■Shall we dance?【前編】
神戸にあるマンモス校、神南高校。
秋が深まりつつあるこの時期、日本中の学校と名のつく施設と同じく、この高校でも文化祭の準備で生徒たちは忙しい毎日を送っている。
管弦楽部部長・東金千秋はヴァイオリン担当を集めたパート練習の指導を終え、部室で寛いでいた。
手にしたカップからは、彼の執事的存在である芹沢睦が入れた紅茶が香りのいい湯気を立てている。
「……ただいま」
どこかのサロンのような雰囲気の部室によろよろと戻って来たのは、副部長・土岐蓬生。
文化祭実行委員会の会議に管弦楽部代表として参加していたのである。
今日はクラスや部活動の出し物、使用場所の申請が主な議題となっている。
「ああ、ご苦労だったな」
「一応、『例年通り』で希望出しといたわ」
「当然だ」
ニヤリ、と千秋は口の端を上げる。
『例年通り』というのは、2日間に渡って行われる文化祭のラストを飾る演目を管弦楽部が受け持つということだ。
コンサートホール並みの広い講堂は満席どころか立ち見客で通路まで埋まり、神南高校の文化祭は華々しいオーケストラの音色で終わりを迎えるのが恒例となっていた。
じっと座っていなければならない会議で余程疲れたのか、それでなくても普段から気だるげな蓬生が、高校の部室とは思えない立派なソファにどさりと身体を投げ出した。
無遠慮にソファが揺れたのがお気に召さなかったのか、不機嫌そうな顔で睨んでくる千秋の鼻先に、蓬生は持って帰った封筒を突きつける。
「……なんだ?」
「会議室から出たところでな、事務局の人に頼まれたんや」
封筒はごく一般的なA4判のもの。
宛名は学校の住所と『神南高等学校内 東金千秋様』となっている。
ただ彼が訝しく思ったのは、その封筒に横浜にある高校・星奏学院の印刷があったためだ。
裏表じっくり見ても、差出人の個人名はどこにも見当たらない。
「── 寮の使用料の精算は済ませたはずだが」
「まだやったとしても、それなら千秋宛てやのうて事務局宛てに請求が行くんやないん?」
「……確かにな」
どちらにせよ、封筒を眺めているだけでは何もわからないのは確実である。
素晴らしいタイミングで芹沢が差し出したペーパーナイフを当然の如く受け取り、千秋は封筒を開けた。
中に入っていたのは2枚の紙と、1枚の写真。
『星奏学院高校 文化祭開催のお知らせ』とタイトルのついた紙は、どうやら近隣住民に参加を促すために配られるチラシらしい。
そしてもう1枚は『星奏学院新聞』──
報道部発行の学内新聞のようだ。
「……へぇ、星奏は洒落たことやるんやね」
新聞のメイン記事は『生徒会主催 ウィンナ・ワルツ講習会 参加者募集中!』というタイトル。
ぴくり、と眉を上げた千秋は記事の内容を読み進めた。
『1年生のみなさん、後夜祭であなたも華麗なワルツを!
男子は堂々とコサージュを渡せるように、
女子は胸を張ってコサージュを受け取れるように、
ウィンナ・ワルツをマスターしよう!
生徒会役員と2・3年の有志が優しく丁寧に指導します』
「コサージュを手にワルツの申し込み、か──
これは乗り込まざるを得ないだろうな」
「せやな」
鼻を鳴らしながらの独り言の呟きに、隣からやる気満々の即答が返ってきて、千秋は思わず目を瞠った。
返ってくるとしたら『面倒臭い』だの『千秋もようやるわ』だの、否定的なものだろうと思ったのだが。
そんな蓬生は封筒に同封されていた1枚の写真を食い入るように見つめていた。
横から覗き込んでみると、ドレスで着飾った女子の大群の中で笑みを振り撒いている、見覚えのある優男の顔があった。
おそらく昨年、もしくは一昨年の後夜祭で撮られた写真だろう。
現在同じ副部長ということで何かとライバル意識を持っている彼への対抗心が蓬生の中で燃え上がっているらしい。
「── で、星奏の文化祭はいつなんだ?」
『お知らせ』のチラシを取り上げた芹沢が、そこに書かれた日時を読み上げた。
それは非常に残念なことに、ここ神南高校の文化祭と全く同じ日程だったのである。
千秋の眉間に深い皺が刻まれた。
「── おい、蓬生……日曜の午後の最初の講堂使用はどこだ?」
「確か……演劇部やったと思うけど?」
「── よし、今年の文化祭のトリは、演劇部に譲ってやるとしよう。
蓬生、交渉してこい」
部員たちに同意を求めることもせず、勝手に決めてしまう千秋。
人使い荒いなぁ、とぼやきながらも、蓬生はいつになく軽いフットワークで腰を上げ、部室を出ていった。
燃える対抗心が彼を突き動かしているらしい。
再び静かになった部室で、千秋は少し冷めてしまった紅茶を一口含んだ。
封筒の差出人に十中八九間違いないと思しき人物の顔が頭に浮かぶ。
その顔が意地の悪い挑戦的な笑みに歪んだ。
こくり、と紅茶を飲み下す。
「── 受けて立ってやろうじゃねえか」
脳裏に浮かぶ笑みよりもさらにブラックな笑みを浮かべ、千秋はポケットから携帯を取り出した。
* * * * *
「── ウィンナ・ワルツぅ !?」
星奏学院の音楽室に如月響也の素っ頓狂な声が響く。
放課後の練習を終え片付けをしているオーケストラ部の部員たちの目が、一気に響也の上に集まった。
「そ、ウィンナ・ワルツ。
毎年1年生のために講習会をやるんだけど、如月くんと小日向さんは今年の夏に転校してきたから去年受けてないでしょ?
