■闘う者たち 〜現代編〜 【2】 将臣

「はぁ…………」
 望美は勉強机に頬杖をつき、目の前の白い壁を視点の合っていない目でぼんやりと見つめながら、 熱に浮かされたようなほんのり上気した顔で、深い溜息を吐いた。
 ── ゆうべ、将臣くんとキスをした。ていうか、キスされた。
 思い出すと顔がかぁっと熱くなり、心臓はバクバクと早鐘のように打ち鳴らされる。
 今まで仲の良い友達からそういう話は何度も聞かされたりもしたが、望美にはピンとこなかった。
 もちろん望美も『お年頃』だから、『好きな人に抱きしめられる』シーンだとか、『好きな人とキスする』シーンだとか、 なんとなく想像することはあった。
 しかし、その想像の中の『好きな人』にはいつも顔がなかった。というより、目も鼻も口もあるとわかるのに、 ぼんやりしていて誰なのかまでは判別できなかった。
 けれど今は違う。
 異世界で自分の気持ちに気付いてからは、『好きな人』の顔ははっきりと将臣の顔になっていた。
 想像が現実になってみるとあまりに舞い上がりすぎて、その時の細かいことなどはっきりとは思い出せないのだが、 『そういうこと』をされたということは、自分が彼を想っているように彼もまた── そう考えると、自然と顔が緩んできた。
 きっと今の望美を見たら、瀕死の神サマも自分の神子になど選ばなかったに違いない。
 緩みきった顔で甘い記憶に酔っていると、不意に唇にリアルな感触が甦ってきてドキリとする。
 しかしそれは、昨夜そこに触れた将臣の唇の感触をトレスしている自分の指先だった。
 本日何度目かのその行為に愕然と自分の指先を見つめながらも、将臣に触れられたのではないことにガッカリしている自分が無性に恥ずかしくなって、 赤く染まった顔を隠すように頭を抱えるのだ。
 そんな調子で、望美には今日1日の記憶がほとんど無かったりする。
 覚えているのは、今朝家の前で待っている将臣の顔を恥ずかしさのあまりまともに見られなかったことと、 『今日もバイトだから』と言う将臣に『今日は誘ってくれないのかな』などと淡い期待を抱いている自分に気付いて、 あまりに恥ずかしくて逃げ帰ったことくらいのものだ。
 これじゃまずい、と思った望美は今日出された宿題をやるべく、カバンから教科書やらを取り出す。出されたのは数学の宿題だったのだが、 机の上に並べたのは英語の教科書と日本史のノートであることに望美は気付いていない。
 人が聞けば悩ましげにも聞こえるような溜息を再び零した時、ドアをノックする音に望美は我に返った。

*  *  *  *  *

 将臣は仕事着のシャツに袖を通す手を止め、ぷっ、と吹き出した。
 ハトが豆鉄砲食らったような顔を真っ赤に染めてパニクっている、昨夜の望美の顔が目に浮かぶ。
 今朝だって、将臣の顔を見た途端に挙動不審になる望美が可笑しかった。思わず腕の中に閉じ込めてしまいたくなるほど可愛く見えた。 さすがに朝の通勤通学時間で人の往来もあり諦めたが。
 異世界で過ごす間に募っていた想いはあふれてしまいそうだった。
 引き寄せて抱きしめたいと思ったし、その紅く色づいた唇に触れたいとも思った。将臣だって『お年頃』なのだから、それ以上のことも考える。
 そんな時は決まって、異世界の星の姫であった祖母の『望美ちゃんを守ってね』という声が聞こえるような気がした。
 しかし昨夜は祖母の声は聞こえなかった。潤んだ瞳で見つめる望美を思わず引き寄せていた。
 将臣にとって望美は『守るべき幼なじみ』『八葉として守るべき白龍の神子』『星の一族として守るべき龍神の神子』ではなく、 『有川将臣として愛する一人の女』に変わっていたのである。
 望美の唇に触れた時、将臣は意外にも冷静な自分に驚いていた。たぶん、理性を失うのではないかと思っていたから。
 しかし、それは冷静だったのではなく、心が満たされたからなのだろうと、将臣は納得することにした。

