■Little Girl【12】 将臣

「ふふっ、将臣くん、汗くさいね」
「しょうがねぇだろ、今日一日歩きっぱなしだったんだ。文句言うな」
「文句なんて言わないよ……あったかい」
「寒いのか? ……熱出てるみたいだもんな」
 部屋の中から聞こえてくる会話に経正は面映ゆい思いを感じていた。
 まるで男女の睦言。 だがそれを交わしているのは親子ほど歳の離れた二人なのである。
 初めは彼らのすぐ傍に控えていたのだが、そこにいてはならないような雰囲気に追いやられて部屋の隅へと移動し、最後には廂に出てきてしまった。 不用意に部屋に近づいてくる者を追い払うためにはよかったのかもしれないが。
 何より還内府と源氏の神子がただの敵同士ではなかったことに愕然とした。 己が彼女へかける期待を思えば、それは良い驚きなのだろう。

 その夜、経正は自分の部屋へ向かっていた。
 源氏の神子を保護して以来、彼は別の空き部屋を使っている。 眠りを必要としない彼は長い夜を過ごすのに、自分の部屋に置いてある書物を読もうとふと思いついたのである。
「あ……」
 目的の部屋の前にある階に座る人影。 闇に慣れた目には眩しいほどの月明かりに照らされ、空に浮かぶ満ちた月を見上げているのは還内府その人だった。
「……よ、経正。どうした?」
「いえ……書物を取らせていただこうかと」
「悪ぃな、部屋、占領しちまって」
「いえ、構いません」
 当然のことながら、還内府は彼女を自分の部屋に移すと言い出した。 だが今の彼女は経正にゆかりのある姫だということになっているのだから、今さら部屋を移すのは不自然だ。 そう提言したのは経正自身なのだから、今さら不平など言うつもりはない。 それよりも気になるのは還内府の体調だった。 彼は熊野からの長旅を終えたばかりだ。 今、彼に倒れられては平家に未来はない。
「── お休みにならないのですか」
「ああ……今日は夢を見る必要もないしな」
 満月を見上げて呟く彼の横顔はいつになく穏やかだった。 薄く微笑みを浮かべ、恍惚としているようにも見える。 だが、夢を見ることに何の必要性があるのか解らない。 自分はもう夢を見ることなどできない身だから理解することができないのかもしれない、と考えれば少し寂しくもあった。
 生まれてしまった沈黙をどう受け取ったのか、還内府の顔に浮かぶ笑みが自嘲めいたものに変わる。
「── ほら、変な時間に寝ちまっただろ? どうにも寝付けなくてな」
「ああ……なるほど」
 日が傾きかけた頃、夕餉の支度ができたことを知らせに来た女房を追い返し、経正は部屋に声をかけた。 だが中から返答はなく、何かあったのかと様子を見に部屋に入ってみれば、二人はすっかり眠り込んでいたのだ。 彼が口にした『守る』という言葉の通り、彼女の小さな身体をしっかりと抱きかかえて。
 微笑ましい寝姿に袿をかけてやったのが経正であることを、還内府は承知しているのだろう。
「── 大切な方、なのですね」
 思わず口をついて出た言葉に還内府は答えず、ただくすぐったそうに笑った。
「なんで……こうなっちまったんだろうな」
 ぽつりと呟いた還内府は、階の段に肘をつき、背を反らすようにして月を見上げる。 その横顔から感情は読み取れなかった。
「── 俺が平家に転がり込んですぐ、人探ししてもらっただろ?」
「……ああ、そんなこともありましたね。確か……弟君と、幼馴染の方でしたか」
「その幼馴染ってのが……あいつなんだ」
「は…?」
 普通『幼馴染』と言えば、同じ頃に生まれ、幼い時から共に育ってきた間柄を言う。 彼ら二人は年の差がありすぎて、幼馴染とは呼べないのではないだろうか?
 そんな疑問が顔に出たのだろう。 還内府は身体を丸めてクツクツと笑い出した。
「あいつな、実は俺と同じ年── つっても、こっちに着いた時間がずれたせいで俺の方が三つばかし年上になっちまったけどな」
「えっ !?」
