■拍手お礼連載パラレル劇場『社長と秘書』【23.突然の人事異動・再び】
ブロロン、と腹に響く低いエンジン音と、巻き上がる排気ガスを残し、引っ越し業者の小型トラックが走り去っていく。
「── ったく、お前も唐突なヤツだよな」
トラックが道の向こうの角で曲がり、視界から消えてしまったところで、響也がしみじみと呟いた。
今走り去ったトラックに積み込まれていたのは、かなでの大して多くもない家財道具一式なのだ。
荷造りはかなで一人でやってしまっていたし、トラックへの積み込みはすべて業者任せ。
あとは簡単に掃除をしておく、というので、それくらいはせめて手伝おうと響也の手には1本のほうきが握られている。
「えへへ……響也とは生まれた時からずっと一緒だったものね」
「それがいきなり『私、転勤する!』だぜ?
普通、人事異動ってのは4月か、せいぜい10月だろ」
響也が他人事ながらぼやくのも仕方ない。
今日は8月30日──
明後日9月1日付けでかなでは神戸にある本社勤務となるのである。
* * * * *
── 渡された2枚の紙。
微妙に文言は違うものの、大見出しは『辞令』となっていた。
「どちらでも、好きな方を選べ」
そう言い放ち、勝ち誇ったような笑みを浮かべる東金の顔を見た瞬間、込み上げてきた怒りとも苛立ちとも表現できない複雑な感情の余り、紙を持つかなでの手はふるふると小刻みに震え始めた。
辞令のうちの1枚には『9月1日より本社秘書課への異動を命ず』とある。
そしてもう1枚は──
「なっ、なんなんですかこれはっ!」
2枚の辞令を持つ手に思わず力が入った。
握り潰された紙にぱりぱりと皺が寄る。
「本社の方はともかくっ、にゅ、にゅ──」
「最終的にはそこに行きつくだろう?」
顔を真っ赤に染めて言い淀むかなでに向けて、にっ、と笑って東金は辞令の1枚をカードゲームをするかのように抜き取った。
「ま、まだそこまで考えてませんっ!」
「ほぅ、『まだ』、か」
「っ !?」
揚げ足を取りつつ、さらに楽しそうに笑みを深めた東金の持つ辞令の内容──
それは、『できるだけ早い日時に、東金千秋と入籍することを命ず』だったのである。
「── 強引な手に出たもんやね……がっついたらあかんよ、千秋」
ソファに戻った東金の手元を覗き込みながら、土岐が呆れたような溜息混じりに忠告する。
だが東金は眉ひとつ動かすこともなく、不遜な笑みを浮かべたまま。
「ハッ、俺ががっついてるだと?
決意と覚悟の表れと言ってもらおうか。
こんな紙じゃなく、正式な婚姻届でもよかったが」
「せやから……それががっつく、いうことや」
「あ、あのっ!」
険悪になり始めた上司2人の会話に、かなでは思い切って割り込んだ。
自分絡みのことである上、内容が内容なだけに、これ以上言い合いがエスカレートしてはたまったものではない。
「……なんだ、小日向?」
「あの……私、できることなら秘書のお仕事を続けたいです……」
胸元で紙を握り締め、絞り出すように呟くかなでの顔はどんどん下へ向いていく。
俯いてしまったが故、じわりと滲んできた涙が零れ落ちそうになって、必死に堪えようと唇を強く噛んだ。
「……でも、本社には芹沢さんがいらっしゃるし……だから──」
意を決して顔を上げ、無理矢理に精一杯の笑顔を作る。
「── 元の部署に戻って、仕事、頑張ります!」
笑みの形に歪めた目尻から、留まりきれなくなった涙がすっと流れ落ちてしまった。
途端、はぁ、と不機嫌そうな溜息が聞こえてきた。
見ればソファにゆったりと座る東金は、聞こえた溜息の何倍も不機嫌そうな顔で、かなでを半ば睨んでいる。
ぎくりとして半歩後退ったかなでの頬を、柔らかな感触といい香りが包んだ。
席を立った土岐が頬を拭ってくれたハンカチを手に持たせてくれた。
ぽふ、と励ますように頭に軽く手を乗せてから、彼は何も言わず社長室を出て行く。
「── 小日向」
室内が完全に二人きりになったところで、東金が口を開いた。
鋭い語調のせいで、かなでの全身に緊張が電流のようにビリリと走り抜ける。
「は……はい」
「お前、字は読めるんだろう?」
「え…?」
不機嫌なまま、東金は小さく顎をしゃくって見せた。
それは『もう一度それを見てみろ』と言う意味に他ならない。
かなではくしゃくしゃになってしまった辞令の紙を広げて視線を落とした。
何度見ても間違いなく、本社秘書課への異動、という文字が目に入ってくる。
「昨日の会見を見た関西の企業からの問い合わせがいくつも本社に入っているらしい──
