■拍手お礼連載パラレル劇場『社長と秘書』【18.Ready Go!】 東金

「── 千秋、ええ加減その顔、やめてくれへん?」
 階下の社員食堂で日替わりランチを食しての帰りの廊下。 隣を歩いていた土岐が、うんざりした口調でぼそっと呟いた。
「は?  ……その顔、と言われてもな。 生憎、俺は生まれた時からこの顔だ」
「そうやない。 ここ一週間の、その緩み切った表情(かお)……社員たちに示しがつかんわ」
 東金はさも心外だと言わんばかりにピクリと片眉を上げ、それからニタリと意味ありげな笑みを浮かべる。
「── そうか……もう一週間か」
 不穏なものを感じ取ったのか、土岐が訝しげに眉根を寄せながら首を傾げた。 彼が訝るのも当然である。 一週間前に何があったのか、話していないのだから。
 東金がかなでの手料理を食べたのが一週間前のこと。 特に高級食材でもない、普通のスーパーに並んでいるもので作られた夕食は東金の舌を十分に満足させる出来だった。 おかげでその後口にする食事の何と味気ないことか。
 そして──

「── 俺のものになれ、小日向」
「……………………っ、ほ」
「『ほ』?」
「……ほっ、保留でお願いしますっ!」

 真ん丸に見開いた目。 慌てふためいて逃げ出す様子を思い出すと、ついつい口元が緩むのは仕方がないというものだ。
 もちろん逃げ出そうとした彼女をきっちり捕まえ、自宅まで車で送り届けたのは言うまでもない。 元々送っていくつもりだったから、食事中にアルコールの類は口にしていなかった。
 その彼女といえば、相変わらずの挙動不審のまま、表面上はなんとか業務をこなしている。 東金も彼女の意を汲み、あくまで上司としての距離を取って接してきた。
 だが、もう一週間も待ってやったのだ。 そろそろ『保留期間』は終わりにしてもらわねば。
 あの時、拒絶しようと思えばできたはずなのに、彼女はそうしなかった。 裏を返せば、答えはもう出ているに等しい。
「……小日向が作る料理は美味いぞ」
「は…?  ……ああ、看病してもろた時やね」
「いや、違う」
「…………妙な機嫌のよさは、それか…?」
「ああ、ちょうど一週間前にな」
「……出先から直帰するいうて電話してきた日か。 まさか、小日向ちゃんを家に連れ込んで、よからぬことしてへんやろな?」
「よからぬことはしたつもりはないが……ふむ、少々手加減しすぎたか……」
「手加減?」
「脳髄が溶け出すほど濃厚で情熱的なのをお見舞いしてやればよかった」
「…………チューはしたんやね……」
 土岐が極度の疲労感に額を押さえ、天井を仰いで溜息を吐いたのは、ちょうど社長室の前まで戻って来た時だった。
「── あ、うん、まだお昼休み中だから大丈夫」
 ちょうど社長室の中から聞こえた声に、二人は思わず足を止めていた。

*  *  *  *  *

 正午を少し過ぎた頃、部屋の入り口に土岐が顔を見せたのを合図に東金がデスクを離れた。
「── 社食に行ってくる」
「は、はいっ、い、行ってらっしゃいませ」
 ばっ、と椅子から立ち上がり、がばりと頭を下げる。 微かな足音が完全に聞こえなくなってから、かなでは崩れ落ちるように椅子に腰を落とした。
 こんな状況が、もう一週間も続いている。 精神的に疲れ果てていた。 目の前のノートパソコンをずずっと向こうへ押しやり、空いた所にごちんと額を落とす。 デスクの上はパソコンの熱で温もっていた。 できればひんやり冷たい方がよかったのに。
 はぁ、と深い溜息を漏らしてから、かなでは何かを断ち切るように勢いよく立ち上がった。 給湯室でお茶を淹れ、デスクに戻ってバッグの中から弁当箱を取り出す。
 かなではこの一週間、自分で作った弁当を持参していた。 いざという時に『お弁当を持ってきていますので』と言い訳できるように。 その『いざという時』は今のところ訪れてはいなかった。 言い訳をしようと身構えている当の相手は先日の出来事などなかったように平然としていて、もしかするとあれは夢か妄想だったのではないかと思い始めるほど『何も』ないのだ。
 弁当を広げ、ご飯を一口頬張った。
「………っ」
 唇に触れる箸の硬さに息を飲んだ。 箸にしろ、コップにしろ、何かが唇に触れるたび、決して夢や妄想などではない先日の柔らかい感触を思い出してひとり赤面する。 弁当をつつきながら『今日も昼食に誘われなかった』と半分は安堵し、半分は少し落胆しているという複雑な感情が心の中でぐるぐると渦を巻く── そんな日々が続いていた。

