■Little Girl【10】
静かな夜だった。
決して手入れが行き届いているとは言い難い庭に面した階(きざはし)に腰掛け、敦盛は一心に横笛を奏でていた。
ここしばらくは体調がいい。
彼にとって『体調がいい』とは、人の姿を保てることに他ならない。
おぞましい姿となり自我を忘れ、邸の奥に作られた堅固な檻の中に閉じ込められていた間に宇治や三草で戦があったという。
また命が弄ばれ、怨霊と化した者たちが戦いに赴いたのだと思えば、敦盛の心は無性に痛んだ。
だが、源氏方に神子と呼ばれる者が現れ、怨霊を浄化し封印したと聞く。
遠い彼方ではあったが、ほのかに光が灯ったような気がした。
今夜は月の明るい静かな夜ではあったが、身体の芯がどこか疼くようにざわめいていた。
自分の身に変化が起きる時とはまた異なるざわめきに困惑して、ひたすらに笛を奏で続けた。
とさっ
軽い物音がして、敦盛は思わず口元から笛を離す。
野犬の類だろうか?
だが、本能で生きている動物たちは陰の気の濃く漂うこの邸には決して近づこうとはしない。
ならば盗みに入った人間か。
今のこの邸には危険を冒して忍び込むほど価値のあるものはほとんどないのに。
無謀な盗人を気の毒に思った敦盛は、忠告して逃がしてやろうと階から立ち上がり、音の聞こえた方向へと静かに近づいた。
「── っ !?」
枝の伸びた背の低い庭木の裏に回り込むと、伸び放題の雑草の上には予想していた目つきの悪い盗人ではなく、一人の少女が横たわっていた。
常人より格段に夜目の利く敦盛にははっきりと見える。
珍しい装束から伸びた細い脚も、袖が捲れ上がってむき出しになった腕も傷だらけだった。
ひとつひとつは小さな傷でも、これだけ数が多ければ痛みは相当なものに違いない。
現に手足と同じように傷ついている蒼白な顔は辛そうに歪んでいた。
どうしてこんなところにこんな童女が、と考えて、敦盛はふと夜空を見上げた。
ほんわりと浮かぶ月。
あと数日もすれば満月になる。
もしやあの月から足を滑らせて落ちてしまったのだろうか、と想像して、傷ついている彼女には申し訳ないと思いつつも敦盛は珍しく口元に微笑みを浮かべた。
「── 敦盛?」
背後から声をかけられ驚いた。
普段なら微かな足音にも敏感に反応するというのに。それほどこの小さな月の姫に見入ってたのだろうか。
だが聞こえたのは兄の柔らかな声。
兄の目に彼女の姿が入らないように注意しながらゆっくりと振り返る。
なぜそんな注意を払ったのかは、敦盛自身にもわからなかった。
「何か異変でもあったのか?」
「いえ……あの……兄上は何故ここへ…?」
兄・経正は穏やかな笑みを浮かべ、
「笛の音を楽しんでいたら急に途切れたものだから、何かあったのかと様子を見に来たんだよ」
「それは……申し訳ございません…」
「謝ることは──」
敦盛は兄の顔が強張る瞬間を見た。
その兄の視線は自分の背後に注がれていて、せっかく払った注意が無駄に終わったことを悟った。
もしかすると彼女は侵入者として処断されてしまうかもしれない。
見つけた時すぐに揺り起して逃がしてやればよかった──
後悔してもすでに遅かった。
しかし。
自分を押しのけるようにして少女の元へ向かった兄は緊張した面持ちで、
「── 敦盛、他の者には報せたのか?」
「いえ……見つけたばかりで、どうすればよいものかと思案しておりました」
「そうか……よかった」
「え……?」
心底安堵したように息を吐いて微笑む兄。
敦盛にはその理由が解らず戸惑っているうち、兄は素早く脱いだ自分の狩衣で少女の身体をすっぽりとくるむと、そっと抱き上げた。
「── この方を私の部屋へお運びする。
敦盛、お前も一緒に来なさい」
「……はい」
