■Little Girl【11】 将臣

 渡されたお椀からほわほわと立ち上る良い香りのする湯気を、望美は思い切り吸い込んだ。
 今日のメニューは刻んだ青菜の入った薄緑色のお粥。 木のさじにすくったお粥をはふはふと口に入れれば、適度な塩味がなけなしの食欲を刺激する。 しゃきしゃきした青菜の食感もいい。
 目覚めて3日にして、初めて自分で食べる食事だった。
 1日目は傷のせいか熱を出し、朦朧とした状態で過ぎていった。 誰かに話しかけられたような気はするが、半分以上は眠っていただろう。 口の中に流し込まれるものを苦労しつつとりあえず飲み込んだ記憶がある。
 2日目はどうにか意識もはっきりして、世話をしてくれていたのがこの邸の女房だと知った。 自分の母親よりも少し年上の、優しい面立ちの女性だった。 痛くて熱い身体は思うように動かせなくて、雛鳥のように食事を口に運んでもらった。 子供の頃、風邪で寝込んだ時に母に看病してもらったのを思い出して、少しだけ泣きそうになった。
 そして3日目の午後になると熱も少し下がり、身体の痛みも和らいで、褥の上で何とか身体を起こせるようになった。 食べ物の匂いがいい匂いだと思えるほどには回復したが、動き回れるまでには至っていない。 身体の中を巡る活力をごっそりと抜き取られてしまったような虚脱感。 本当は今もどこかへ凭れかかりたいのだが。 安定しない身体は、気を抜けば前か後ろに倒れてしまいそうだった。
「貴族の姫君ともあろう方がこんなに傷だらけになってしまわれるとは、ほんにお転婆でいらっしゃること」
「はぁ……すみません」
 くすくす笑いながら辛辣かつごもっともな言葉を投げかけてくる女房。
 今、望美は『京のとある貴族の姫』ということになっているらしい。 どういうわけか助けてくれたのは経正で、すなわちここは平家の真っ只中── 福原だということを女房との会話で知ったのは昨日のこと。 経正のありがたい配慮と子供の姿であることが幸いしたのか、目覚めた時からずっと世話をしてくれている女房ともこんな軽口を言われるくらいには馴染んでしまっていた。
「望美様、しっかり召し上がって、早く元気になられませね」
「はい…ありがとうございます」
 望美がゆっくりとさじを動かす様子をにこにこと眺めている女房。 その顔を見ていると、望美は後ろめたい思いに襲われた。 自分の正体を知った時、おそらく彼女は表情を凍りつかせるだろう。 そんな顔を見たくない、と思った。
 漏れそうになった溜息を飲み込んで、軋みを上げる腕でせっせとお粥を口に運ぶ。
 食欲はあまりないけれど、今はとにかく食べなければ。 体力を戻して、なるべく早くここを出ていかなければならないのだ。 熊野から福原までは一週間くらいかかるだろうか。 男の足で急げば5日程度で着くかもしれない── 猶予はそれほど残されていなかった。

 食事を終え、手足の包帯を取り替えてもらうと、ぐったりして動けなくなった。 今までは楽しくて仕方なかった食事という行動がこんなにも体力のいることだったとは。
 薬草の匂いが立ち込める中、ぼんやりと天井を見る。 外から入った日差しと、それによってできた影が綺麗な幾何学模様を作っていた。 もうしばらくすれば日差しに夕焼けの赤が混じり始める頃だろう。 暖かそうな色に反して部屋の中は冬のように寒い。 まだ残暑が濃く残る秋の初めだというのに。
 頭に浮かぶのは、いつもの自問自答。
 『これから何をしなければならないのか、何ができるのか?』
 相変わらず自問はできても自答ができない。 いつも以上に頭の中は混沌としていて、苛立ちだけが増していく。
 かたん、と小さな物音が聞こえて我に返った。
 寒さを感じる部屋の中が更にすぅっと冷たさを帯びていく。 何度も経験してよく知った感覚。 普段なら確実に腰の得物に手が行っているところだが、今は得物はなく、それ以前に身体が動かない。
 さわさわと冷たい空気が動く気配が近づいてきた。
「── 怪我の具合はいかがですか」
 望美は、こくり、と小さく唾を飲み込んだ。 感覚と視覚とのギャップに混乱した── 几帳の陰から現れたのは経正だったのだ。
「あ……はい、まあ……なんとか」
 起き上がろうとすると、そのままで、と制された。 その言葉に素直に甘えることにする。 経正は望美が首を無理に動かさなくても楽に視線を交わせる位置に腰を下ろした。
「お加減がよろしければ、先日の話の続きをさせていただいても構いませんか?」
「……はい?」
 望美は思わず首を傾げた。 経正と改めて続きを話さなければならないような会話をした記憶はない。 それどころか、望美にとってここで経正に会うのは初めてなのだ。
「……えーと…何のお話でしたっけ…?」
「え……」
 怪訝な顔で目を瞬く経正。
「あ、そうだ。 ずっとお礼を言いたかったんです。 助けてくれて、ありがとうございました。 それに私の正体とか、いろいろと気を遣ってもらっちゃって」
「は……?  そう……ですか…………その傷では無理もありませんね」
 訝しげにしかめられた顔が徐々に和らいでいく。 何か納得したかのように小さく頷いて、経正は柔和な顔に笑みを浮かべた。
「いえ、礼には及びません。 怪我をした方をお助けするのは当然のことですから」
「あの、それで、話っていうのは?」
「ああ、それは──」
「── 失礼いたします!  経正殿に申し上げます!」
 話をし始めた経正を遮ったのは、部屋の外からの声。 おそらく伝令の雑兵か何かだろう。
 失礼、と断って立ち上がった彼の姿は几帳の向こうへ消えていく。
「── 何かあったのか」
「はっ!  還内府殿、只今お戻りになられましたっ!」
 その瞬間、望美の頭の中は真っ白になった。

