■Little Girl【13】
京から来た使者が帰っていった後、経正は将臣に続いて部屋に戻った。
「── よう、調子はどうだ、イモムシ姫?」
部屋に入るなり、揶揄を含んだ声をかける将臣。
もぞもぞと動く気配がして、ん、と微かな声が聞こえてくる。
几帳を回り込むと、褥の上には巨大なイモムシがいた。
もちろん比喩である。
熱は下がったというのにいまだ寒気を訴え続ける望美のため、綿のたっぷり入った真冬用の掻巻(かいまき)を用意してやった。
彼女はそれに包まり、さらに身体を丸めて眠る。
それを見た将臣が『イモムシみてぇだな』と感想を漏らしたのが最初だった。
将臣は掻巻の帯を解き、中から望美の小さな身体を抱き上げた。
それから胡坐に座った膝の上に乗せ、しっかりと彼女の身体を抱き締める。
しばらくすると蒼白な望美の顔に微かに色が戻ってくる。
ふぅ、と大きな息をついてゆるゆると目を開ける様子は、まさに『息を吹き返した』という言葉がぴったりだった。
こうして将臣の膝の上で過ごす間だけ、彼女は元気を取り戻す。
それがわかって以来、将臣は多忙な中で無理矢理作った時間が許す限り彼女の傍についているように努めていた。
身体を動かせるようになった望美は向きを変えて座り直し、まだ無数のかさぶたが残る足を投げ出して将臣の胸に背中を預ける。
その身体の前に将臣が腕を回して支えてやる── 彼女が目覚めるための儀式のように、毎日繰り返されていた。
それを見計らったように女房が膳を持ってやって来る。
膳の上には赤く色づいた柿。
綺麗に皮をむいて、食べやすい大きさに切ってある。
満足に食事を取れない望美のために、将臣自ら手に入れてきたものだった。
「わぁ……おいしそう!」
「だろ? しっかり食って、早く元気になってくれよ」
「………うん…ありがと」
望美は今にも泣き出しそうに顔を歪めた。
身体の回復が捗らないもどかしさを一番感じているのは彼女自身。
湿りを帯びた声で、表情は見えていない将臣にも彼女がどんな顔をしているのか分かったのだろう。
彼女の頭をぐしぐしと乱暴に掻き混ぜる。望美は、すん、と鼻をすすって、
「…もうっ、痛いよ将臣くんっ!」
「悪い悪い、もうしねぇって。ほら、余計なこと考えてないで、さっさと食えよ」
「ん……いただきます─── うん、甘くておいしい!」
柿を一口頬張った望美の表情がみるみる笑顔になっていく。
彼女の頭をそっと撫でる将臣の顔も満足げなものに変わっていった。
柿は綺麗に望美の腹の中に収まって、空になった皿を膳に戻そうと望美が腕を伸ばした時だった。
ヴン、と風を切るような音が鼓膜を叩き、部屋がすぅっと冷気に包まれる。
望美の手をすり抜けた皿が、膳の上へゴトンと大きな音を立てて落ちた。
「── なんだ、ここにおったのか。探したぞ」
突如湧いて出た少年が憮然とした顔で言い放った。
目にも鮮やかな黄色の衣装を纏う彼は、実は怨霊として蘇った平家の棟梁・清盛なのである。
「重盛、経正、早う出撃の準備を始めぬか」
「伯父上、それではせっかくの和議が……和議の打診のために京から来た使者が帰ったのは、つい先ほどのことではありませんか」
「……あの頼朝めに素直に和議を結ぶ気があると思うか? どうせ罠に決まっておる──
ふん、返り討ちにしてくれるわ!」
鼻を鳴らして息巻く清盛が、ふと将臣に目を止めた。
くっと眉根を寄せ、つぃと目を細めて。
「重盛……その娘は?」
まさか──
将臣のこめかみを冷たい汗が流れ落ちる。
『源氏の神子』が現れて以降、清盛は戦場には赴いたことはないはずだ。
だが、もしも気まぐれにふらりと出向き、『源氏の神子』を目にしたことがあったなら──
望美の身体をぎゅっと抱き締める。
彼女の座椅子代わりになっている状態では、疑われずにそれとなく顔を隠してやることもできない。
将臣は軋むほど強く奥歯を噛み締めた。
清盛は蝶が羽ばたくようにして袖を捌き、望美の顔を覗き込む。