だから、よかったら参加してみたらどうかと思って」
響也と、その隣でぽかんとした顔で立っている小日向かなでの前に差し出されたのは『生徒会主催 ウィンナ・ワルツ講習会 参加申込書』と書かれた用紙。
差し出しているのは、わざわざ二人のために足を運んでくれた生徒会役員である。
「……あー、これのことかぁ」
「なんだよ、かなで。
知ってたのか?」
「うん……昨日、千秋さんから電話があってね、ワルツがどうとか言ってて、何のことだろうって思ってた」
「ほう……無事届いたか」
すっと目を細め、ニヤリと意味ありげな笑みを浮かべたのは、取材と称して音楽室に来ていたニアこと支倉仁亜である。
「ん?
なあに、ニア」
「いや、こっちの話さ」
ニアはきょとんとするかなでの顔を愛用のデジカメのディスプレイに収め、シャッターを切った。
勝手に写真を撮られるのはいつものことなので、かなでは特に抗議することもなくニアの好きにさせている。
抗議したところで、暖簾に腕押し的にはぐらかされるのが常なので、しても無駄なのだ。
「…………でも、どうして千秋さんがうちの文化祭のことを知ってたのかな?」
「文化祭というのは、大抵どこでも部外者にも開放するものだからな。
そういえば、神南の文化祭はうちと同じ日程だそうだが」
「うん、そうみたい。
残念だなぁ、神南の文化祭、行ってみたかったのに」
「身体が2つない限り、無理な話だな──
さて、このピンチをどう乗り越えるか……見ものだな」
くふふ、と魔女のように笑うニアを訝しむ間もなく、かなでと響也は再び生徒会役員に詰め寄られた。
「ね、ね、どう?
二人がワルツに参加してくれると、かなり盛り上がると思うんだけど」
夏休み直前に転校してきて、夏休み明けには全国大会優勝メンバーとして注目を浴びた二人。
ワルツを申し込みたい男子生徒も、申し込まれたい女子生徒もかなりの数に上るはずである。
「── ど、どうすんだ、かなで?」
「んー……私はやめとく。
どうせ踊らないし」
「── 1年生に混じって講習受けるのが嫌なら、俺がワルツを教えてあげるよ、ひなちゃん」
ニコニコと穏やかな笑みを浮かべて近づいてきたのは榊 大地。
オケ部副部長である。
何故か生徒会役員の口元が、ひくり、と引きつった。
と同時にニアの口元には皮肉っぽい笑みが張り付く。
「……ほう、お前にワルツを踊る気があったとは知らなかったな」
「ん?
何を言いたいのかな?」
挑発めいたニアの言葉を気にすることもなく、大地はさらににっこりと笑みを深めた。
「── 知っているか、小日向?
去年の後夜祭は榊にワルツの逆申し込みをする女子生徒が殺到してな、この男は集まった女子全員と律儀にも数十秒ずつ踊ってやったんだ。
おかげで格調高いはずのワルツが、すっかり小学校の運動会のフォークダンスだ。
聞いた話だと、一昨年も同じような状況だったらしいぞ」
「へぇ……すごいですね、大地先輩」
ニアの耳打ちに素直に感心してしまうのは、かなでらしいというかなんというか。
「だったら今年はひなちゃんが俺と踊ってくれるかい?」
「えっ?」
『お手をどうぞ』と言わんばかりに手を差し伸べてくる大地を、目をぱちぱち瞬かせて見つめるかなで。
再びニアがかなでに耳打ちする。
内緒話を装っているが、声のボリュームはさほど落としていないので周囲には丸聞こえだ。
「……いいのか?
後夜祭でワルツを踊ったら、翌日からはカップル認定だ。
おかげで文化祭明けの学院は、あちこちがピンク色のオーラに染まって、目のやり場に困るほどなんだが」
「えっ !?
そ、それは困るよ!」
かなでは胸の前でぶんぶんと勢いよく両手を振って、ありったけの拒否をする。
苦笑を浮かべた大地は、彼女が当然断ることを最初から予測していたらしい。
その時、辺りにピピピと電子音が鳴り響いた。
皆が一斉に自分の持ち物を気にする中、音が一段階大きくなった。
音の源は、ニアが手にした彼女の携帯だった。
ニアは訝しげな表情でディスプレイをしばし睨んだ後、電話に出た。
「はい──
ああ……私の携帯の番号がよくわかったな──」
くるりと踵を返したニアは、通話しながらそのまま音楽室を出ていった。
結局、かなでも響也もワルツ講習会受講を固辞し、文化祭のオケ部のステージのための練習に力を注ぐこととなった。