■SEASONS【IV.Second Summer(2)】
7月初旬の日曜日、東金はかなでを誘って楽器店に来ていた。
来月に迫った音楽祭のマスタークラス課題曲の楽譜を調達するためである。
東金は当然のごとく、土岐と共に参加オーディションを通過していた。
久し振りの休日デートと呼べる時間。
先々週はまったりとしたインドアな週末だったし、先週は『おじいちゃんの顔を見てきます』と実家に帰ってしまったかなで。
彼女の家族とは既に知らない仲でもないし車で連れて行ってやりたかったのだが、ちょうど音楽祭のオーディションと重なってしまった。
彼女との長距離ドライブと優先して音楽祭参加をフイにするようなことになれば、それこそ本末転倒である。
梅雨の長雨で湿気が肌に纏わりつく屋外と違い、冷房の効いた店内の空気はさらりと乾いている。
扱っている品物ゆえに普段から買い物客が殺到するような店でもなく、鬱陶しい雨とも相まって二人の他には眼鏡をかけた白髪頭の老店員とピアノを見ている家族連れが一組いるだけだ。
壁際の書棚にぎっしりと並んだ楽譜のタイトルを目で追いながら東金が思い出したように口を開く。
「── かなで、音楽祭には1日早く出発するからな」
「え…?
どうしてですか?」
きょとんとした顔でこくんと首を傾げるかなで。
東金の口から知らず溜息が漏れた。
「せっかく遠出するんだ、1日くらい派手に遊ばねえとな」
長距離ドライブを諦めた先週、オーディションの待ち時間にひらめいた案である。
音楽祭の会場は避暑地として有名な高原地帯で、周囲にいくつか観光地もある。
「1日分荷物が増えたところで、車で行くなら気にならねえしな。
もちろん温泉もリサーチ済み──」
「あの」
せっかく気分が乗ってきたところで遮られ、東金は片眉をぴくりと上げてかなでへ視線を向けた。
「……なんだ?」
「蓬生さんもそれでいいって言ってるんですか?」
「……なんでそこで蓬生が出てくる?」
「だって……一緒に行くんじゃないんですか?」
「お前……いつまで俺と蓬生をセットにしとくつもりなんだ?
俺と二人きりは不満か?
それとも、あいつを気にかける理由が他にあるとでも?」
彼女の心変わりを疑っているわけではない。
だが東金の胸にいつからか刺さってしまった小さな棘が、彼の口に反応を試すような皮肉めいた言葉を紡がせる。
同じ台詞でも揶揄を含ませて言えればよかったのだろうが、ついつい詰問口調になってしまっていた。
己の狭量さを感じ、らしくない自己嫌悪に少々ヘコむ。
「……そういうんじゃなくて──
なんだか申し訳ないなって思って」
キツい物言いに拗ねたのか、かなでは楽譜の背表紙に目を向けたまま唇を僅かに尖らせた。
「蓬生にか?
……何を今さら」
「だって、私が蓬生さんから千秋さんを取っちゃったから……」
ますます拗ねたように、かなではふいっと顔を逸らす。
そんな彼女の肩を東金は思わず引き寄せた。
しっかりと抱き締め、柑橘系の爽やかな香りのするふわふわの髪に頬を擦り寄せる。
「可愛いこと言ってくれるじゃねえか──
俺がお前を手に入れたんだぜ?
お前が蓬生に遠慮する必要がどこにある」
「うー」
まだ釈然としないのか、抱きすくめられていて顔の見えないかなでが籠もった声で唸るのとほぼ同時、後ろの方からゴフゴフとわざとらしい咳。
首だけでちらりと振り返ると、老店員がずり落ちた眼鏡を指先でくいっと上げて、意味ありげにニッコリと笑った。
そんなことをされたといって、すっかり機嫌を直した東金がせっかく抱き締めた可愛い存在をすぐに放したりなんてしてやるつもりになるはずもないが。
「……あの」
ぐいっと首をのけぞらせ、見上げてくるかなで。
「今度は何だ?」
「音楽祭へは先生の引率で電車で行くことになってるみたいなんですけど」
「……そういうことは早く言え」
力なく項垂れた東金の額がかなでの肩にぽすんと着地した時、再びゴフンと老店員が咳払いした。
* * * * *
ゴトンゴトン、ゴトンゴトン。
レールの上を転がる車輪が刻むリズムと心地よい揺れに眠気を誘われる。
避暑地に向かう列車の中は浮足立ったような楽しい雰囲気に満ちていた。
車両のほとんどを占めるのは、音楽祭に向かう大学生たちなのだ。
東金と土岐が座る席の後ろでは女子高生が3人、向かい合った4人掛けの座席でお喋りに花を咲かせている。
もちろんその中の一人はかなで。
通路を挟んだ座席にいる男子3人と共に、学校からの参加ということで制服姿である。
と、しゅっ、と車両の扉が音を立てて開いた。
「あーっ、やっぱなべっちだー!」
いきなり大声を出した青年が、男子高校生と一緒に座っている初老の男性の元へと一目散に進んでいく。
「おー、火原じゃないか。観光か?」
「違うよ!
