彼女は完全に守るべき対象だ。
渦巻く葛藤の中、将臣は大人しくなって隣を歩いている言仁を見降ろした。
自分が彼くらいの年齢の頃は、まさか自分が大人になってこんなことで悩むことになろうとは思ってもいなかった。
今の彼のように纏わりついていた弟は成長するごとに口うるさくなっていき、少々辟易していたけれど。
いつも隣にいた幼馴染は意識しなくても隣にいた。
『また明日』と別れたら、『おはよう』と顔を合わせるのが当たり前だった。
明日の生活も、命の心配もしなくていい、平和な毎日。
けれど、自分は今、ここにいる。
この少年も、その一族も、自分の知る異世界の歴史が辿る悲劇から守ると決めたのだ。
決意を新たにしたところで、ちょうど目的の部屋の前に到着した。
いつの間にか両肩に積もり積もった重責を背負い直すように肩を揺すって力を抜く。
「ぅおーい、望美ぃ、調子はど──」
「あ、おはよう、将臣くん……って、もう『おはよう』って時間じゃないよね、あははっ」
足を踏み入れた部屋の中では、夏の熊野で見慣れてしまった小さな女武者が自分の使っていた寝床をてきぱきと片付けていた。
【プチあとがき】
This is 強引!
あははー、ものすごい急展開ですねぇ(笑)
読み手置いてけぼり展開のはじまりデス!
さて、黒龍が望美に告げた『方法』とは !?
【2010/02/13 up】