■SEASONS【III.Spring(5)】 東金

 6月19日、火曜日。
 講堂は超満員だった。 席が足りず通路にまで客が溢れている。 生徒だけではなく、近所に住む一般客も大勢押し掛けているからだろう。 学校行事でありながら、地域の人にも親しまれているらしい。 毎回出場者の中から後に名を馳せる逸材を輩出しているから、というのも理由のひとつ。 特に9年前のコンクールは当たり年で、出場者の約半数が現在音楽界で活躍している。
 そして今年の学内コンクールは今日が最終日。 間もなく最終順位が決定するのだ。

 東金は午後の講義が終わってから急いでやって来たというのにもうほとんど空席はなく、ようやく見つけたのは後ろから3列目、座れるだけマシと思うより他ない壁際の席だった。
「── なんや、えらい盛況やなぁ」
 客席を見回しながら感心しきりに呟く土岐の呆けたような顔を見て、東金は苦笑した。 4回目となる東金ですら少々驚いているのだ、初めて来た土岐の驚きは相当なものだろう。 以前頻繁にやっていたライブでの熱狂とはまた違う、緊迫と緊張がくすぶるように白熱しているという感じだ。
 前方の席から振り返りつつ送られてくる女子生徒や女性客の興味津々な視線をすべて黙殺して、手元の紙に目を落とす。 名前と曲名が演奏順に並んだプログラム。 順番は前回のセレクションでの順位の下位からとなっていて、目的であるかなでの登場は一番最後である。 彼女の名前の後に書かれた曲のタイトルはもちろん──
「……へぇ、この曲……小日向ちゃんのいじらしさに泣いてしまいそうや」
 しみじみと呟かれた何気ない彼の一言に、東金は思わずギクリとした。 かなでとのちょっとした賭けのことを話したわけではない。 偶然とはいえ『泣く』というキーワードを入れてくるのは、さすが長年の付き合いと言うべきか。
 『無伴奏ヴァイオリンのための12のファンタジア 第1番 I.Largo』── この曲を掴みあぐねて苦悩する東金の姿を一番近くで見ていたのがかなでと、そして土岐だった。 彼の中にもこの曲に対して多少の感慨があるに違いない。

 最後のセレクションの幕が上がった。
 まずは前回7位のトランペット専攻の1年生が舞台に立つ。 入学して1ヶ月ほどでいきなりコンクール出場、という1年生たちは、最初は気の毒なほど緊張が音に現れてしまっていたが、今ではすっかり舞台慣れしてのびのびと吹いている。 この1ヶ月半でよく成長したものだ、と素直に感心した。
 規定時間1分半以内という演奏はあっという間に終わってしまう。
 数人の演奏の後、舞台には如月響也が姿を現した。 前回は余りの緊張感のなさにのびのびし過ぎたのが審査員の心証を悪くしたらしく第3位に終わったが、今回は気を引き締めているらしい。 少々スパイシーなモーツァルトで会場が途端に華やかになった。
 響也に続いて前回第2位の水嶋悠人。 きっちりと細部まで計算し尽くしたようなバッハが会場を荘厳な雰囲気に一転させる。
 そして──

『── 続きまして、音楽科3年A組 小日向かなでさん。曲は──』

 アナウンスに導かれ、舞台袖からかなでが登場する。 まるで水平線から朝日が昇る瞬間を見たような錯覚に陥った。 彼女は鮮やかなゴールドイエローのドレスを身に纏っていたからだ。
「……へぇ」
 隣で土岐が意味深長に声を漏らす。
 学内行事でありながら、このコンクールの出場者はきちんと正装して舞台に上がるのである。 もちろんかなでも各セレクションにはドレス姿で出場している。 演奏する曲に合わせ、ピンクの可愛らしいドレス、新調したアイスブルーのドレス、円城寺姉弟に贈り付けられた純白のドレスを披露してきた。
 そして今日彼女が身につけているのは、去年のクリスマスに東金が贈ったドレス。 曲のことに気を取られていた東金は、衣装のことにまで頭が回っていなかった。 彼女があのドレスを着て登場したことは、ほとんど不意打ちに近い。 選曲にしろ衣装にしろ、彼女の全てが自分に向けられていることに東金はニヤリと口の端を上げた。
 ピアノが脇に片付けられ、舞台の上にはかなでただ一人。 すぅっと大きく深呼吸、ゆっくりとヴァイオリンを構える。 ふ、と口元に柔らかな笑みが浮かんだ。
 弓が動くと同時に紡ぎ出される、どこまでも優しくて暖かい音色。 飾り気のない素朴な旋律にふわふわと身体を包まれていくような心地よさ。
 ── これが『天上の音楽』というものなのかもしれない。
 まるでこの曲が彼女のために存在するように思えてきて、東金はただひたすらに柔らかな音色に心を委ねた。

 既に舞台は無人になっているというのに、拍手は一向に鳴りやまなかった。 コンサートであればアンコールという流れになるのだろうが、これはコンクール。 今は審査員たちが頭を突き合わせて順位付けの真っ最中だ。
「……千秋」
「……なんだ」
 まだ余韻に浸っていたくて、視線だけちらりと向ける。 土岐が苦笑を浮かべていた。
「ハンカチ貸そか?」
「はぁ?」
 言われて手の甲を頬に当ててみる。 ひやりと濡れた感触があった。
「……ふっ、まんまと泣かされちまった」
「小日向ちゃんが絡むと涙もろくなるんやな、千秋は」
「かもな…………さて、順位の発表を見届けたら、顔を洗いに行くとするか」
 東金は手の甲で頬の涙を乱暴に拭うと、満足そうにゆったりと座席に背を埋めた。

