■拍手お礼連載パラレル劇場『社長と秘書』【17.約束】
「…………ふぅ」
かなでは心許ない溜息ひとつ吐いて、上を見上げ続けていたせいで疲れた首をこきこきと回した。
── えーと……私はどうしてここにいるんだろう?
この後は特に予定は入っておらず、会社に戻ったら名刺の整理の続きに取りかかろうと思っていたのだけれど。
再び視線を上げた。
目の前には畳2枚分はあろうかという大きな油彩。
一糸まとわぬ肉感的な女性の頭上でぷくぷくした赤ん坊のような天使が飛び回っている宗教画である。
ここは、さっき訪れた企業から程近い場所にある美術館。
乗って来た運転手付き社長専用車を社に帰し、ここまでは歩いてきた。
目玉となる企画展を催しているわけでもなく、常設展示しかない時期のせいか、他の見物客の姿はほとんどない。
静かな空間に微かに流れる音楽はバロック。
チェンバロの繊細で少し硬めの音が耳に心地よい。
「── へぇ、こういうのが好きなのか」
そろそろ次の絵に移ろうか、と思い始めたちょうどその時、後ろから声をかけられてドキリとした。
振り返ると、1本電話をかけるから先に見てろ、とロビーに残った東金が後ろに立っていた。
場所柄を考えてのひそめた声は、普段の彼の声とは印象が大きく違う。
なんとなく落ち着かなくて、かなでは慌てて絵の方へ視線を戻した。
「え、えと……絵のことはよくわからないんですけど……綺麗な絵だな、とは思います」
「……それでいいんじゃないのか?」
「え…?」
かなでは思わず、隣に並んだ東金の横顔を見上げた。
彼は絵を見上げたまま、
「── この絵がここにあるということは、後世に残すべきものと評価されたからだろう。
それを見て綺麗だと思えるなら、お前にはそれなりの審美眼が備わっているということだ」
「………はぁ」
すると東金はチラリと一瞥してから、くっと喉の奥で笑った。
「俺が誉めてやったんだ、素直に喜べ」
「……はあ……ありがとうございます」
ぺこり、と頭を下げると、東金は一瞬目を見張ってから口元に苦笑を浮かべ、
「……素直すぎだろ」
困ったような顔で呟いて、次の絵へと歩いて行った。
だったらどうすればいいのかしら、と首をかしげつつ、かなでも後を追う。
次の絵は恐らく何かの神話のワンシーンをモチーフにしたものだろう。
たくましい筋肉を持つ男性の絵だ。
ここは絵を眺める場所なのだから、無理に会話をする必要はない。
むしろ会話をすると迷惑になる場所だ。
それでも黙ったまま並んで絵を見ていることが妙に居心地が悪くて、かなでは無理矢理会話の糸口を探り出した。
「あ、あのっ」
「ん?」
「えと、その……ど、どうしてこういう絵はみんな裸なんでしょうか?」
東金は瞠目して瞬きすること数回。
口元をがばっと手で覆って、ぶくっ、と吹き出した。
「お、お前、そういう観点でこの絵を見てたのか?」
「へ……?
── ち、違いますっ!
そ、そういうことじゃなくて!
それより!
ど、どうして美術館に来たんですかっ!」
「馬鹿、声のトーンを落とせ」
言われてかなでは口を閉じる。
慌てて周囲を見回したけれど、客の少なさが幸いして、見渡せる範囲に人の姿は見られなかった。
「── 今必要ではないと思う知識も、いつか必要になる日がくるかもしれない。
逆に一生使う日が来ないかもしれない。
だが同じことをするにも、知識があるとないとでは大違いだ。
だから常日頃からいろんなものを見ておくに越したことはない──
そうは思わないか?」
かなでは思わず息を飲んだ。
すごい、と思った。
大きな会社を経営する人というのは、やはりこうして広く見識を深めることを厭わない人なのだろう。
きっと社長は短大を出たばかりの使えない見習い秘書を教育しようとしてくれているのだ。
「── 頑張って見学します!」
意気込んで宣誓し、かなではぐりんと身体の向きを変え絵を見据える。
一歩後ろに下がった東金が懸命に笑いを噛み殺していたことを、必死に絵を睨みつけていたかなでが気付くことはなかった。
* * * * *
ゆっくりじっくり絵を鑑賞していたせいで、美術館を出た時にはすっかり夕暮れ時になっていた。
「……さて、定時だな」
腕時計を見ながら東金がぽつりと呟く。
つられてかなでも時計を見れば、針は確かに終業時間を僅かに過ぎた時刻を示していた。
「あ……すみません、私が絵を見るのがゆっくりすぎたせいで……」
かなでは会社へ戻るためのタクシーを捕まえようと、車道に駆け寄った。
ぐっと背伸びして、めいっぱい首を伸ばして見ると、遠くに空車のタクシーが見えた。
「いや、構わねえ。
俺もお前も、今日は直帰だ。
連絡はしてある」
「えっ?」
上げようとした手を、上げそびれてしまった。
目の前をさっき見つけた空車のタクシーがスピードを落とすことなく通り過ぎていった。
「── お前にはこれから、先日の約束を果たしてもらう」
かなでの後ろに立った東金がすっと手を上げた。
滑り込んできたタクシーがバサッと羽根を広げるように扉を開く。
押し込まれるようにして車に乗り込むと、東金が運転手に行き先を告げた。
「え……えぇっ !?」
東金がニヤリと笑うのを合図にしたかのように、すうっとタクシーが動き出した。
* * * * *
── えーと……私はどうしてここにいるんだろう?
