■SEASONS【III.Spring(6)】 東金

※CERO C程度の描写とオリキャラあり。苦手な方はご注意を。


 理事長室の重厚な扉を目の前にして、かなでは胸元をぎゅっと押さえながら大きく深呼吸した。
 この後理事長室に行くように、と担任に告げられたのはついさっき。 HRが終わった時である。 職員室ならともかく、理事長に直接呼びつけられるようなことをした覚えはない。 もしかしたら昨日終了した学内コンクールのことかとも思ったけれど、同じ出場者であり同じクラスの響也に声はかからなかったから違うのだろう。
 かなでは不安を押し込めるようにもう一度深呼吸をしてから、扉をノックした。
「── はい」
「お、音楽科3年A組、小日向かなでですっ!」
「入りたまえ」
 恐る恐る扉を押し開け中へ入ると、窓際に置かれた大きな机からゆらりと男が立ち上がった。
 冷たくシャープな印象を持つ、この細身の男が星奏学院理事長・吉羅暁彦である。 校内で何度か見かけたことはあるが、面と向かって話をするような機会はこれまでなかった。 お世辞にも人好きのする相貌とも言えない上、感情の見えない冷たい視線を向けられて、かなでは思わず身を固くした。
「そこに掛けたまえ」
「は、はいっ」
 かなでは示されたソファの隅っこにちょこんと腰を下ろす。 向かいの1人用ソファに座った吉羅が、美しい所作で長い脚をゆったりと組んだ。
「── コンクールはご苦労だったね。 君にとってはいい迷惑だったろうが」
「い、いえっ!  いい勉強になりましたし、とても楽しかったです!  いろんな人にも出会えましたし、リリちゃんにも── あ」
 あの小さな存在のことは他言してはいけないんだった── やはりコンクールのことだったのか、と少し安堵した矢先の失言に、かなではバッと自分の口を手で塞ぐ。
「……『あれ』のことなら気にしなくていい。 私もかつてはコンクールに参加したこともあるし……一生ついて回る腐れ縁だ」
「え……?」
 小首を傾げたかなでに、吉羅は我に返ったように苦々しい渋面を作った。 『腐れ縁』という言葉に興味を持ったけれど、緊張に身を竦ませるかなでにそれを問い質す勇気などあるはずもない。 吉羅が小さな溜息を漏らすことで、その話はそこで打ち切りとなった。
「さて、小日向君。優勝を果たした君の目の前には二つの道がある」
「……ふたつの、道……ですか?」
「『音楽の道』と、『音楽以外の道』だ」
「は、はい……?」
 ── 彼は何を言いたいのだろう?  かなでの頭の中は徐々に混乱し始めていた。
 ヴァイオリンを弾くことは幼い頃から当たり前のことで、もっと上手くなりたくて音楽科のある星奏学院にわざわざ転校したし、高校を卒業したら大学でもっとヴァイオリンを学ぶつもりでいる。 すでに今『音楽の道』を歩んでいることにはならないのだろうか?
「端的に言えば、他の事を犠牲にしてヴァイオリンを続けるか、それともヴァイオリンを捨てるか、ということだ。 どちらに進んでも、君は大きな代償を払うことになる」
「え……」
 そういえば、前にリリから『プロになりたいのか』と問われたことがある。 吉羅が言いたいのが『プロヴァイオリニストの道』と『それ以外の道』ということならば── 生活の大半がヴァイオリンで占められているかなでにとって、ヴァイオリンを捨てるなんて想像すらできない。 そうなると消去法で残されたのは『プロヴァイオリニストの道』ということになる。
 ── ヴァイオリンを続けプロになるためには、何を捨てなければならないのだろう?
 蒼褪めた顔で必死に思考を巡らせるかなでの前に、すっと封筒が差し出された。