「『ちっちゃい』とか言ってやるなよ? あいつ、結構気にしてっから」
 それにまつわる出来事が何かあったのか、彼はさも可笑しそうに笑っている。
「それは……ですが、あの姿は……まさか、伯父上のように──」
「蘇ってみたらガキの姿でした、ってのは違うさ。あいつはちゃんと生きてるって。ただ──」
 ふと彼の眉が曇った。 片膝を抱え込み、何かを深く考え込むように拳を顎に当てる。
「怨霊と戦った後で『空の傷』とやらに触ったらああなったらしいんだ。 熊野でもそうだ。怨霊を片付けた後、あいつは空の裂け目みたいなもんに吸い込まれてった。 なんでここに辿り着いたのか……」
 こつこつと顎に拳をぶつけながら、彼は本当に考え込んでしまっていた。
「── 還内府殿」
「……ん?」
「その『空の傷』……私に心当たりがございます」
「ほんとかっ !? 教えてくれっ! あいつを元の身体に戻してやりたいんだ!」
 還内府は獣が獲物に飛びかかるかのようにして経正の腕を掴んできた。 多少怯んだが、それよりも彼のあまりの必死さが伝わってきて、不謹慎ながら笑い出しそうになってしまった。 こんなにも必死な彼を、経正はこれまで見たことがない。
「確証はありませんが……恐らくは、我ら一門が関わることかと」
「なんだと…?」
 彼の目がすっと鋭く細められた。 その鋭さはゾクリと背筋が震えるほど。 思わず唾を飲み込んだ喉が、小さく鳴った。
「── 怨霊は世の理を歪め、人には見えぬ空間を渡って別の場所に移動することができます」
「そうだな……突然現れるから、初めの頃はいつも驚かされてたぜ」
「我らが怨霊を使役すればするほど、その空間には獣道のように怨霊の通り道が出来てしまったのでしょう。 各地に伸びた通り道は──」
「── この福原に通じている、ってことか…」
 こくり、と経正は大きく頷いた。
「ですが……望美殿がここに現れた理由はそれで説明がつきますが、身体が小さくなった原因までは…」
「だよなぁ……」
 力を失った彼の手が、経正の狩衣の上をずるずる滑って落ちていく。 そのまま倒れるように廂にごろりと横になった。
「……どうすっかな……………」
 そう呟いたきり、彼は無言になった。 目を瞑って、じっと動かない。 まさか眠ってしまったのでは、と経正が訝り始めた頃、突然ガバッと身体を起こして立ち上がる。
「そうだ経正、ちょっと硯箱借りるぜ」
「え、ええ」
 すたすたと彼女の眠る部屋へと戻っていく還内府。 仄かに灯っていた部屋の明かりが大きくなった。
 彼は文でも書くつもりなのだろう。 邪魔をしないよう今夜のところは書物は諦めよう── 経正は仮の私室へと戻ることにした。

*  *  *  *  *

 白龍の神子と天の青龍を欠いた八葉たち一行は、熊野から京へと戻る道を急いでいた。
 その足取りは決して重いものではない。
 望美が姿を消してからしばらくは、熊野を離れることができなかった。 今日は見つかるかもしれない、と微かな希望を抱きながら辺りを探し回り白龍の顔を窺う。 小さな龍神が泣きそうな顔で首を横に振るのを見て肩を落とし、また翌日に希望を託す。
 そんな日々が十日ばかり続いた頃、白龍が顔を輝かせ、喜びに満ちた声を上げた。
「── 神子っ!」
「どうしたんだ、白龍?」
 声をかけた譲の元に駆けてきた白龍は、譲の手をぎゅっと握り締め、
「神子を感じたよ! 何かに邪魔されて、微かにしかわからないけど……神子はここから西にいる!」
「そう…か……」
「どうしたの、譲? 嬉しくないの?」
 大きな瞳に見上げられているのに気づいて、譲は戸惑った。
「いや、もちろん嬉しいさ。ただ……兄さんが言った通りになったな、と思っただけだよ」
「そうだね、将臣は神子が見つかること、願ってた。強い願いは叶うよ」
 嬉しそうに目を輝かせて笑う白龍の顔を見ていると、譲はそれ以上何も言えなくなって、複雑な思いを溜息に乗せて吐き出すことしかできなかった。

