■拍手お礼連載パラレル劇場『社長と秘書』【7.理由】 東金

「あ、小日向さん、ちょうどいいところに!」
 給湯室へ行こうと通りかかった秘書課から飛び出して来たのは、『有能な美人秘書』を絵に描いたような秘書課長。 さっき挨拶した時には顔が見えなかったから、その後で出社したのだろうか。
「あ、お、おはようございますっ」
 がばり、と下げた頭を上げた時、目の前に1枚の紙が見えた。
「これ、本社の芹沢くんからあなたに」
「はぁ……」
 本社に知り合いはいないはずだが── 首を傾げながら受け取ったそれはプリントアウトしたメールだった。
「あの、これは……?」
「昨日の時点で決まっている社長のスケジュールと……まあ、取扱説明書みたいなものね」
「へ?」
 見れば日付と時間と場所、会う相手が一覧になっている。 それから丁寧な『紅茶の淹れ方』の手順が書かれていて── 知識はあったからよかったものの、できることなら昨日のうちにこのメールを受け取っておきたかったと思っても既に時遅し。
 それから読み進めていくうち出てきた一文に、かなでは慌てて口元を押さえた。
「ぷっ……『納豆は絶対に与えないこと』って」
「ああ、そうなのよ。 社長の納豆嫌いは社内じゃ結構有名な話なんだけど」
「へぇ……納豆おいしいのに……」
「あーダメダメ、納豆が出てくると暴れる可能性があるから」
「あ、暴れるって……」
「とにかく、秘書やってると一緒に食事する機会もあると思うから気をつけてね」
 既に昨日食事に連れていかれたわけだが── 行った先は高級料亭。 さすがに納豆なんて出てこないだろうし、そもそも彼らが納豆を出すような店で食事をする光景は想像すらできない。
 ── でも社長の食べ物の好き嫌いなんて、私には関係ないよね……?
 メールが印刷されたA4の紙をシュッと二つ折りにして顔を上げる。
「それじゃこれから秘書の仕事についてレクチャーしましょうか。 社長はどうせここ数日出かける予定も入ってないし」
「えっ、で、でも」
「あら、何か仕事を言いつけられてる?」
「いえ、あの、お茶を……」
 すると秘書課長は悪戯を見つかった子供のようにペロリと舌を出し、
「ごめんごめん!  遅いっ!って怒られたら、私に捕まってたって言って」
「す、すみませんっ!  お茶を出したらすぐ来ますので、よろしくお願いしますっ!」
 意外にお茶目な秘書課長に頑張ってねと背中を押され、かなではそそくさと給湯室へ急いだ。

*  *  *  *  *

「── で、機嫌は直ったんか?」
 唐突に問われ、東金は一口紅茶を飲んで渋い顔をした。 もちろん飲んだ紅茶が渋かったわけではない。 横浜滞在中の臨時秘書に据えた女性社員の淹れた紅茶は香りといい味といい、文句のつけどころがなかった。
「……俺の機嫌がいつ悪かった?」
「昨日からずっと、やな」
 渋面のまま視線を向ければ、土岐はしれっとした顔でマグカップからコーヒーを一口。 自分の秘書が支社長室で出してくれたものを手弁当よろしく自ら運んできた彼は、今は空席になっている臨時社長秘書のデスクに腰を下ろしている。
「そろそろ理由教えてもらおか?」
「……理由?」
「わかってるやろ?  優秀な秘書を留守番させて、使えるかわからん臨時秘書を指名した理由や」
 ずばり聞かれて東金が息を飲んで黙り込む。 渋かった表情がますます渋みを増した。
 小日向かなでを秘書に抜擢したのは、東金自身の指示だったのである。

 3ヶ月ほど前、C&Hコーポレーションの今年度の入社式が本社近くのホールを借りて行われた。
 社員を集めての行事には付き物の『社長訓示』をするため、取引先との話し合いの場からホールへと直接駆けつけた東金は、車から降りた時にある光景を目撃したのである。
「── どうかされましたか?」
 挙動不審にきょろきょろしていた老婆に声をかけたのはリクルートスーツ姿の女。 まだ少女と言っても差し支えない容貌だ。
「ここへ行きたいんやけど、道がようわからんでなぁ」
 差し出されたメモを覗き込み、ひくりとその童顔を引きつらせる。
「あー、えーと、私、横浜から来たので、この辺りはあまり知らなくて……」
 メモを見ながらきょろきょろしていれば行き先を探していることは明らかだと言うのに、地理も知らないくせにどうして声をかけるのだろうか。
 ありえない行動に苦笑しながら眺めていると、女は「お借りします」と老婆からメモを取り上げ、道行く人を呼び止めて道を尋ね始めた。
「── ありがとうございましたっ!」
 呼び止めた何人目かの相手に地図を書き添えてもらったメモを受け取り、女はこれでもかというほど深く頭を下げる。 親切な通行人をしばらく見送った後、女は老婆へとメモを差し出した。
「はい、おばあちゃん。 これで大丈夫だと思います。 本当はついていってあげたいんだけど……私、これから会社の入社式だから……ごめんなさい」
 老婆もさすがにそこまでしてもらおうとは思っていなかったらしく、ありがとうありがとうと何度も礼を言いながら去っていった。
「ふぅ……あっ、いけない、入社式っ!」
 はたと我に返った女は、東金がこれから向かおうとしていたホールへと飛び込んでいった。
 このホールは今日、自分の会社が借り切っているのだから、すなわち──
 東金は入社式の後、社に戻って人事課から新入社員の履歴書を取り寄せたのだった。

 口に出せば陳腐に聞こえる話かもしれないが、東金の心の琴線に触れるものがあったのは間違いなかった。 善行というものはすべきだと解っていても、なかなか実行に移せるものではない。 信頼に足る社員になる、と直感したから秘書に指名したのである。
 ついさっきもそうだ。
 ようやく紅茶を淹れて戻ってきた彼女に、遅かったな、と一言。 目隠し程度の仕切りしかないオープンなフロアでは廊下での会話は筒抜けだから、わざとそう言ってやった。 すると彼女は秘書課長の名を出すことなく、申し訳ありませんでした、と頭を下げただけだった。
 いい社員が入社したと喜ぶことがあっても、何故機嫌が悪いと言われなければならん?
「あーそや、小日向ちゃんに彼氏おったんがショックやったんやろ?  まああれだけ可愛らしかったら、男の一人や二人おってもおかしないしなぁ」
「……んなアホな」
「そうか?  千秋の機嫌が悪うなったん、あの元気な坊ちゃんが現れてからやで?」
 うっ、と何かを飲み込んだ。
 ── そ、そうなのか?
 頭の中で自問がぐるぐる渦巻いていく。 答えを見つけようともがいていると、
「『社内恋愛禁止』の社則は千秋が決めたんやで。 自分で作った規則を自分で破らんようにしいや」
 ── 当たり前だろ。
 答えようとした言葉は口から出てくるのを拒んでしまっていた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 きっかけってそんなもん。
 ……ってことにしといてください(汗)

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