*  *  *  *  *

 雑兵の報せを受けて迎えに出た経正は驚いた── 旅支度を解く還内府のあまりの憔悴ぶりに。
「── 還内府殿、いかがなさいましたか?」
「んあ?  ……ああ、熊野が駄目だったんでな」
「では、源氏に?」
「いや、熊野は動かねぇ。 中立だ……一応、な」
「そう…でしたか」
 疲れ果てたように声を絞り出す還内府の様子に、経正は眉をひそめた。 平家とも源氏とも繋がりのある熊野が動かないのは予想の範疇。 詳しく聞いているわけではないが、彼の中で熊野の動向はそれほど大きな意味を持っていたのだろうかと訝った。
 足を引きずるように歩く彼の後ろについていき、私室に入ったところで辺りに誰もいないことを確認してから口を開く。
「お疲れのところ申し訳ありませんが、早急にご相談したいことが」
 ドカリと腰を下ろしてだるそうに甲冑を外し始めた還内府は、どこか上の空に見えた。
「……相談?  ……なんだ?」
「理由はわかりませんが─── 源氏の神子の身柄が我が手に」
「なっ !?  どこだっ !?」
「私の部屋に── か、還内府殿っ !?」
 今までの憔悴ぶりから一転、還内府は外した甲冑を投げ捨てたかと思うと凄まじい俊敏さで部屋を飛び出していく。
 彼女は覚えていないにせよ、『熊野で捕獲された』と言っていたではないか。 どういう意図があったのかは知らないが、還内府は一度は彼女を捕らえたのだ。 もしも彼が源氏の神子を処断するつもりでいるのなら── 経正は慌てて彼の後を追った。