値踏みするかのように無遠慮にジロジロと眺め回してから、ゆっくりと身体を起こした。
「フ……フハハハハハッ!」
痛いほどの緊張の中、胸を大きく反らした清盛の不気味な哄笑が部屋に響き渡った。
「そうか、そうなのだな! 重盛、そなたは色事に興味がないのかと案じておったが、どこぞに通う女がおったのだな!」
「── っ !? な、何を……」
「言わずともよい、この父は全てわかっておる。女の身分が低くて言い出せなかったのであろう?」
したり顔でニヤリと笑う清盛。
「……そ……そ、そうなんだよ、隠してて悪かったな」
「いや、詫びることはないぞ。そなたの娘なれば、我が一門の総領姫。なんとめでたいことよ!」
と清盛は再びグイッと望美に顔を近づける。
「ふむ、重盛によう似て───
はおらぬが、美しい娘よのう。まあよい、今宵は祝いの宴ぞ!」
フハハハ、と一段と高い哄笑を残し、清盛は現れた時と同じようにシュッと姿を消す。
数秒後、将臣と経正が同時に大きく息を吐き出した。
「……はぁー、ビビった……バレたかと思ったぜ」
「本当に………望美殿の素性が伯父上に知られれば、どうなるか……」
緊張の解けた二人は顔を見合わせて笑い出した。
可笑しいわけではないのだが、なぜか笑いはこみ上げてくる。
究極の緊張感が解けた後は笑ってしまうものらしい。
「── にしても、すごかったな、清盛の壮大な早合点。思い込みが激しすぎるぜ」
「おかげで助かったのではありませんか──『父君』?」
「ったく、お前もそういう冗談言うんだな……ってことで、今日から俺はお前の父親らしいぞ、望美── おい、望美っ !?」
将臣の膝の上で望美は自分の身体を抱き締めるようにしてカタカタと震えていた。
慌てた将臣は前に投げ出された彼女の足を引き寄せ、いつもの儀式のように胸に抱き締める。
「おい、大丈夫かっ !? 寒いのか?」
「……ごめん……陰の気が……強すぎて……」
色を失った震える唇が苦しさに喘ぐように途切れ途切れに言葉を絞り出す。
「清盛はいなくなった。もう大丈夫だから──」
震える身体を温めるために将臣が彼女の背中を強く擦る音が、経正の耳には大きく響いていた。
彼女が異様なまでに訴えていた寒気は、人の姿をした怨霊が跋扈するこの邸の中に常時漂う陰の気が原因だったことに気がついたのだ。
龍神の陽を司る半身に選ばれた神子ならば、その神子も陽の気を持っているのだろう。
この邸にいることで、彼女は回復するどころか逆に体力を削がれていたのかもしれない。
彼女の身を思うなら、一刻も早く別の場所へ移した方がいいのだろう。
だが、ようやく巡り合えた二人を引き離すような提案を持ちかけることは、経正にはできそうになかった。
ただ、今後は不用意に彼女に近づくのは控えよう、と心に決めた。
その夜、清盛は言葉通りに総領姫披露の宴を開いた。
だがそこに主役の姿はない。
将臣は宴の賑わいを遠くに聞きながら、部屋の中でまんじりともせず、膝の上でぐったりとしている望美の身体をただ抱き締めていた。
時折背中をそっと擦りながら。
灯明の揺らぐ明かりに照らされた望美の顔は穏やかさを取り戻している。
瞼がゆるゆると上がっていくのに気づいて、将臣はほっと安堵の息を吐いた。
「気がついたか、望美」
ぼんやりとした望美の視線が将臣の顔の上で止まった。
「……将臣くん」
「大丈夫だ。もうちょっと休んでろ」
眠りに入るようにゆっくりと目を閉じた望美は、肺に溜まっていた空気を大きく吐き出してから、再び目を開く。
その目には幾分光が戻っていた。
「……将臣くん、和議の報せが来たんだね」
「ああ」
「── 清盛が言ってたこと……間違ってないよ」
「っ !? ……そう、なのか…?」
夏の終わり以降ずっと福原にいる望美が、何故源氏側の考えをそこまで断言できるのだろうか。
今回の和議は後白河院が仲介している。
院と源氏は裏で繋がっていて、和議を餌に平家を一網打尽にするというシナリオが春から練られていたのではないか──
