■SEASONS【IV.Second Summer(1)】 東金

 ぐずぐずとべそをかいているような暗い梅雨空。 降り続く雨と夏が間近となった気温のせいで纏わりつくような湿気と滲む汗に不快指数は上がりっ放しだ。 恐らく全国の学生たちにとって、着実に近付いてくる『夏休み』という言葉が鬱陶しい気分を一時でも和らげてくれる魔法の呪文となっていることだろう。

「── 響也先輩、先生をお呼びしてきました」
 狭苦しいオーケストラ部の部室に水嶋悠人の凛とした声が響く。 剣道で精神の鍛錬をしている彼は『心頭滅却すれば火もまた涼し』なのか、きっちりと規定通りに制服を着ている。
「お、サンキュ。 んじゃ、さっそく始めっか」
 着崩したシャツの胸元を引っ張り、ぱたぱたと風を送っていたオケ部部長・如月響也がテーブルに置いてあった紙の束と自分の楽器を手に立ち上がる。
 これから音楽室では、夏の全国学生音楽コンクール出場メンバー選出オーディションが行われるのである。 前年度優勝を果たした星奏学院は現在部室の棚に飾られている優勝トロフィーを死守しなければならないという責務があった。
 去年はあらかじめ組まれたアンサンブルを当時の部長・如月 律が審査したのだが、今年はまず個人の技量によりメンバーを選出することになった。 審査は公平を期すため、数人の教師に頼んである。 そして選ばれた者でアンサンブルを組み、地方大会までの約1ヶ月で仕上げていく予定になっている。
「── おい、かなで。 始めるっつったろ」
 部室を出ようとした響也が振り返り、ぼんやりと窓の外を見つめるかなでに声をかけた。
「え……あ、うん」
 ゆっくりと振り返る彼女の顔にはいつもの明るさは見られない。 響也は眉根を寄せ、
「お前って昔からぼーっとしてたけどさ、学内コンクール終わった辺りから特にボケてねぇか?  あっ、もしかして『燃え尽き症候群』ってヤツ?」
「え、そんなにボケてる……かな?」
「ああ、思いっきりボケてるぜ。 こないだも実技ん時にしょーもねえミスしてたろ」
「そ……そだね……うん、気を引き締めるよ」
「頼むぜ。 オーディションはやるけど、俺はお前と俺とハル、あとヴィオラ入れた弦カルでコンクールに出るつもりなんだからな」
 響也はかなでに向けてビシッと親指を立ててニッと笑い、部室を出ていった。
 かたん、と閉まった扉を見つめつつ、はふ、と溜息ひとつ、かなでは自分の頬を両手でぱちんと叩く。
「……うん、しっかりしなくちゃ」
 調弦を済ませてあるヴァイオリンをそっと取り上げて、部員たちが集まっている音楽室へ向かった。