辺りの様子を窺いながらの経正の硬い声につられたのか、敦盛は身を硬くして部屋へ戻る兄の後に続いた。
部屋に戻った経正は、ほとんどの者が寝静まった邸の中、隠れるようにして自ら動いた。
傷ついた少女の寝床の用意と着替えをさせるための女房と、傷の手当てのための薬師を手配するためである。
部屋を几帳で仕切り、その向こうで行われている治療が終わるのを経正と敦盛はただ黙って待った。
しばらくして几帳の向こうから女房と薬師が姿を見せると経正は二人に近づき、他言無用を半ば脅すように言い含め、少々怯えた表情を浮かべる二人を部屋の外へそれとなく追い出した。
「……兄上」
兄が格子を完全に下ろすのを待って、敦盛は口を開く。
意図せぬ詰問の色が声に混ざってしまったのだろうか、兄の顔に苦い笑みを浮かんだのが見えて少し慌てた。
「あっ……いえ……」
「いいんだよ、敦盛。
お前には話しておいたほうが──
いや、話しておかなければならないだろうね」
部屋を横切り几帳の向こう側の様子を確認しに行った兄が、再び自分の前に戻り腰を下ろす。
敦盛はその姿を息を詰めて目で追っていた。
「三草山での戦のことは話したね」
「……はい」
「あの方はその時に出会った──
白龍の神子殿なのだ」
「『神子』…!? では、源氏の──」
「落ち着きなさい、敦盛」
思わず上げてしまった声をたしなめられ、慌てて口をつぐむ。
「── おそらく、あの方は我らに残された最後の希望なのだ──
いいかい敦盛、他の者にあの方の身元を明かすような話をしてはいけないよ」
「ですが、還内府殿には……」
「ああ、もちろん還内府殿が熊野から戻られたら、きちんとご報告するつもりだよ。
大丈夫、還内府殿は我らのことを解ってくださっている。神子殿のこともうまく取り計らってくれるだろう」
穏やかな笑みを湛える兄の言葉がじんわりと身体の強張りをほぐしていくようだった。
ああそうか、と敦盛は得心した。
心がざわついていると感じたのは決して胸騒ぎなどではなく、きっと心が躍っていたのだろう、と。
「そう……ですね」
それきり言葉もなく向かい合ったまま、二人は灯明の小さな炎が揺らめく部屋で朝が訪れるのを待った。
* * * * *
意識が戻られました──
手当てを済ませた薬師がそう告げて部屋を退出した後、几帳の裏へと静かに回り込んだ経正は一層濃い薬草の匂いに眉をひそめた。
見下ろした褥の上に横たわる少女は、薄く開いた目でぼんやりと天井を見つめている。
「お加減は、いかがですか?」
声をかけるとぼんやりした視線がゆっくりと下りてきて、経正の上に止まった瞬間、ぱっと大きく見開いた。
「あれ…?
つ、経正さんっ !?」
飛び起きようとした少女が、うっ、と呻く。
起き上がれないほどの痛みに襲われたのだろう。
「無理をなさってはいけません。
全身に傷を負っていらっしゃるのですから」
「す…すみません……」
頬をほんのりと赤らめる少女は本当に可愛らしい。
その可憐さは戦場の悲惨な光景からは対極にある存在としか思えなかった。
だが彼女と最初に相見えたのは戦場の只中で、彼女が『源氏の神子』であることは間違いないのだ。
臆することなく自軍の大将に意見し、堂々と敵将との交渉をやってのけた彼女はこんなにも小さな少女だったのだろうか。
抱き上げた身体は羽のように軽かったのを思い出す。
裳着もまだ済ませていないような少女を戦の先陣へ送り込んでいる源氏に対する憤慨が新たになった。
経正は褥の傍らに腰を下ろし、捲れてしまった袿をそっと掛け直してやる。
こんな状態の彼女には気の毒ではあったが、経正には彼女に問い質しておかなければならないことがあった。
「── あなたは、何故ここへ?」
返ってきた答えに経正は戸惑った。
「えと……ここはどこですか?
