■拍手お礼連載パラレル劇場『社長と秘書』【22.大きな仕事、大きな選択】 東金

 ふと目を向けたガラスの向こうの見知らぬ街の風景の眩しさに、芹沢 睦は小さな溜息を漏らした。
 今日は8月最後の大安。 完全実力主義の社長らしからぬ縁起を担いだ日程の選択だと思ったが、関わる人数が多ければ多いほど、気にする人間の数も増えるだろう。 何かを始める日というのは、やはり仏滅より大安のほうが気分がいい。
 ここは横浜市内の某ホテル。 C&Hコーポレーションを中心としたプロジェクトのプレス発表が間もなく行われる。 関東圏の経済を大きく動かすこととなる一大プロジェクトとあって、経済界からの注目は非常に高い。 それは会場である決して狭くはないホールで会見の開始を待つ記者やカメラマンの数に表れていた。 会見の後は、同じホテルの別の部屋で関係者を集めてのパーティが盛大に行われることになっている。
 芹沢はパーティ会場の最終チェックを終え、これから会見に臨む社長が待機する控え室へと向かう途中だった。 社長秘書である彼は、本社からの応援部隊として数人と共に3日前に横浜入り。 プロジェクトをお披露目する今日のイベントをなんとしても成功させなければならない。 最初でコケるようでは縁起が悪すぎる。 せっかく社長がわざわざ選んだ『大安』が水の泡だ。
 背筋をしゃきっと伸ばし、控え室となっている小部屋のドアのノブをぐっと握り締めた。
「社長、そろそろお時間で── っ !?」
 芹沢は開けたばかりの控え室のドアを、そのまま閉めようとした。 ところが、
「あ、芹沢さんっ!  いいところに!」
 呼ばれてしまったため、残念ながら今見た光景を見なかったことにすることができなくなってしまった。
 彼が何を見てしまったのか── 女性を見る視点が『好きか嫌いか』ではなく『能力があるかないか』であると思っていた社長が、まだ年若い女子社員をすっぽりと腕の中に収め、ご満悦の表情を浮かべていたのだ。 『社内恋愛禁止』などという非常識とも言える社則を作ったその人が、である。
「な……なんでしょうか、小日向さん……」
「今ちょっと思ったんですけど、今日の社長のスーツには、そっちのネクタイのほうが合うような気がしませんか?」
「は……?」
 社長の襟元に触れながら彼女が送った視線の先を辿ると、いくつかの飲み物が並ぶ小さなテーブルの上に畳んだネクタイが置いてあった。 一応、双方を見比べてみたものの、彼女のこだわりを理解できるまでには至らなかった。
「いや……どちらでもそう変わりはないかと……」
「でもっ!  今日は晴れ舞台ですよっ!  カメラもいっぱい来てるんですよっ!  写真が残っちゃいますよっ!」
 やたら力説する彼女は興奮してしまったのか、社長のネクタイをぐっと掴んで引っ張った。
「── っ !?  お、おい小日向っ、お前は俺を殺す気かっ?」
「えっ……あっ、ご、ごめんなさいっ!」
 慌てた彼女はネクタイの締め具合を調節し、結び目の形を細い指先で丁寧に整えていく。
「……本当に替えなくていいですか? ネクタイ」
「ああ、芹沢が言う通り、どっちでも大差ないさ。 それに、もう時間もない」
「そう……ですね── はい、できました。 次からはちゃんと鏡を見ながらネクタイ締めてください。 だから曲がっちゃうんですよ?」
 ネクタイを整え終えた彼女は、ついでにスーツの襟をしゅっと指で捌いて整える。 それから、おしまい、とばかりに両手で軽く、社長の胸元をぽんと叩いてすっと一歩後ろに下がった。 それと同時に、社長の手は何事もなかったかのように彼女の腰を離れていく。
「さて、そろそろ出番か」
「はい、頑張ってください」
「ああ、任せておけ」
 にっこりと笑う彼女に、社長はニヤリと自信たっぷりの笑みを向ける。
 ああ、いったいなんなのだ、この胸焼けしそうなほどに甘ったるい空気は!
 いたたまれなくなった芹沢が思わず視線を外したその時、部屋のドアがノックされた。
「── 小日向さん、いる?」
「あ、はい!」
「ごめん、こっち手伝って!」
「はい、すぐ行きます!」
 ドアの隙間から顔を出した女子社員に呼ばれ、彼女は跳ねるように部屋を飛び出していった。
 急に部屋の温度が下がっていく気がしたが、いたたまれなさは僅かに残る。
「社長……わざと、ですか?」
 満足そうに閉まったドアを眺めている社長に声をかけた。
「何がだ?」
「……普段から身だしなみには気を配っていらっしゃったかと」
「ああ、ぽやーっとしているように見えて、案外細かいところに気が付くんだ。 せっかくの能力、生かしてやらねえとな」
 直してもらったネクタイにそっと触れながらくつくつと笑う社長は、そこそこ長い付き合いの中で初めてと言っていいほど楽しげに見えた。
 小日向かなで── 社長の横浜滞在中の期間限定秘書。
 3日前にそう紹介された彼女は、まだ学生と言っても通じるほど幼く見えた。 見た目だけで判断するつもりはないが、この春入社したばかりの新人に、果たして社長秘書という大役が務まるのか?
 社長の自由奔放な行動、悪く言えば超一流のワガママに対応できるのは自分をおいて他にはいないと自負していたのに。 その上、同行するのが当然と思っていた横浜行きになぜか同行させてもらえず、『社長代理』などと大層な役目を押し付けられたものの決定権などは当然あるはずもなく、 結局は留守番の社長直通の連絡係のようなものだった。
 嫉妬めいた暗い感情をふつふつと煮えたぎらせながら横浜に来てみれば、社長は秘書に据えた若い女子社員と楽しげに戯れているとは── 嫉妬が怒りに変わらないはずがない。
 もちろんそんな感情を表に出すような愚かな真似をするつもりはないけれど。
 だが小日向かなでという人物は、決して男に媚びを売るような女性ではなく、裏表のない本当に素直な人物なのだ。 たった3日程度しか接触していない芹沢が、彼女に向けようとした怒りをゴミ箱に捨ててしまおうかと思ってしまうほどに。
 そして、どうやら一方的に攻撃しているのは社長の方で、彼女の方は少し戸惑っているように見えた。 第三者的視点で見れば完全にイチャついているようにしか見えないのだが、彼女としては大真面目に仕事をこなしているつもりらしい。
 あれこれ考え、置きどころのない感情を持て余し、知らず溜息が漏れてしまう。
「── 芹沢」
「は、はい」
 そろそろ会見場へ向かう時間だ。 社長の横顔は、すでに臨戦態勢の引き締まった表情になっている。 その顔がゆっくりと芹沢の方へと向けられ、口元に普段から見慣れている自信に満ち溢れた笑みが浮かんだ。
「芹沢、そろそろ自分の手でデカい仕事をやってみたいと思わねえか?」
「えっ……そ、それはどういう……」
 ニヤリ、と社長が笑うとほぼ同時、ガチャリと開いた扉から顔を出した男性社員が『会場へお願いします』と会見の時間が来たことを告げた。

