■拍手お礼連載パラレル劇場『社長と秘書』【20.開き直る】 東金

 湿った潮風と波の音に包まれた公園は、まだそれほど遅くない時間のせいか、思ったよりも人影があった。 昼間の蒸し暑さを避け、日が落ちてからジョギングなどを楽しむ人にとっては最適の場所かもしれない。 ただ通り抜ける人もいれば、ゆっくりと散歩を楽しむ人もいる。 数日中には梅雨明け宣言が出され、本格的な夏が訪れるだろう。
 一定間隔で立てられた街灯が作る光の濃淡の下を、かなでは俯きながらゆっくりと歩く。 時々目を上げると、数歩前に東金の姿があった。 居酒屋の前から無言のまま引きずられ、辿り着いたのがこの公園だった。
「── 小日向」
「は、はいっ!」
 闇を吸い込んだような海が間近に迫る展望スペースまで来ると、東金がふいに振り返った。 かなでは反射的に返事をして、思わず半歩後退る。 すると彼は少し困ったように苦笑した。
「そこまで警戒することはないだろうに」
「い、いえっ、け、警戒とかじゃ……」
「そんなに身構えていて、か?」
 苦笑を深めた東金は、肘と背中で手すりに凭れかかった。
「── で、そろそろお前の答えは出たんだろうな?」
「え……?」
「一週間待ってやった。 お前が口にすべき答えはただひとつだ。 それ以外は認めねえ」
 そう言って東金はニヤリと笑う。
 だが、かなでは頭を掻き毟りたい気分になった。 答えって、何のことだろう?  何か質問をされていたのかしら?  いくら考えてみても、まったく覚えがない。
「……お前、まさか、何のことだかわからない、とか言わねえだろうな?」
「えっ、あ……その……」
 一瞬にして険しい表情になった東金にズバリ言い当てられ、混乱に拍車がかかる。 それでもじたばたと懸命に思考を巡らせているうち、すっと腰を引き寄せられた。 気づけば手すりから離れた東金が目の前にいて、彼の手が自分の腰に回されているのだとわかると、頭が真っ白になって、もう何も考えることができなくなりそうだ。
「これで少しは思い出したか?」
「えっ、な、何を……」
 すると少しムッとした顔が近づいてきた。 思い出す、どころか、忘れようにも忘れられなくなってしまった感触が蘇ってきて、ぽんっ、とかなでの顔が一気に赤く染まる。
 あまりに接近している整った顔から逃げるように、かなでの身体は大きく後ろに反っていた。 そんな体勢で居られるのも、彼が腰を支えてくれているからだと思えば、余計に恥ずかしさと混乱が増してきた。
「おおおおおおおお覚えてますっ!  覚えてますからっ!」
「……その時の俺の言葉は?」
 ── そりゃあもう覚えてますとも!
 『俺のものになれ』── あの時鼓膜を打った言葉が、たった今も囁かれ続けているように何度も頭の中でリピートした。 だが声は喉に詰まってしまって、コクコクと頷いてみせるだけで精一杯だ。
「それに対して、お前は何と言った?」
「………え?」
 ── それに対して?
 かなでの記憶に残っているのは、突然口付けられて、衝撃的な言葉を聞いたところまで。 はっと気付いた時には、自宅アパートのドアを入ってすぐの床にぺたりと座り込んでいたのだ。
「……わ、私……なんて言いました…?」
 すると東金は脱力したように大きな溜息を吐いた。 顔にかかった彼の呼気に微かなアルコールを感じて、酔いが回ったかのように頭がくらりとした。
「……まあ、いいだろう。 保留を延長して、新たに猶予期間を設けてやる。 期限は……そうだな、8月31日でどうだ?」
 8月末というのは約1ヶ月後。 なんだかよくわからない部分が多いのだが、あと1ヶ月の間に自分が『彼のものになる』かどうかを決断しろ、ということなのだろう。
「あ、あの、それは……」
「プロジェクトの公式発表は8月下旬の予定だ。 それが終われば、俺は本社に戻る」
「え……」
 本社は神戸にある。 そしてここは横浜だ。 社長の横浜滞在には期限があることなんて、最初からわかっていたことなのに。
 だが改めてそう聞かされると、途轍もない重大事項を見落としていたような気がしてきた。
「まあ、着工と竣工の時にはこっちでセレモニーをやるし、その間もちょくちょく様子は見に来るが、俺も社長である以上いつまでも本社を留守にはできねえし── って、おい小日向、聞いてるのか?」
「え?」
 顔を上げると、目の前に東金の顔があった。 そういえば腰を抱き寄せられたままでいたのだ。
 悪戯めいた笑みを浮かべていた彼の表情が、すっと曇りを帯びた。
「あ、あの……」
 東金はなぜかかなでの頬を手のひらですっと撫でてから、最初はふんわりと包むように、それからぎゅっと強い力を込めて抱き締めてきた。
 全身が心臓になったかのように、どくどくと激しい鼓動が脈打っているのがわかる。
 それなのに、ずっとこうしていてほしいような安心感もある。
 さらに、胸が詰まるような息苦しさと、なぜか寂寥感もあった。
 ── 私は、いつの間にかこの人のことを好きになっていたのかもしれない。
 そう自覚してみると、今抱えているぐちゃぐちゃした複雑な感情の意味がわかるような気がした。 けれど曖昧な部分も多くて、きちんと答えを出すまでにはまだ至らない。
 与えられた猶予期間に甘えさせてもらおう── かなでは東金の胸に顔を埋めたまま、ゆっくりと目を閉じた。

