■拍手お礼連載パラレル劇場『社長と秘書』【13.衝撃の朝】
思いの外気持ちよく意識が浮上した。
冷たい混沌の渦の中に引きずり込まれていくかのような嫌な気分は嘘のように消えている。
落ちる寸前、咄嗟に掴んだ温かい何かに救われたような気がした。
気がしただけでなく、実際に手の中が温かい。
僅かに指を動かしてみると、どうやら細くて柔らかいものを掴んでいるらしい。
接着剤で貼りつけたかのように重いまぶたを引き剥がし、薄目を開けて少し持ち上げた自分の手を見る。
「…………っ !?」
その手に掴んでいたのは人の『生首』ならぬ『生腕』。
思いがけないホラーな状況に驚いて、掴んでいた物体を思わず放り投げた。
だが、薄い布団をかけた腹のあたりにボスッと力なく落ちたのは決して『生腕』などではなく、ちゃんと胴体につながっていた。
「………地味子…?」
そこにはベッド脇にぺたりと座り、ベッドに突っ伏して眠っている小日向かなでの姿があったのである。
今は顔は見えていないけれど、髪型からして間違いないだろう。
「……おい、地味子。
お前、ここで何してるんだ?」
まだ今一つ働きの悪い頭が捻り出した言葉が少々掠れた声になって出てきた。
だが肝心の彼女はピクリとも動かない。
「おい」
少しだけ苛立って、無遠慮に彼女の肩を揺すった。
「…………ん……」
小さく唸って顔の向きを変えたかなで。
その表情はお世辞にも安らかな眠りとは言えないものだった。
眉根を寄せ、僅かに開いた可愛らしい唇から聞こえる呼吸は少し荒い。
眠っていた、というよりも、倒れていた、と表現した方が正しいのかもしれない。
手を伸ばして触れてみた彼女の額は、明らかに熱かった。
東金は慌ててベッドを下りた。
彼女の両肩を掴んで身体を引っ張り起こしてやる。
力が入っていない彼女の身体はゆらりと揺れて東金の方へと倒れてきた。
「ん……きょうや……」
その瞬間、東金は不機嫌そうに口をへの字に曲げた。
『きょうや』といえば以前かなでを訪ねて会社にやってきた少年の名だ。
彼女とどういう関係なのかは知らないが、熱に浮かされながら名を呼ぶ程度には親しいらしい。
これが単に寝ぼけていて甘えるように名を呼んだ、というなら許せないが。
── 許せない?
ふと自問して考え込む。
どうして許せないのだろう?
さらに自問が重なった。
うう、と唸って彼女の眉間の皺が深くなった。
このままにしておくのはまずい、と東金はとりあえずかなでをベッドに寝かせておくことにした。
抱え上げてベッドの上にそっと下ろし、布団を被せてやる。
枕元に折りたたんだタオルが転がっているのが目に入った。
ああそうか、熱があるなら頭を冷やしてやればいいのか、と気付いてタオルを湿らせに洗面所へ向かう。
絞った冷たいタオルを彼女の額に乗せた。
依然苦しげな呼吸をしているかなでを見下ろしながら、東金は腕を組んで再び考え込んだ。
一体どうしてこんな状況に陥っているのか。
昨日は横浜に運ばせた自分の船で海に出た。
親友が放った一言が心に引っ掛かり、もやもやとした得体の知れないものが襲ってくる。
それを海風で吹き飛ばそうと思ったのだ。
途中から降り出した雨にも構わず波間を疾走した。
冷たい雨も頭を冷やすのにちょうどいいと思えた。
だが船をマリーナへ戻す頃には、心のもやもやが吹き飛ぶどころか頭までがもやもやしていた。
そのあたりからのはっきりした記憶はない。
自分の部屋で目覚めたということは、一応ちゃんと帰宅したようだが。
思い出せないことをいくら考えても埒が明かないので考えるのをやめ、汗でべたべたする身体を洗い流しにバスルームへ向かった。
シャワーを浴びてすっきりした東金は濡れ髪をすっぽり被ったタオルでがしがしと拭きながら、乾いた喉を潤そうと冷蔵庫を開けてみて驚いた。
ドリンク類しか入っていないはずのそこには、やけに生活感があったのだ。
2つ分の空きのある卵のパックや、梅干しの入ったプラスチック容器。
そして何よりドンと場所を取っているのが鍋。
取り出して蓋を開けてみると、スープらしきものが入っていた。
自分が入れた覚えのないものが入っているというのは不気味ではあるが、彼女がこの部屋にいるという事実からして口に入れても危険はないだろう。
そう判断して、鍋をIHヒーターの上に置き、スイッチを入れた。
ふわふわと湯気が立ち始め、いい匂いが漂ってくる。
匂いに釣られて腹の虫がくぅと悲鳴を上げた。
食器棚から取り出したスープカップの中に鍋を傾けスープを注ぐ。
キッチンに立ったまま、一口啜ってみた。
「──── 美味い」
シンプルで素朴な野菜スープだが、どこか懐かしく感じる優しい味だった。
ダイニングテーブルに腰を落ち着け、スープを味わう。
空っぽの胃を優しく包んでくれるような温かさに満足しながら、テーブルの上に置かれている腕時計を手に取った。
時間は7時を過ぎたばかり。
ゆっくり支度しても十分間に合う時間だ。
社長自ら遅刻なんてもっての外。
安堵しつつ目に入ったのは、文字盤に小さく表示された今日の日付。
「なにっ !?」
海に出た休日はおとといのことで、昨日丸一日の記憶がすっぽりと抜け落ちていたのだ。
* * * * *
「── それで、今、小日向ちゃんは千秋の部屋で寝とる、いうことなんやな?」
「ああ、それ以上でも以下でもねえ」
必死の弁解が通じて安堵したのか意味不明な自慢をひけらかすように胸を張る東金に、土岐は吹き出しそうになるのを懸命に堪えていた。
結局何故彼女が東金の部屋で一晩過ごすことになったのかまでははっきりしなかったが、今はとりあえず追及を保留にしておくことにする。
「……せやけど、放っといてええ話でもないなぁ。
俺、今から帰るし、秘書の子誰か連れてって小日向ちゃんの面倒見させよか。
動けそうやったら、家に送ってくし」
と土岐は東金に向けて手を出した。
「ん? なんだ、その手は?」
「千秋の部屋の鍵。
管理用に預かってた合い鍵、小日向ちゃんに貸してしもた」
「なんであいつに鍵を貸す必要がある?」
訝しげに眉をひそめる東金に、土岐は溜息を吐いた。
「あのなぁ……俺は仕事があるから部屋におられへん。
そうなるとあの子に薬取ってきてもらったり、食べるもん買ってきてもらったりすることになる。
鍵なかったら部屋に戻ってこれんやろ」
東金は不本意そうな渋面を作って、スーツのポケットからごそごそとキーケースを取り出した。
お坊ちゃん育ちの彼は世話されることばかりで、自分が誰かの世話をすることなどほぼ皆無なのだから思い当たらないのもしかたのないことではあるが。
その時、カタン、と廊下から小さな物音が聞こえた。
二人同時に振り返る。
「─── あの……遅刻して……すみません……でした」
息も切れ切れにそう言ったのは、戸口にしがみつくようにして身体を支えている小日向かなでだった。
【プチあとがき】
疑惑の真相・第一弾(笑)
【2011/02/18 up/2011/02/22 拍手お礼より移動】