 異世界で一人平家に拾われた将臣は、望美と弟の譲を必死に探したが再会することは叶わなかった。 まさか3年のズレがあることなど、将臣が知るはずもない。
 3年経って、一縷の希望が絶望に飲み込まれそうになった頃、夢を見た。
 夢の中の望美は3年前に別れ別れになった時と全く変わらなかったし、クリスマスに渡そうと用意していた懐中時計をなぜか持っていた。
 願望が見せた夢── 目覚めてから将臣はそう思って苦笑した。
 けれども、その夢のリアルさは、将臣を夢の中で話した下鴨神社へ向かわせた。
 そして、そこには確かに望美がいた── 数人の男たちを引き連れて。
 おそらくその時が明確に『嫉妬』を感じた一番初めだ、と将臣は思った。
 掻っ攫っていきたいと思っても、自分の置かれた立場がそれを許さなかった。
 その上、別当に談判するために赴いた熊野で、知盛までが望美に異常な興味を持ち始めた。
 例え掻っ攫ったとしても、将臣にとって頭の痛いことに変わりはなかった。
 さらにその上、元の世界に戻る将臣たちに、その知盛がくっついて来てしまったのだから、将臣の頭痛の種は尽きなかった。
 お隣同士の有川家と春日家。望美が帰宅すれば、有川家に居候中の知盛と遭遇する可能性は高くなる。
 それを阻止すべく、すっかり夜型の生活になっても必死に早起きして、望美が家まで迎えに来ないように外で待つことにした。
 週2、3回のバイトの日は、バイト先に望美を誘うことに決めた。
 しかし、朝は毎日でも悪くないと思うが、さすがにバイト先にはそう毎回連れて行くのもマズイと思い、今日は誘わなかった。
 今朝からの望美の呆けっぷりから、帰りに電柱にぶつかったり、こけたりしてないかと多少心配ではあったが、 バイトが終わったらすぐに電話をかけるということで気持ちに折り合いをつけ、急いで身支度を済ませた。

*  *  *  *  *

 玄関のドアを開けると、冷たい風が吹き込んできた。
 その空気の冷たさに、知盛は小さく身震いすると、将臣からの借り物のコートのポケットに手を突っ込んだ。
 外に出た目的は、散歩。
 『俺たちがいない間、いつも何してるんだ?』と聞く将臣にそう答えると、帰ってきたのは半眼での『じじくせぇ』の一言だった。
 自分の世界と関わりのある星の一族だとしても、ひょっこり現れた胡散臭い男を文句も言わず家族待遇で置いてくれる有川家の両親には感謝している。
 しかし、まったく生活様式の違う世界に育ってきた知盛にとって、初めのうちは目にするもの全てが珍しくて有川家探検などしていたが、 今現在何かしたくても何もできないもどかしさに、つい家を出てきてしまうのだ。
 見知らぬ街並みを歩きながら、元いた世界に思いを馳せる。 それは懐かしんでいる訳ではなく、ただ『そんなこともあった』と記憶を手繰っているだけだった。
 腐ってしまいそうなほど退屈な宮中や、その時は生を感じるものの、後からどうしようもない虚無感に襲われる戦の中で過ごしてきた知盛は、 見るべきものはすべて見たし、滅びゆく平家とともにいつ敵の刃に散ってもいいと思っていた。
 しかし、急に降りだした雨を避けようと入った梢の下で『源氏の神子』と出会ってから、なんとなく自分が変わったような気がしていた。
 初めはただの興味だったかもしれない。
 強い光を放つ眼で敵を見据え、獣のようなしなやかな身体で剣を振るう。
 面白い、と思った。
 この女の焔のような眼に見据えられながら、その舞うように美しい太刀筋に肌を裂かれて一生を終えるのも悪くない、とさえ思った。
 しかし、その女の口から事あるごとに紡がれるのは『平穏』だった。
 その矛盾が気になったのかもしれない。
 行動を共にしているうち、女が望む平穏がどんなものなのか、見てみたい気がしてきた。
 さらに、からかうと面白い── この女の傍にいると、退屈せずにすんだ。
 戦を終わらせるための協力を乞う女をいつものようにからかおうと屁理屈をこねてみた。
 すると、売り言葉に買い言葉。
 どんな恐怖を味わわせてもらえるのかとこの世界について来てみたら、宙を舞う妙な乗り物に乗せられた。
 確かに得体の知れない恐怖は味わったが、非常に不本意だった。
 それにあれ以来、女の顔を見ていない。
 再び頭をもたげてきた退屈を紛らわすために、どんな言葉を売ってやろうかと思案するのも楽しく思えた。
 それに、他人のモノを奪うのもまた一興──。
 そしてまた今日も異世界の平穏な空気を吸いながら思索の時間を過ごそうと外に出た知盛は、道路の先を見やってニヤリと笑みを浮かべた。
 ── まだ見ていたいモノがある。
 知盛の視線の先には、スーパーのレジ袋をぷらぷらさせながら、ぼんやりとした顔で歩いてくる望美の姿があった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 さて、今回は3人の状況説明的な回になってしまいました。
 『こいつはこんなこと考えんだろ』という苦情・ツッコミは受け付けません(笑)
 将臣くんの知盛対策虚しく、望美と知盛がばったり鉢合わせ。
 さて、これからどうなる。

【2006/05/03 up】