数時間前にも同じことを考えていたような気がするけれど。
ただし現在目の前にあるのは絵画ではなく、まな板と包丁、そしてさまざまな食材。
かなでは今、東金のマンションのキッチンに立っていた。
彼の言う『約束』とは、彼が体調を崩した時に作ったスープをもう一度作ること。
確かに病院でそう言われたけれど、承諾の返事はしていないのに──
思いながらも、かなでは自分から申し出てしまっていた。
『スープだけじゃなくて、普通にご飯作りましょうか?』、と。
その時彼が浮かべた嬉しそうな笑顔を思い出すと、やけに胸がドキドキしてきた。
かなでにとって料理をすることは日常生活の一部だし、単に間もなく夕飯時だからと思って申し出たことではあるが、もしかするととんでもないことを口走ってしまったのではないかと思い始めた。
さらに心拍数は上がっていく。
かなでは握っていた包丁をそっと起き、胸元を押さえて深呼吸してなんとか気持ちを落ち着かせようと努力した。
何気なく後ろを振り返ってみた。
広いリビングのソファに座り、こちらを眺めている東金と目が合った。
ばっと反射的に身体を戻し、シンクの縁をぎゅっと掴む。
「うぅ……どうしよう……」
意識すると余計に背中に視線を感じてしまうのは何故だろう。
タクシーがマンションに近づくと、行き先をマンション近くのスーパーに変更した東金。
先日かなでも買い物をしたスーパーだ。
物珍しそうな顔で店内までついてきた彼が一言、『作るのは二人分だ。必要な物を好きなだけ買え』。
きっと隣の部屋に住む支社長を招待するのだろう、と思ったのは大きな間違いだった。
今すぐにでも逃げ帰りたいというのに、これから社長と夕食を共にしなければならない。
── 味付けを失敗しませんように…
かなでは祈るような思いで料理の続きを再開した。
* * * * *
ざぁ、と勢いよく流れる水が、皿についた泡を綺麗に洗い流していく。
かなでは料理をするのも好きだが、後片付けも嫌いではなかった。
さっきよりは幾分落ち着いた気分で食器をすすいでいった。
ふふ、と笑みが浮かんでくる。
緊張の中で始まった夕食。
メニューはハーブを効かせたチキンのグリル・トマトソース添え、粉チーズをたっぷりかけたシーザーサラダ。
そして例の野菜スープ。
いただきます、と食べ始めた直後は緊張の余り、口に入れた物をなかなか飲み込むことができなかったかなで。
だが、料理を一口食べるごとに東金が『……美味い』としみじみ呟くものだから、徐々に緊張よりも嬉しさのほうが大きくなっていったのである。
向かい合って料理を食べている間、ほとんど会話らしい会話はしなかったけれど、食べ終わる頃には『作ってよかった』と思えるくらいには落ち着いていた。
ただ、食事中、彼の反応を窺おうと視線を向けると必ず目が合ってしまうのにはドキドキしてしまって困ったけれど。
明日ハウスキーパーが来るから食器はそのまま置いておけ、と言われたが、そういうわけにもいかない。
使ったものはきちんと片付けて帰らねば。
洗い終えた二人分の食器、あとは綺麗に拭いて食器棚にしまえば終わりだ。
「── 小日向」
作業に集中していたかなでの耳に、ごく近いところから声が届いた。
次の皿を取ろうと伸ばした手を止め、振り返る。
いつの間にか、リビングで寛いでいるはずの部屋の主がすぐ傍に立っていた。
──── え?
すっと伸びてきた手が、そっと後頭部に添えられた。
ぐんと近づいてきた端正な顔。
目の前がふっと暗くなって、唇に柔らかくて温かい感触。
ただ重ねるだけの、とても優しいキスだ、と思ったその瞬間──
── な、な、な、なんで社長が………私に──
我に返ったかなでの心臓は早鐘のように打ち始めた。
ドクドクと鼓膜を叩く音のほかは何も聞こえない。
ふいに消えた唇の温もり。
間近から覗き込んでくる彼の瞳は真摯な色を湛えていた。
「── 俺のものになれ、小日向」
持っていた布巾が手を離れ、ふわりと足元に落ちた。
【プチあとがき】
毎回『間が空いてすみません』と謝っているこの状況を打破したい(泣)
いろいろツッコミどころの多い回ですな。
君に美的センスをどうこう言われたらおしまいだわ、とか。
ちょっと順番違ってませんか東金さん、とか。
まあちょっとでも萌えて悶えていただければ本望です(笑)
【2011/03/28 up】