*  *  *  *  *

「── 遅くなってすみませんっ」
 社長と支社長のスケジュール調整のために秘書課に行っていたかなでが社長室に戻ってきた。
「いくつか予定の変更がありますので、確認をお願いします」
「ああ」
「まず、明後日の打ち合わせですが──」
 スケジュール帳を手に、かなでがデスクの横に立つ。 東金は自分の覚え書き用の手帳を取り出し、デスクの上に広げた。 すっかり秘書が板についてきた彼女が変更になった項目をすらすら読み上げる。 それをチェックしながら手帳を書き直した。
 ものの数分で作業を終えると、変更は以上です、とかなではスケジュール帳をパタンと閉じ、自分のデスクへ戻っていった。
「── 小日向」
 彼女が戻る前から使っていたノートパソコンのディスプレイを見つめながら、彼女の名を呼んだ。
「あ、はい」
 椅子に座りかけていたかなでが、ぱっと弾かれたように姿勢を正して、慌てて駆け寄ってくる。 彼女が横に来たところで、東金はゆっくりと椅子から立ち上がった。 そして用事を言いつけられるのを待っている彼女をふわりと抱き締めるのだ。
「しゃ、社長っ!  な、何をなさるんですかっ!」
「休憩だ。 疲れた時はこれが一番効く」
「っ!  ま、まだ猶予期間中ですよっ!」
「……だから何度も言わせるな。 お前には猶予を与えたが、その間俺が何も行動しないとは言ってないだろう?」
「もう……社長はずるいです…」
 8月ももう半ば。 こんなやり取りが見られるようになって、すでに2週間が経つ。 それはすなわち、夜の公園での出来事からも2週間経ったということだ。
 あの時、『神戸に戻る』と言った後の彼女の頬には涙が流れ落ちた跡があった。 思わず頬を手で拭い、抱き締めた。
 何があろうと、絶対に手に入れてやる── その決意はさらに強くなった。 すでに手に入れたも同然だ、という確信はあったけれど。
 その翌日から東金はかなでを呼び付け、無言のまま抱き締めるようになったのである。
 もちろん最初のうちは彼女も抵抗して必死に逃げようとしていたのだが、2週間も経った今では文句を言いつつも大人しく抱き締められている。 文句を言うくせに、真面目な顔で呼べば警戒することもなく近づいてきて、また抱き締められて悔しそうな顔をする。
 いい加減観念して早く返事を寄越せばいいのに、と思わなくもないが、今の状況もこれはこれで面白い。 だから返事を急かすこともなく、彼女の反応を楽しんでいるのだ。
 あと2週間、しっかり楽しませてもらおうか。 そんなことを考えながら抱き締める腕に力を込めると、彼女は素直に胸に身を預けてきた。 抱き締めればガチガチに身を硬くしていた頃と比べれば、ずいぶんな進歩だろう。
 その時。
「── 千秋ー、うちは社内恋愛禁止やでー」
 社長室から見える廊下を、土岐がこちらに顔を向けることもなく、すーっと通り過ぎていった。
 ── ふむ、社内規則の改定が急務だな。
 見られてしまった恥ずかしさにじたばたと暴れ出したかなでを腕の中に押さえ込みながら、東金は改定案を本気で考え始めるのだった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 こういうのを急展開って言うんですかね?
 ともあれ、ようやく書けました。
 書いてるうちに、わけわかんなくなりました。
 「もう東金さんったらー」とツッコミながら読んでいただければ(汗)

【2011/04/13 up】