*  *  *  *  *

「望美っ !!」
 襖を乱暴に開けて部屋に踏み込んだ将臣の目の前には、何かを隠すように几帳が置かれていた。
 鼓膜にまで伝わってくるほど心臓が大きな音を立てている。
 すぅっと大きな息を吸いこんでから、将臣は几帳を回り込んだ。
 そこにはたった今まで誰かが使っていたのだと一目でわかる乱れた褥。
 だが、その誰かを探す必要はなかった。 褥のすぐそばにこの時代の掛け布団である袿がわだかまっていて、人の形に膨らんでいる。 その袿の裾からはみ出した小さな足の先は、まだ褥の上に引っ掛かっていた。
 将臣はゆっくりと進んで、床の袿を拾い上げた。 現れたのは床に突っ伏す単姿の小さな身体。 袖から見えている小さな指先がピコピコと動いた。
「………や、おかえり」
 今まで知らず詰めていた息を一気に吐き出した。 その息は自分でもわかるほど震えている。
「…………お帰り、じゃねぇよ。 何やってんだ、お前」
「えと、その……隠れようと思ったら……ここで力尽きたというか」
「……ったく」
 しゃがみこんだ将臣は突っ伏したまま動かない望美の身体をごろんとひっくり返す。 やっと見えた彼女の顔にドキリとした。 薬草の汁を塗られた顔はまるで迷彩模様のようで、あちらこちらに引っ掻いたような傷が無数にあった。 見れば手も足も包帯でぐるぐる巻きにされている。
「どうした、その怪我っ !?」
「……わかんない。 気がついたらこうなってたんだもん」
「身体は?」
「ううん、服に隠れてたところは大丈夫」
「そっか」
 将臣は小さな身体をそっと抱え上げると、胡坐をかいてその上に静かに下ろす。 左腕で背中を支えてやると、望美はこてん、と胸に頭を預けてきた。 感じる重みが彼女の無事を実感させ、身体が震えるほどの喜びが込み上げてくる。 小さな身体からじんわりと伝わってくる温度はいつもよりも熱い。 無数の傷が熱を持っているのだろう。
「……早かったね、まだ3日しか経ってないのに」
「はぁっ !? ……あれからもう10日は経ってるぜ」
 熊野の一件を踏まえて一刻も早く今後の対策を立てねばならないのに、将臣は彼女の姿を求めて当てもなく探し回っていたのだ。 だが、救うと決めた人たちを放り出して探し続けるわけにもいかず、失意のまま福原に戻ってきた。 彼女がここに現れると知っていたら、まっすぐに帰ってきたものを── こっそり舌打ちするものの、今さら過ぎたことを言っても仕方がない。
「うそっ !?  じゃあ私、あの中に1週間もいたの !?」
「『あの中』……?」
「私にもよくわからないけど……暗くて、狭くて、冷たくて、痛くて……あ、そうだ、大きな掃除機に吸い込まれて、長〜いホースの中を延々と吸い込まれ続けたって感じかな」
「ふーん……まあ、わからなくもないな。 お前が消えた時、見えない何かに吸い取られたって感じだったし」
「そう……やっぱりそういう風に見えたんだ」
 くすっと笑う望美の顔。 薬草の茶色や緑の汁でまだらになった柔らかな頬の傷が痛々しい。 その頬に触れようとして、さすがに躊躇った。 方向を少しずらし彼女の耳を掠めてしなやかな髪に指先を差し入れる。
「痛むか?」
「ちょっとだけ……ねぇ、傷……ひどい?」
「いや、そうでもないぜ。すぐに治るって」
「そう? 傷痕、残っちゃうかな……」
「大丈夫だろ。残ったとしても俺は気にしねぇし」
「将臣くんが気にしなくても、私は気にするのっ! ……メイクで隠せるかなぁ…」
「そんな先の心配より、今のお前の顔がサバイバルゲームの迷彩メイクみたいで愉快すぎ」
「ええっ !? そ、そうなのっ !? うぅ、やだな……」
「しょうがねぇだろ、傷を治すためなんだから」
「そうだね……でも、本当にここの人たちにはお世話になっちゃって。経正さんは私の命の恩人だよ」
 ゾクリ、と背筋が凍った。 彼女を見つけた喜びが勝っていたとはいえ、こんな重要なことが抜け落ちてしまっていたなんて。
 三草山の戦場で経正は『源氏の神子』と会っている。 『源氏の神子』は経正が平家の将であることを承知しているはず。 そして経正は『源氏の神子が我が手に』と言い、望美がここにいたのだ。
 確信に近い予想は、事実になってしまった。 いや、既に『源氏の神子』と聞いて血相変えて彼女の名を叫んだのはついさっきのことだ。 思い出すとあまりに滑稽で笑いが込み上げてくる。
「……お前、ここがどこだか知ってるんだな」
 喉の奥から声を絞り出す。 腕の中の望美は複雑な微笑みを浮かべた。
「………うん」
「俺が……『誰』なのかも、知ってるんだな…」
「うん………………将臣くんも、だよね」
「……ああ」
 春の京で再会した望美の周りにいるのが源氏の者かもしれないと気がついた。 すぐにここを離れなければと思った夜、それを告げた時の彼女の複雑な笑みはよく覚えている。 今彼女が浮かべている笑みと同じ類いのものだった。
「………けど──」
 将臣は彼女の傷に障らないように、小さな身体をそっと胸に抱き締めた。
「── よかった……生きててくれて」
「将臣くん、私──」
「心配すんな、お前は── 俺が守る」
 望美が顔を埋めている胸元がじわりと熱く湿っていくのを感じて、将臣は抱き締める腕に力を込めた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 な、なんですかこれはっ !?
 ……と叫びたいモノが出来上がってしまいました(笑)
 いろいろツッコミたい部分がおありでしょうが、華麗にスルーでよろしくです。
 さあ、これからこいつらはどう動くのでしょうか?

【2010/01/31 up】