えーと、経正さんがいるんだから平家なんだよね──
あ、屋島? じゃなくて福原かな?」
敵に拾われたというのに怯えた様子はまったく見られない。
幼さゆえの無邪気さなのかもしれないが、敵と味方の判別くらいはもうできる年頃。
体力を奪われているせいで口調が緩慢になっているのを差し引いたとしても、大した度胸の持ち主だ──
込み上げてきた笑いを必死に噛み殺す。
「── 福原ですよ。
福原にある我らの邸です」
「ああ、なるほど……あれ?
でも、どうして?」
どうして、と聞きたいのはこちらの方だ、と言い返したくなるのを堪えて、別方向から話を聞き出すことにした。
「それほどの傷を負うとは、一体何があったのですか」
え、と小首を傾げ、身体にかけられた袿から出した腕をゆるゆると顔の前に持ち上げた。
「……包帯…?
うわ、薬草臭い──
ふふっ、道理で身体が痛いはずだ……いたたっ」
くすくす笑い出したかと思えば、痛みに顔をしかめて。
くるくる変わる表情は見ていて飽きないが、あまりの話の噛み合わなさに焦れてくる。
持ち上げていた腕をゆっくりと胸の上に下ろした少女は、ふぅ、と一息つくとニコリと笑い、
「助けてくれてありがとうございました、経正さん」
「あ……いえ…あなたを見つけたのは私の弟なのです」
「ええっ」
驚いた、というより、何か重大なことに気がついて愕然としているような表情。
「……うっわ、自分のことが精一杯で敦盛さんのこと忘れてたっ!
そういえば三草川で会わなかったよね…」
何やらぶつぶつと呟いていたかと思うと、
「あのっ、敦盛さん、無事なんですかっ !?」
「……ええ、部屋で休んでいると思いますが…」
主だった将の情報は伝わっていることは承知している。
だが『無事か』と聞かれる理由がわからない。
大きな息を一つした少女は笑みを浮かべて、よかった、と呟いた。
「私……熊野で怨霊と戦ってたんです」
「え…」
「あ」
ふと難しい顔で黙り込んでしまった少女。
幼い子供相手に話の脈絡を求めるのはやめようと経正が思い始めた頃、
「あの……還内府はもう戻ってきてますか…?」
「いえ、まだですが──
あ、あなたは還内府殿までご存知なのですか !?」
「ええ、まあ……龍神温泉でうっかり捕獲されちゃいまして」
「は……はい…?」
「よかった、まだなんだ………戻ってくる前に…ここ……出て…いかなくちゃ……」
ゆっくりと少女の瞼が下りていく。
すぅ、と寝息が聞こえ始めた。
目覚めてすぐの会話が身体に障ったのか、或いは薬師が眠気を誘うような薬を与えていたのかもしれない。
不思議な少女だ、と経正は思った。
まるでこの世の中のすべてを見通しているような。
さすがは神に選ばれし神子、ということなのだろうか──
結局彼女の怪我の原因も、ここに姿を現した理由も、新たに生まれた疑問も何も聞き出せないまま、経正は静かに部屋を出た。
それから三日後、珍しく憔悴しきった顔の還内府が邸に戻って来た。
【プチあとがき】
ちょこちょこ書いてるうちに、訳わかんなくなってきた……
書き直そうかとも思ったけど……先に進みたいのでUP。
少し前に『この話を読み返したら重大な忘れ物に気がついた』と
ブログで呟いたのですが……
「あっつん拾い忘れてた!」(汗)
しょうがないので、こうなったら三草に行かなかったことにしちゃえ、と(笑)
んでゲームとは逆に敦盛に望美を拾ってもらおうかと。
三年以上も前のあたしがどんな構想を持ってたのか、すっかり忘却の彼方なのですが。
さ、三年……うわ、学校ひとつ卒業できてるな(汗)
ま、これはこれでいいかなってことで。
長いけど中身がない文章の典型になってしまった……
【2010/01/27 up】