俺も音楽祭!」
高校生たちが初老の男性──
星奏学院教師・渡辺へと質問を含ませた視線を向けている。
「だってみんな集まるんだし、おれだけ仲間外れって嫌だし!」
「みんな、って……あの時のやつらが全員来るわけでもなかろうに」
「それでも!
海外組が日本で集まるのってなかなかないんだから」
「つっても、お前んとこ、中学だろ?」
「だから吉羅さんに頼み込んでさー。
3人だけ枠もらったんだ。
一応見学扱いなんだけどさ、それでもきっといい経験になるよね!」
「あ、あの、火原先生……」
親しげな会話を繰り広げる引率の教師と謎の男性を怪訝な目で見比べる高校生の中、ひとりおずおずと声をかけたのはかなでだった。
席から立ち上がり、小さくお辞儀する。
「あっ!
えーっと、きみは……そうだ、小日向ちゃん!」
「はい。
あの時はお世話になりました」
「いいっていいって!
あれはおれだけじゃなくって衛藤くんもいたからさー」
火原先生、と呼ばれた青年は、あはは、と豪快に笑いながらガリガリと頭を掻く。
「── おい、かなで。
知り合いか?」
座席に片膝を乗せ、背凭れに肘をついた東金が胡乱げな口調でかなでに訊いた。
「あ、はい。
星奏のOBの方で、去年のコンクールの頃、ご飯をご馳走になったことがあって」
「うん、あの時は楽しかったよね!
大勢で食べるご飯ってやっぱサイコーだよ!」
大勢、と聞いて、東金が火原に向けていた視線から険しさが薄らいだ。
はふ、と諦めたような溜息が漏れる。
「あ、星奏のみんなと至誠館のみんなで連れていってもらったんです」
「……なんだ、ユキも一緒だったのか。だが妙だな……俺の耳には入ってないぜ?」
「そりゃあそうですよ。
だってお食事したの、千秋さんと出会う前の日ですもん」
にこりと笑ってかなでが答える。
なんとなく面白くなくて、東金の口元が不機嫌に歪んだ。
隣の席で土岐がぷっと小さく吹き出すのが聞こえ、それがまた東金にとっては面白くなかった。
「ねえねえ、今の『ユキ』って、もしかして八木沢くんのこと?」
火原がわくわくした顔で尋ねてきた。
質問が向けられているのはかなでではなく、東金の方である。
「あ?
……ああ、そうだが」
「じゃあ、もしかしてきみが東金千秋くん !?」
「……だったらどうした?」
「わあっ、やっぱり!
おれさ、八木沢くんの中学生の頃の部活の顧問だったんだ!
きみのこと、八木沢くんから聞いたことあってさ!」
背凭れの上から東金の手を強引に引き取り、よろしくね!と一方的に握手する火原はひとりで盛り上がっているらしい。
再び、しゅっ、と車両の扉が開く。
顔を出したのは白い開襟シャツ姿のまだ幼さの残る少年。
「火原せんせー!
先生の荷物の中で携帯鳴ってまーす!」
「えっ、マジっ !?
すぐ戻るよっ!
教えに来てくれてありがと!」
少年を追って通路を駆け出した火原が足を止め、くるりと振り返る。
「あっ、向こうに着いたらおれの仲間たちに紹介するね!
楽しみにしてて!」
子供みたいに天真爛漫な笑顔を振りまきながらブンブンと手を振って、火原は隣の車両へと駆け込んでいった。
「……なんだ、ありゃ」
「楽しい人ですよね」
すっかり毒気を抜かれて疲れ切った東金に、かなでが席に戻りながらくすくすと笑って答える。
「楽しい、って次元じゃねえだろ」
座席に乗せていた膝を下ろして、よろよろと崩れるように座り込んだ。
「── まったく……よくあれで教師になれたもんだよなぁ」
しみじみと呟く渡辺の声に、周囲の者がほぼ同時に同意の頷きを見せたのだった。
【プチあとがき】
さて、今回は火原登場。
相変わらずうちの火原さんはKY気味ですね(笑)
彼も言ってますが、次回『仲間たち』が登場します。ふふっ。
あ、CDなんかではかなでちゃんは『火原さん』って呼んでましたけど、
あえて『火原先生』と呼ばせました。
八木沢さんがそう呼んでただろうから、みんな先生って呼ぶんじゃないかと。
『では私もそう呼ばせていただきましょう』って某荒法師みたいな感じで(笑)
【2010/10/01 up】