 小さなお弁当を平らげるのにそう時間はかからない。
 必死に頭の中を空っぽにするよう努力しながらお茶を飲み干し、一息ついたところでバッグの中の携帯がブルブルと震えて着信を告げた。 ディスプレイには『響也』の文字。
「── もしもし、響也?  どうしたの?」
『悪ぃ、今話して平気か?』
「あ、うん、まだお昼休み中だから大丈夫」
『急で悪いんだけどさ、今日、仕事の後で出てこれねぇ?』
「え、何かあるの?」
『高校ん時のヤツらと飲みに行こうって話になってさ。 お前もみんなに会いたいだろ?』
「うん、久しぶりに会いたいな。 今日は特に何もないから、たぶん定時で帰れると思うよ」
『そっか、よかった。 んじゃ、駅前の○○って居酒屋、知ってるか?』
「居酒屋の○○?  大きな赤い提灯がぶら下がってるとこだっけ?」
『そうそう、それ。 7時に店の前な』
「7時だね。 うん、わかった」
『ま、今日は飲んで騒いで発散しろ!  つぶれてもオレが担いで帰ってやる!』
「ふふっ…………ありがと、響也」
『お、おうっ……んじゃ、夜にな!』
 幼なじみである響也は、顔を合わせるたびに『大丈夫か』と聞いてくれていた。 たぶん今回も自分を励ますために飲み会を企画してくれたのに違いない。 気を抜けば心ここにあらずな状態になってしまうのを懸命に隠していたつもりだったけれど、それほどまでに顔に出てしまっていたのかと思うと申し訳ない気持ちになってくる。 だが、彼の心遣いが今は嬉しかった。
 そっと携帯を閉じて顔を上げた。 その時ちょうど東金が昼食から戻ってきて、かなでは慌てて携帯をバッグの中に仕舞い込んだ。

*  *  *  *  *

 かなでは小走りで目的地へと急いでいた。
 定時少し前にミーティングから戻ってきた社長は、珍しいことに時間になると『お先に』と言ってさっさと帰ってしまった。 おかげでかなでも定時で帰ることができたのだが、少し時間があると思って本屋に寄ったのがまずかった。 たまたま手に取った本を読みふけってしまったために、もう約束の時間を10分ほど過ぎている。 今はとにかく走るしかない。
 遠目からでもよくわかる、大きな提灯が見えてきた。 ぼんやりと灯る赤い光の前によく知った人影があった。
「── 響也!」
 振り返った響也の顔に、かなではギクリとした。 あの顔は絶対怒っている。 しまった、気づいた時点で電話しておけばよかった──
「ごめ──」
「かなでっ!  あれは一体どういうことだよっ!」
「えっ?」
 てっきり『遅い!』か『連絡くらいしろ!』と怒鳴られるかと思ったのに。
「……えと、『あれ』って…?」
「いいからちょっと来い!」
「ちょ、きょ、響也っ !?」
 怒り心頭の響也は乱暴にかなでの腕を掴んで店の中へ入っていく。 引きずられるまま2階に上がり、仕切りを兼ねた襖の一つを響也が開くと、そこには畳敷きの宴会場が見えた。 そして既に料理の並んだテーブルの上座に──
「── よう、小日向」
「なっ…………なんでここにいらっしゃるんですかっ !?」
 懐かしい友人たちの中に主賓のような顔で座っている東金と土岐の姿を見つけて、かなではめまいを感じて倒れそうになった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 ザ・お約束♪
 まあ、途中から筋が読めてたとは思いますが(汗)
 東金さん、積極的に行動に出ることにしたらしいです(笑)

【2011/04/02 up】