西でも何かやらないのか、とな。
まあ、当然の帰結だし、予想もしてはいたが」
「え……あ、あの……」
「芹沢は有能な秘書だが、俺の後ろをついて回るだけで終わらせるにはもったいない人材だからな。
思い切って関西で立ち上げるプロジェクトの統括を任せることにした」
ゆっくりと立ち上がった東金が、独り言のように呟きながら近づいてくる。
やがてかなでの正面に立ち、
「── そういう訳で、本社での俺の秘書の後任を急ぎ探している」
何か言わなければ──
ようやく口を開きかけたところで、かなでの身体がふわりと包み込まれた。
「俺と一緒に神戸へ来い──
かなで」
耳元で囁かれた甘美な誘惑の言葉に涙が溢れてくる。
これまでは一方的に抱き締められるままだったけれど、かなでは初めて自分の意志で彼の背中にそっと腕を回した。
それが彼の誘いへの返事だ。
「……もう1枚の辞令も本気なんだがな……」
たぶん本当の独り言だったのだろう。
だが、身体が密着しているせいで、はっきりと聞き取れてしまった。
かなではあまりにしみじみした呟きに、思わず彼の顔を見上げ、
「あ、あのっ、そちらは保留でお願いしますっ!」
はっと目を見開いた東金が、ぷっ、と小さく吹き出した。
そのまま苦笑しながら、
「……しょうがねえ、もうしばらく待ってやるか。
だが、俺はそう気が長くはないからな」
ゆっくりと彼の顔が近づいてくる。
かなでは上を向いたまま、ゆっくりとまぶたを閉じた。
* * * * *
「── で、あっちの住むとこ、どんなとこだ?
社員寮とかか?」
「ううん、社長のマンションだよ」
「なっ !?
いきなり、ど、ど、同せ──
だあぁぁぁっ!
あんのエロ社長っ!」
大声で喚き始めた響也は、かなでの肩をがしっと掴み、ガクガクと揺すりながら、
「かなでっ、行くのやめろっ!
引っ越し屋にはトラック引き返すようにオレが連絡してやるから!」
「ちょ、ちょっと響也、落ち着いて!
まだ一緒に住むとかじゃなくて、社長がオーナーをしてるマンションの部屋を借りるだけだから」
響也はピタリと動きを止め、かなでの肩からぱっと手を離す。
行き場を奪われた手のひとつが後ろに向かって弧を描き、彼の後頭部をがしがしと掻き毟った。
「……だ、だよな?
あいつと一緒に住むとか、ありえねぇよな?
ははっ……お前も重要なとこを省略すんなよ、誤解するだろ!」
「ごめんね。
でも響也も早とちりしすぎだよ〜」
「オレのせいかよっ」
今まで20年間当たり前のように続いてきたこんな他愛ない会話も、当分することができないのかと思えば、やはり淋しいのだろう。
がらんどうになった部屋に戻っていくかなでの後ろ姿が、響也にはやけに遠くに見えた。
手にしたほうきをぶらぶら振りながら、彼女の後を追って階段を上る。
「ね、コンビニで何か飲み物買ってくるよ。
響也のとこ、何もないでしょ?」
「おまっ……ちっ、事実だから何も言い返せねぇっ」
「ふふっ、じゃあちょっと待ってて。
あ、なんならお昼ご飯用のお弁当も買ってくる?」
「いらね…………いや、やっぱ頼むわ」
たぶん、彼女が旅立ってしまった後は、外に買い物に出る気分になんてなれないだろうから。
「じゃ、行ってくる。
留守番お願いね」
「……おう」
真夏の日差しを一身に浴びる向日葵のような笑顔を残し、かなではコンビニへ向かって歩いて行った。
「……あいつ、『まだ』っつったよな……くそっ」
『まだ』一緒に住むわけではない、ということは、いずれそうなるかもしれないということだ。
響也は自分が彼女にとって『永遠の幼なじみ』となったことを無理矢理認めて、ガリガリと頭を掻いた。
2階の廊下の手すりに覆い被さるようにして寄りかかり、外に投げ出した手に持つほうきをぷらぷらと揺らしながらアパートの前の道路を見下ろした。
あーコンビニならオレが自転車で行ってやればよかったな、とふと反省した時、眼下に一台のタクシーが滑り込んできて停車した。
ハザードの黄色いランプが派手に点滅する車から降りてきたのは、ついさっき噂をしていた人物だった。
響也の手からするりとほうきが滑り落ちて、ぱたりと真下の地面に落ちる。
音を辿って顔を上げた東金と目が合った。
「── おい、小日向を呼べ」
「なっ !?」
響也は駆け出した。
ドドドドッと転げ落ちるように階段を駆け下り、ぐるりと敷地を回り込んで落としたほうきを拾ってから、タクシーの横に佇む東金の前へ。
品のいいスーツを着こなした彼の放つ威圧感に圧倒されつつ、あえて正面から対峙する。
「おっ、お前な!