*  *  *  *  *

 プレス発表翌日。
 初めて経験した大きなパーティの興奮冷めやらぬ中、かなではいつものように給湯室でお茶の準備をしていた。 かちゃかちゃと微かに鳴る陶器の音をBGMに、昨日の出来事を思い返す。
 会見に臨んだ社長はいつもに増して凛々しく見えて。 簡潔にまとめた趣旨説明はわかりやすく、いつもの押しの強さは説得力となって記者たちのプロジェクトに向ける期待を煽っていた。
 その様子を会場の隅っこから見ていたかなでは、ふと自分の入社式のことを思い出していた。 あの時は広い会場で社長からの訓示を聞いたけれど、壇上が遠かったせいでどんな人物だったのかもほとんど記憶に残っていないというのに。 それから数ヶ月経った今、その社長のためにお茶を淹れている自分がいる。 なんだかとても不思議な気分だった。
 プロジェクトは動き出したばかりではあるが、とりあえず今日からはしばらく通常業務になる。
 ── 通常業務?
 ふと疑問を覚えて、かなでは手を止めた。
 本格始動したプロジェクト関連の仕事は、これから東日本支社の各部署が進めていくことになる。 社長は本社へ戻り、臨時社長秘書だった自分はこれからどういう処遇になるのだろうか?
 仕事のことだけではない。 『猶予期間』がついにタイムリミットを迎えるのだ。
 3人分のティーセットを乗せたトレイを持ち上げると、やけに重たく感じられた。 実際重いのではあるが、気分の重さと相まって、気を抜くとそのまま床にずぶずぶと沈み込んでしまいそうな気がする。 大した距離でもない廊下をゆっくりと、慎重にトレイを運ぶ。
「── お、お待たせしました」
 ようやく辿り着いた社長室、応接セットで寛いでいた3人分の視線が一斉に向けられる。 結構な迫力に、かなでは思わず一歩後退った。
「待っとったよ。 ああ、いつもながら小日向ちゃんの淹れたお茶はええ香りやね」
 ふわりと長い髪を掻き上げながら、嬉しそうに微笑む土岐。 彼の隣に座っていた芹沢がおもむろに立ち上がった。
「……では、私は神戸へ戻ります」
「なんや、お茶くらい飲んでいったらええのに」
「いえ、帰りの新幹線の時間が迫っていますので」
「俺も数日中に本社へ戻る。 正式な手続きはその時になるが、準備は始めておけ」
「わかりました」
 しっかりと頷いて、芹沢は社長と副社長に向け深々と頭を下げた。
 『数日中に本社へ戻る』── その言葉がじくじくと胸を浸食していくようだった。 ただ立ち尽くすかなでの横を通り過ぎる時、ちらりと視線を寄越した芹沢が苦笑を浮かべていたのは気のせいだろうか。
「……お、お疲れ様でした!」
 トレイを持っているせいで頭は下げられなかったけれど、3日間一緒に働いた先輩秘書を労いの言葉で送り出す。
「── おい、いつまで芹沢を見送っているつもりだ。 茶が冷めるだろう?」
「あっ、すみませんっ」
 かなでは慌ててトレイを置き、2つのカップに紅茶を注いで2人の前へ出した。
「さて、小日向」
「え、あ、はいっ!」
 なぜか憮然としていた東金が、一転悪戯めいた笑みを浮かべながら何かを差し出してきた。
「これって……」
 渡されたのは2枚の紙。 同じ様式で書かれているが、ところどころ内容が違っている。 読み比べているうち、紙を持つかなでの両手が微かに震え始めた。
「── どちらでも、好きな方を選べ」
 東金が自信たっぷりにニヤリと笑ったのも、土岐が大袈裟なほどの大きな溜息を吐いたのも、手元の紙に書かれた文字から目が離せなくなったかなでにはまるで見えていなかった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 すみませんー、時間かかった上に終わらんかったー(汗)
 というわけで、もう1話続きます。

【2011/04/27 up】