 だが、京に戻った彼らは再び肩を落とすことになる。
 白龍の言う『西』は、京よりもさらに西だったのだ。
「── だが、ここよりも西となると……」
「考えたくはありませんが……平家の手に落ちた可能性もありますね」
 皆が言い淀んでいたことを、弁慶がズバリと言葉にする。 重苦しい部屋の空気が一層重みを増した。
「で、でもさ、もしかしたら親切な人の家にお世話になってるのかもよ? そのうち元気に戻ってくるんじゃないかな〜、なんて」
「兄上っ! いい加減なことを言わないで!」
「う……ごめん、朔」
 少しでも気分を明るくしようと思った景時だったが、目にいっぱいに涙を浮かべた妹に一蹴されてしょんぼりとうなだれた。

 探しに行きたいが、平家の本拠地に近づくのはまずい。
 それ以上に鎌倉殿の命令なしに京を離れることができない現状の中で数日が過ぎていき、もどかしさと苛立ちを募らせていたところに鎌倉から使者が訪れた。
 ── 福原にて平家との和議の交渉を行う。 九郎は軍を率いて有馬で待機せよ。
 『軍を率いて』という部分に疑問はあったものの、これで堂々と西へ向かえることになった。 後は白龍の感覚を頼りに望美を探せばいい。 もしも平家に捕らわれているのだとしても、和議が成れば何も問題なく彼女を取り戻せるだろう。 膨らむ希望に彼らは色めき立った。
「── あれ? やけに賑やかだね。いいことでもあったのかい?」
 早速の出立の準備でざわついている京邸の一室にひょっこり顔を出したヒノエが目を丸くした。
「そういえば君はいなかったんですね。どこかに出かけていたんですか?」
「……なんだよ、その言い草。せっかくいい知らせを持って帰ってやったのに」
 晴れやかな笑顔の弁慶に、ヒノエはふてくされたようなじっとり湿った視線を返す。
 と、ヒノエは懐から出したものを皆の前にバサッと放り入れた。
「……文、ですね?」
「ああ、読んでみなよ」
 文を拾い上げた弁慶がするすると開いて読み進めていく。
「── よかった」
「弁慶、何が書いてあるんだ?」
 九郎に訊かれた弁慶はちらりとヒノエを一瞥し、
「── これは将臣くんからヒノエに宛てた文です。 望美さんは将臣くんが保護したそうですよ。 折を見て必ず送り届ける、と書かれています」
 その場にいた者から同時に安堵の息が漏れた。
「ならば有馬で将臣と合流すればいいな。ヒノエ、こちらから将臣に連絡を取ることはできるのか?」
「できなくはないけど……有馬って?」
「ああ、兄上が平家との和議をお決めになった。 俺たちは福原での和議を見守るため、有馬へ向かう」
「……ふぅん」
 ── これは困ったことになったね。
 小さな呟きは誰の耳にも届くことはなかったが、ただ一人、彼の叔父だけは含みありげな視線を送ってきていることにヒノエは気づいていた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 どうなんでしょうねぇ……こういうの。
 またまたカオティックな脳がこんなものを生み出してしまいました。
 彼らは……いや、あたしはどこへ向かって進んでいるのでしょう…?
 つか、一体いつまで続くんでしょう?

【2010/02/04 up】