*  *  *  *  *

 講堂の2階にある放送室。 大きなガラス窓からは客席全体が見下ろせる。
 アナウンスを担当した放送部員は既に退室し、そこには3人の男が残っていた。
『── まさか最後にあんな簡単な曲を弾くとは……前回はもっと難易度の高い曲だったんだが』
『いや、シンプルな曲だからこそ確かな技術が要求されるんだ。 それに、必要なのは技術がすべてじゃない。 キミも見ただろう?  演奏中、心を掴まれて微動だにできない聴衆たちを。 ボクは気に入ったよ』
 渋い顔の日本人と穏やかに微笑む外国人との間に交わされる外国語の会話。 二人とも、この学校の生徒の親よりも少し上といった年配である。
「── 早速話をされるのでしたら、これから彼女を理事長室に呼びますが」
 日本語で会話に加わったのは、星奏学院理事長の吉羅暁彦。 普段の仏頂面に浮かべる笑みはどこか計算高く見えた。
「いや、週内にでも君の方から伝えてくれたまえ。 ああ、くれぐれも私の名は出さないように」
「承知しました」
 吉羅は二人に向けて恭しく頭を下げてから、彼らを先導して放送室を後にした。

*  *  *  *  *

「── あ〜あ、やっぱ優勝はかなでに持ってかれちまったか〜」
「さすが小日向先輩ですね。 僕ももっと精進しなければ」
「二人の演奏もよかったよー。 袖で聞いててドキドキしちゃったもん」
 講堂の入り口で待っていると、近付いてきたのは聞き慣れた声。 正装姿から制服に着替えた三人が扉を開けて出てくるところだった。
「ま、とにかくおめでとな」
「おめでとうございます、先輩」
「うん、ありがとう!」
 そんじゃな、失礼します、とそれぞれからの別れの言葉に、また明日ね、と応えたかなでがくるりと振り返る。 明るい表情がさらに笑みに輝いた。
「あっ、千秋さんっ!  蓬生さんも!」
「総合優勝おめでとうさん」
「ありがとうございますっ!」
 ぱたたっ、と駆け寄ってきたかなではそのまま東金に詰め寄って、至近距離からぐいっと顔を見上げた。
「どうでした?  泣けました?」
「あー泣けた泣けた」
「うわー、なんか嘘くさーい」
 悪戯っぽい笑みで答える東金に、かなでがぷくっと頬を膨らませる。
 二人のやり取りを不思議そうに眺めていた土岐が、小首を傾げながら会話に割り込んだ。
「なんやの、二人で賭けでもしとったん?」
「賭けっていうか、あの曲で千秋さんを泣かせる予定だったんですけど……」
 しょぼんと俯いたかなでがちらりと東金の顔を窺って。
「だから泣けたって言ってるだろ」
 ニヤリと笑みを浮かべた不遜な態度では確かに嘘くさいと言われても仕方ない。
「……小日向ちゃん、ほれ」
 土岐は東金のポケットから抜き取ったハンカチを、ひょいとかなでの目の前にぶら下げる。 反射的に出された彼女の手のひらの上にそっと落としてやった。
「はい?」
「千秋のハンカチ。 滝のように流した涙でぐっしょりやで」
「わ、ほんとだ、ぐっしょり♪」
「ばっ、そ、それはっ、顔洗って拭いたからだっ!」
 ハンカチを取り返そうとする東金の手から逃れるべく、かなでは湿ったハンカチを胸元に握り込み、くるんと背を向けた。 東金はすかさずその背中に覆い被さって片手で腰を拘束し、もう片方の手を彼女の胸元に伸ばす。 一見セクハラ行為に見えなくもないが、当のかなではきゃっきゃとはしゃいでいる。
「おい、返せっ!」
「いーやーでーすー!」
 呆れるほどの楽しそうなじゃれ合いをする二人── 東金は決して楽しいとは言えない、彼にしては珍しい必死な形相をしていたけれど。
 背中から東金に抱きつかれたかなでが、うふふ、と幸せそうに笑ったその直後。 彼女の顔からすっと表情が消え、大失敗をやらかしてしまったかのような絶望がみるみる浮かんでくる。
「こ、小日向ちゃん……?  どないしたん?」
「…………大失敗です」
「え゛」
 かくん、とかなでが項垂れた隙に東金が彼女の手からすっとハンカチを抜き取って、いそいそとポケットにしまい込んだ。
「失敗?  演奏にミスはなかったぜ?」
「せっかく千秋さんを泣かせることができたのに……ご褒美の約束をしておくのを忘れてました!」
「……おい、人を泣かせておいて褒美を要求するのか?」
「当然です、感動の涙ですから」
 拗ねたように唇を尖らせるかなでの頭を、東金はぐしぐしと掻き回した。
「……美味いと評判のカジュアル懐石とやらを予約済みだ」
「ほんとですかっ!」
 きらりんと顔を輝かせるかなで。 あまりの豹変ぶりに男二人は思わず顔を見合わせ苦笑する。
「俺ら二人からの優勝祝いや。 お邪魔やろうけど俺も混ぜてな」
「はいっ、ありがとうございますっ!」
「……邪魔だと思うなら遠慮しろよ」
「ええやないの、お祝いなんやし」
「関係ねえだろ」
「二人ともケンカしない!  さあ、行きますよ!」

 じゃれるようにして正門を出ていく三人の頭上をきらりと光が舞った。 すっと流れた光は空を仰ぐ妖精像の頭上でわだかまる。
『── おめでとうなのだ、小日向かなで!  ……これから何があっても、音楽を諦めないでほしいのだ』
 切ない声は誰の耳にも届かなかった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 意味ありげなおっさん3人の会話(笑)
 一体誰なんでしょうねー。
 「カジュアル懐石」はゲーム中モブ会話に出てきたアレです。柚木サマ。
 次回急展開?

【2010/09/14 up】