*  *  *  *  *

 週末、東金はかなでと共にみなとみらいホールに来ていた。 数日前、海外の名門オーケストラのコンサートチケットを2枚、かなでが入手してきたのである。
 一番いい席のチケットは彼女の懐事情からすれば相当高額なもの。 購入したとも思えず聞いてみれば、星奏学院の理事長がコンクール優勝の褒美としてくれたらしい。 良い音楽を聞いて更に腕を磨け、ということなのだろう。
 だが、東金には気に入らないことが二つあった。
 一つ目はヴァイオリン協奏曲のソリストの名── クライヴ・ゴールドバーグ。 有名なヴァイオリニストのひとりであり、落ち着いた艶のある音色と抒情性溢れる演奏で世界中にファンを持つ。 東金自身、彼の演奏は嫌いではない。
 気に入らないのは、彼が東金の父親と知己の仲であることだった。
 東金の父親は学生のための事業への協賛金を惜しまない。 コンクールの審査員を依頼される程度にはクラシックを知っていて、審査員を引き受ける程度には自分の耳を信じているらしい。 音楽界にも人脈を持つ父は、ゴールドバーグと初めて顔を合わせた日に名前の『金(Gold)』つながりで意気投合したと聞いている。
 ざわざわとした嫌な感じが胸中に渦巻くものの、チケットをよく調べても東金家が持つ企業の名はなく、コンクール終了とコンサート開催の時期がたまたま合致したからだろうと思うことにした。
 二つ目に気に入らないこと── かなでの様子がどことなくおかしいことである。 なんとなく上の空というか、普段と変わりなく見えても僅かに無理をしているような違和感があるのだ。
 それが決定的に表面化したのは、料理上手のかなでらしくなく砂糖を塩を間違えて、やたらしょっぱい肉じゃがが出来上がった時。 あれは彼女がチケットを貰ってきた日の夕食だった。
 数日経って違和感は少なくなってきたが、もしかすると違和感があるのが普通になり始めているのかもしれないことが気に入らなかった。
 隣の席でパンフレットをめくるかなでは、これから始まる演奏への期待にわくわくしているように見える。
 視線を感じたのか、彼女は小首を傾げながら振り返り、
「演奏、楽しみですね」
 愛らしい顔にふんわりと笑みを浮かべた。

 一流のオケと一流のソリストによる演奏は当然ながら素晴らしいもので、これまた当然の如く流れ続けるかなでの涙を東金は苦笑しつつ拭ってやることになった。

*  *  *  *  *

 ふっと意識が浮上した。 閉じたまぶたの向こうが少し眩しい。
 ゆるゆると目を開けると、カーテンの隙間から差し込む月明かりに青白く照らされたかなでの顔が間近に見えた。 大きな瞳が揺れる。
 仄かなはずの月明かりの眩しさに一度目を閉じ、再びゆっくりと開く。 ふふ、とかなでが微笑んだ。
「……どうしたんだ?」
「千秋さんの寝顔、見てました」
「はぁ?」
「起きてる時はキリッとしててカッコイイのに、寝てる時はちょっと幼く見えて……可愛いです」
 寝顔なんて初めて見たわけでもあるまいし、と思いつつも、最も無防備な状態をまじまじと見られていたというのはさすがに照れ臭い。
「……どうせ見つめるなら、俺が起きてる時にしろよ」
「えー、それは恥ずかしいですもん」
「今更それを言うか」
 腰をさらって抱き寄せようとすると、かなでは東金の胸元に手を突っ張って、言葉と同じくやんわりとした拒絶を示した。 東金はぴくりと片眉を上げ、諦めたような溜息を吐く。
「……さっさと寝ろ。 明日は早起きするって張り切ってたのはどこのどいつだ?」
 コンサートからの帰り道、珍しく『どこかに遊びに連れて行ってほしい』とせがんできた彼女。 叶えてやるのはやぶさかではないが、寮に外泊届を出して来た彼女とのゆったり過ごす贅沢な時間も捨てがたい── 内心での葛藤もあったが、可愛い彼女の喜ぶ顔を見るのを優先させることにした。 行き先はまだ決めていないが、明日の朝は平日に学校へ向かうくらいの時間には出かける予定にしている。
「ここの私ですけど……今日聞いた演奏がまだ耳に残ってて眠れないんです」
「生演奏は楽器が起こした空気の振動を、直接肌で感じるからな。 まあ、解からなくもないが」
 震えたのは空気だけではない。 特に感受性の強いかなでにとって、今日のコンサートはいまだに余韻が残るほど心を揺り動かされたのだろう。
「じゃあ私は寝顔観察の続きをしますね」
 にゅっと伸びてきたかなでの手が、東金の目を塞ごうとする。 すかさず手首を掴み、今度こそしっかりと抱き寄せた。
「させるか。 今度は俺がお前の寝顔を観察してやる」
 そう言って、空気を奪うように彼女の唇に深く口付ける。
 滑らかな背中に指先をすぃと滑らせると、かなでの身体がピクンと小さく震えた。
 その反応に気を良くした東金は、明日は自分の希望が叶いそうだ、とこっそりほくそ笑む。
 最初に目を開けた時に見えた彼女の瞳に思い詰めたような暗い影が差していたことは、この時の彼の頭の中には全く残っていなかった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 きゃーっ、大丈夫かしらっ !?
 最近どこまで書いていいのやらわかんなくなってまして。
 まあいいよね、このくらいなら。
 寝顔観察元ネタはついったのフォロワーさんのつぶやきより。
 ありがとう、ホントに使わせてもらっちゃったよ。
 前回の流れで柚木サマ登場を期待なさってた方、裏切ってすみません。
 ていうか、経営してるだろうが店には出てないと思うんだ、彼は。
 あ、クライヴさんはもちろん捏造ですよ。

【2010/09/17 up】