人んち来た時はまず挨拶だろっ!」
「そうギャンギャン噛みつくな、暑苦しい……で、小日向は」
「だーっ!
コンビニだよ、コンビニっ!
心配しなくてもすぐ帰ってくるって!」
「ふん……約束の時間にはまだ早いから、仕方がないか」
腕時計を見ながら、ネクタイを捻じれ気味に少し緩める仕草がムカつくほど様になっている。
「おいっ、エロ社長っ!」
響也は手に持ったほうきを東金の鼻先にビシィッと突き付けた。
無作法な行動を咎めるように、東金はすっと細めた目で睨んできた。
「……なんだ?」
「あいつを……かなでのこと泣かせたら、お前をぶっ飛ばすからなっ!」
見開いた目を数回瞬いて、東金はニヤリと口の端を吊り上げた。
「── 俺は欲しいものは必ず手に入れる。
手に入れたものは大切に扱うぜ──
それこそ一生、な」
「── っ」
あまりに自信たっぷりに言い放たれて、響也は思わず絶句した。
その時、ぱたぱたと軽やかな足音と、ビニールががさがさ擦れる音が近づいてくるのが聞こえてきた。
「すみませんっ!
お待たせしちゃいましたか !?」
「いや。
いいから荷物を取ってこい」
「はいっ!」
とびっきり元気な返事をしたかなでは、響也にコンビニ袋を押し付け、アパートの階段を駆け上がっていく。
2つの袋のひとつには響也の好きなとんかつ弁当、もうひとつには紅茶とジンジャーエールのペットボトルが入っていた。
いつも通勤するときに持っているバッグと、小振りなキャリーケースを提げて降りてきたかなでが前を通り過ぎる。
タクシーの運転手が、キャリーケースをトランクに積み込むのを、響也はただぼんやりと見つめていた。
「あの、アパートの鍵を返しに不動産屋さんに行きたいんですけど、寄ってもらっていいですか?」
「ああ、いいぜ」
「ありがとうございます── あ」
何かに気付いたかなでが、バッグを地面に置いた。
両手を前に──
東金の胸元に向かってすっと伸ばす。
「もう、ちゃんと鏡を見てくださいって言ったじゃないですか」
「ん?
ああ」
緩んで捻じれたネクタイを慣れた手つきで直すかなでを、なんとも満足そうに見下ろしている東金。
── お前っ!
わざとだろっ!
わざと緩めたんだろうがっ!
響也の心の叫びは二人に通じるはずもない。
「── じゃあ、私、行くね」
振り返ったかなでの横で、東金がタクシーに乗り込んだ。
「おう……あ、これ飲まねぇの?」
袋から紅茶のペットボトルを取り出して見せると、かなでは首を横に振った。
「響也が飲んでいいよ。
あ、勉強サボっちゃだめだよ?
ご飯もちゃんと食べてね?」
「……お前はオレの母親かっつーのっ」
「だって心配なんだもの」
だったら行くな、と言えたらどんなに楽だろう。
さっき話の流れで一度口にしたけれど、もう言ってはいけない言葉のような気がして、ぐっと喉の奥に飲み込んだ。
「ほら、さっさと乗れよ。
さっきからエロ社長が怖い顔で睨んでるぜ」
「もう、響也ってば……じゃあ、向こうに着いたら電話するね」
「おう……仕事頑張れよ」
「うん」
かなでが後部座席に乗り込むと、バタン、とドアが閉められた。
ガラス越しに手を振る彼女に、手を上げて応え。
走り出したタクシーが道の向こうに見えなくなると同時に溜息が出た。
「── 頑張れ、オレ!」
一声気合いを入れて、響也は階段を駆け上がり、自分の部屋に飛び込んだ。
* * * * *
傷心の若者がひとり生まれた一方、喜びに沸く企業があった。
C&Hコーポレーションにおいて、創業時からあった『社内恋愛禁止』の文字が社員規則から消されたのである。
異性の社員にいいところを見せよう的下心が大部分を占めるとはいえ、それは社員ひとりひとりの仕事に向ける情熱となり、それは会社全体の業績アップに顕著に繋がった。
そして、社内カップルが続々と誕生する中、若き辣腕社長と可愛らしい社長秘書が社内結婚第1号となるのが約1年後。
その後『就職したい企業No.1』を獲得し続けたC&Hコーポレーションは世界有数の大企業への道を突き進んだという。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
これにて終幕!
人事異動から始まったので、人事異動で終わらせました。
オトナのいちゃいちゃを期待していた皆様、ごめんなさい。
各自、行間で妄想してくださいませ(笑)
えー、ありえなーい!っていう展開も多々ありましたが、
フィクションだしパラレルなのでご容赦ください(汗)
響也スキーさんごめんなさい。響也ごめん、ほんとにごめんっ!
途中、超のろのろ更新になってしまったことをこの場を借りてお詫びいたします。
長いことおつきあいありがとうございました。
【2011/05/01 up】