望美を見つめる目に疑念が混じる。
「……そっちがそういうつもりなら、こっちは一ノ谷の防備を固めるさ」
「一ノ谷……」
呟いた望美の目が大きく見開かれた。瞳が揺れて目尻からはらはらと涙が零れ落ちていく。
「……私がいないから、みんなが……どうしよう……和議を結んでほしいのに……どうして変えられないの……どうして私には力がないの……」
うわ言のように呟いて、望美はそのまま気を失ってしまった。
「お、おい、望美っ !?」
彼女の目尻に残る涙の跡をそっと手で拭いながら、将臣は彼女に疑念の目を向けてしまった己を恥じた。
おそらく彼女はずっと何かに抗い、何かを変えようと必死だったのだ。
その『何か』が解らないことが悔しくて堪らなかった。
力の抜けた彼女の身体をいくら強く抱き締めてみても、その答えが解るはずもなかった。
かたん。
部屋の外で小さな物音。
「── 誰だっ !?」
音の聞こえた方向へ殺気すら滲んだ声で威嚇する。
今の話を聞かれるのはさすがにまずい。
「……か……還内府殿…?」
返ってきたのは怯えた子供の声。
身体から一気に緊張が解けた。
「……なんだ、お前か。いいぜ、入ってこいよ」
御簾をくぐっておずおずと姿を見せたのはまたも少年だった。
だが清盛とは違う。
正真正銘、見た目通りの年齢である。
「驚かせて悪かったな。どうした、何か用か?」
「── お祖父様にうかがったのだ。同じような年頃だから、良い遊び相手になるだろう、と」
少年の大人びた口調は、幼くして『帝』と呼ばれ、年相応の楽しみも知らず大人たちに囲まれて育っているせいだった。
恭しい態度を取る大人たちとは違い、砕けた態度で接する将臣になぜか懐いている。
なけなしの記憶で作ってやった折り紙を見せた時の彼の子供らしいきらきらした目を、将臣は今でもはっきりと覚えていた。
「ああ……なるほど」
安徳天皇── 言仁は恐る恐る近づいて、将臣の腕の中を覗き込んだ。
「……眠っておるのか?」
「ああ、ちょっと身体の調子が悪くてな」
「そうか、遊べぬのか……」
がっくりと肩を落とす言仁。
気を取り直してもう一度望美の顔を覗き込んだ彼の頬が、ぽっと赤く色づいたのに将臣は気がついた。
「……きれいな姫だな」
望美の顔を見つめながら、うっとりと呟く少年。
「お……おい…?」
我に返った少年の顔がぼぼぼっと火がついたように一気に赤く染まった。
「ま、ま、また明日来てもよいだろうかっ」
「あ……ああ、構わねぇけど……」
「そ、そそ、それではなっ!」
バタバタと駆け去る言仁の後ろ姿を呆然と見送って、
「……もしかして、一目惚れ……ってヤツか?」
誰にも渡したくないと思う相手が物心つく前から傍にいた将臣にとって、一度顔を見ただけで好きになるという心の動きは理解しがたかった。
けれど、『あいつもオトコノコだったんだなー』などと父親めいた喜びも感じつつ、はたと気づいて凍りついた。
考えてみれば、言仁と望美はここでは『いとこ』という扱いになる。
そして言仁は天皇であり、望美は平家の総領姫。
平家一門と天皇家との結びつきをさらに強めるため、清盛が二人の結婚を画策してもおかしくはない。
いとこ同士の結婚は元の世界でも認められているのだから、この世界では何の障害にもならないだろう。
自分の娘だと清盛に認められた今、望美の安全は確実だと安心していたが──
「……お前、無自覚に罪作りだよな」
思い出すのは春の京や夏の熊野で彼女の周りにいた男たち。
またひとつ増えた頭痛の種に頭を掻き毟りたいと上げた手で、そっと彼女の頬を撫で溜息を零した。
【プチあとがき】
平家のいろんな人がぼちぼち出てきますな。
そして超天然清盛さんには某CMの犬のお父さんの影響が……(笑)
拍手コメントでいただいた『還内府ロリコン疑惑』もどこかで使いたかったんですが(笑)
そろそろ望美ちゃんを復活させてあげないと可哀想だなぁ……
【2010/02/07 up】