「── んじゃ審査よろしくっ」
 階段状の音楽室の机の最前列に陣取った教師三人に、響也が部室から持ってきた紙を渡していく。 前もってクジで決めておいた演奏順に並べられた部員のリスト兼採点表である。
「っと、その前に、小日向と山崎」
 おもむろに立ち上がったオケ部顧問・渡辺に手招きされ、トランペットを持った男子生徒が机に近づいた。 かなでも少し遅れて後に続く。
「お前さんたちは審査除外な」
「はぁっ !?  なんでだよっ !?」
 噛みついたのは呼ばれた二人ではなく、響也だった。
「まあ落ち着けや。 3年の各クラス3名ずつ、計6名は夏の音楽祭に参加してもらうことになっててな。 今呼んだ二人は、そっちに選ばれたんだわ」
「音楽祭?  なんだよそれ」
「── 『P&S音楽祭』ですね。 うちの大学と東京の桃ヶ丘音大が毎年夏に共同開催する音楽祭です。 世界で活躍する演奏家によるマスタークラスが受けられるので、参加オーディションの競争率は高いらしいですよ。 対象は大学生ですが、主催者特権でうちの3年生が数人、特別枠で毎年参加してるんです」
 響也が訝しげに眉を寄せると、教師の代わりに悠人が解説を入れた。
「去年はそんな話出なかったろ」
「たまたまオケ部からの参加者がいなかったからです。 それに響也先輩たちが転校してきたのは、参加者が決まった後でしたから」
 ちっ、と舌打ちして響也は黙り込んだ。
「……僕だって、今年も小日向先輩と一緒にコンクールのステージに上がりたかった」
 他の部員たちには聞こえない小さな声で悠人が呟く。 彼もまた響也と同じく、かなでを含めたアンサンブルでコンクールに出たいと思っていたのだ。
「── けれど音楽祭への参加は演奏の腕を磨く貴重な経験になるはずです……気持ちよく送り出してあげませんか?」
「……しょーがねぇな」
 話がまとまったのを見計らったかのように、渡辺が大きな音でパンッと手を鳴らした。
「んじゃ、審査始めっぞー。 二人には2、3日中に参加説明会の招集がかかるからそのつもりでな」
 オーディション前の最後の足掻き練習をすべく音楽室を出ていく部員たち。 かなでもその後に続く。
「── やった!  実は俺、コンクールより音楽祭に出たかったんだよなー!」
 成り行きで隣を歩いていた山崎が拳を握り、興奮気味に呟いていた。
「……そんなにすごいんだ、音楽祭って」
「そりゃそうさ。 プロから直接指導を受ける機会なんて、そうそう巡ってくるもんじゃねえだろ?」
「まあ……そうだよね」
「小日向ぁ……お前、せっかく選ばれたのに、んなこと言ってるとバチ当たるぞ?」
 審査を受ける緊張に身を固くする部員たちとは対照的にテンションの高い山崎が、練習練習!と叫びながら駆けていくのを見送ったかなでは、くるりと向きを変えて音楽室に戻った。 ほんの少し扉を開け、最初の演奏者の演奏が終わるのをしばし待つ。 曲が終わると、するりと中に入って部室へ。 置いておいたケースとカバンを取ると、次の演奏者を待つ教師たちに『今日は帰ります』と告げて再び音楽室を出た。

*  *  *  *  *

「── 千秋、ほれ」
 教室で講義の開始を待っていた東金の目の前に1枚の紙がひらりと投げ込まれた。
「……なんだ?」
「最近皆が噂しとったやろ。 今日から申し込み開始やから、一緒にもろてきてやったんよ。 あ、もしかしてもう入手済みやった?」
 東金は手元の紙を取り上げて、文字に目を凝らす。
「……『P&S音楽祭』……?」
「ああ、参加オーディションの申し込み用紙や。 誰が付けたんか知らんけど、千秋レベルのネーミングセンスやな。 ま、桃ヶ丘と星奏を『Peach & Star』に翻訳した分、ちょっとレベル高いかもしれんけど── って、小日向ちゃんから聞いてないん?」
 いつまで経っても反応がないことを訝しんだのか、土岐が小首を傾げつつ顔を覗き込んできた。 だが東金はそれにすら気づかず、手元の紙を睨みつけたまま。
「……昨日、如月くん、弟くんの方やけどな、たまたま本屋で出会うたんやけど、高校からの特別枠に小日向ちゃんが入っとるて言うてたで」
 ダンッ、と激しい音を立てて東金が申込用紙を机に叩きつけた。 ギッと椅子を軋ませ深く背を凭れて腕を組み、相変わらず不機嫌丸出しの表情で申し込み用紙を睨んでいる。
 彼の不機嫌の原因は過去の経験からして十中八九彼女絡みだろう。 犬も食わない喧嘩を食ってたまるか、と言わんばかりに土岐は呆れたような溜息をひとつ漏らすと、それ以上何も言わずに東金の隣の席に腰を落ち着け授業の準備を始めた。

*  *  *  *  *

 夏が近いとはいえ、梅雨時期の午後6時といえば物悲しいほどに薄暗い。
 そぼ降る雨の中、星奏学院の正門を抜けた東金の目の前に淡いピンクの傘の花が咲いていた。
 中央に誇らしげに佇む妖精像をひたすらに見上げているかなで。 後ろに大きく傘を傾けているせいで雨に打たれた横顔が街灯の明かりで光って見えた。 雨対策にビニールを被せたヴァイオリンケースはいいとして、彼女の身体の前面は顔と同じく濡れてしまっているだろう。
「── 馬鹿、待つなら屋根のあるところにしろよ」
 足早に近づいて、彼女の顔に落ちる水滴を差しかけた自分の傘で遮ってやる。
 『迎えに行く。18時、正門前』── 腹立ち紛れに送った簡潔なメール。 『待ってます』と返信してきた彼女は馬鹿正直に正門前のど真ん中で迎えを待っていたらしい。
「あ……」
 かなではほんの一瞬うろたえたように視線を泳がせてから、寂しげな笑みを浮かべた。
「えと……リリちゃんにもう一度会いたいな、って思って」
「リリ?  ……ああ、学内コンクールの時に見えたっていうヤツか」
「ずるいですよねー、コンクール期間中にしか見えないなんて。 いつも姿を現してくれればいいのに」
 くすくすと笑いながら、かなでは傾けた顔と肩で傘の柄を挟んで固定して、ポケットから出したハンカチで雨に濡れた顔を拭う。
「じゃあ帰りましょうか。 あ、今日は迎えに来てもらって助かりました。 お醤油とみりんを買わなきゃいけなくて、雨降るし、重いし、どうしようかと思ってましたから」
 東金は歩き出そうとしたかなでの肩を咄嗟に掴んで引き止めた。
「……それよりお前、俺に何か言うことがあるんじゃないのか?」
「はい?」
「……音楽祭」
「……あー……もうすぐ参加説明会があるらしいんですけど、その音楽祭ってそんなにすごいんですか?」
 東金は思わず全身の力が抜けそうになった。 彼女が音楽祭の話を出さなかったのは単に音楽祭の重要性を知らなかっただけで、彼女にとっては取るに足らないことだったのだろう。 問い詰めるようなことをしなくても、放っておけば説明会とやらがあった日にでも報告を受けることになったのかもしれない。
「お前な……あの音楽祭は世界的な演奏家に指導してもらえるっていうんで、みんな必死になって参加オーディションを受けるんだぜ?  特別枠とはいえ学校に選ばれて送り込まれるんだ、将来を見込まれてるってことだろうが」
「そ、そうなんですか?」
 まったく、ぽやんとした彼女らしいというか。
 苦笑を浮かべつつ、東金は彼女のこめかみあたりに残った水滴をそっと手のひらで拭ってやった。
「そういう大事なことはすぐに報告しろよ」
「え……?」
「お前が参加するなら、俺が参加しないわけにはいかねえだろうが」
「あ……はい」
 俯いた彼女の顔はピンク色の傘の下に隠れてしまったけれど。
「さて、買い物の前にお前の着替えだな」
「だ、大丈夫です」
「馬鹿、風邪引いても知らないぜ」
「あぅ……」
 先に正門に向かい始めた東金の後ろをかなでが小走りで追いかけてくる。 ぱしゃぱしゃと地面に溜まった水を踏み散らす音が降り続く雨音に混じった。
 ── こんないつもと変わらないやり取り。
 けれど妖精像を見上げていたかなでの横顔が、小さな棘のように東金の心の中に突き刺さっていた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 シリアスっ!
 謎の言動! 彼女に一体何が起こったのか !?
 予告なくいきなり夏ですが、春(6)の翌週辺りの話です。
 P&S音楽祭については、土日長編「Ecdysis」参照。
 東金さんのネーミングセンスについては公式ガイドブック(下)参照。
 これが書きたくてSEASONSを書き始めたと言っても過言ではない!
 まあ、まだまだイントロダクションですが。
 そのうち懐かしい人たちが出てきます。

【2010/09/22 up】