■SEASONS【III.Spring(4)】 東金

『── 第3セレクション、第1位は── 3年A組、小日向かなでさん』
 発表された成績に会場が沸き、スポットライトを浴びたかなでははにかんだ笑みを浮かべて嬉しそうに客席へ頭を下げた。

「── まあ、順当な結果だな。 余程のことがない限り、お前の総合優勝は確実だろう」
 片付けを終えて帰り支度をしてきた彼女と正門前の長い通路を並んで歩きながら、東金はさも当然のことであるかのように言い放った。
「そうですか?」
 返ってきたのは謙虚な言葉だったが、穏やかな笑みを湛える彼女の顔は自信に満ちているように見える。
 コンクールも今日で四分の三が終了。 最初に日程を聞いた時には、思わず舌打ちが出てしまうほど残念に思ったものだが── 休日に行われるのは第2セレクションだけ。全てのステージを見届けることができないじゃないか、と。 だがイレギュラーな行事のせいか、平日の場合セレクションは放課後に開催される。 おかげで今のところ3回のセレクションを余すところなく堪能することができていた。 もちろん、ラストである最終セレクションには何があろうと足を運ぶつもりでいる。
 くすぐったそうに、ふふ、と笑った彼女は、
「── だとしたら、きっとコーチが良かったからですね」
「コーチ、って……お前は運動部員か」
「運動部にも負けないスパルタ特訓でしたけど?」
 くすくすと笑う彼女は本当に楽しそうだ。
 確かに東金は練習に対して一切の妥協を許さない。 普段なら真夏の炎天下のアイスクリームのようにドロドロに溶けるほど甘やかしてやりたいと思っているかなでに対しても、そのスタンスは変わらないのである。
 ただし、自分と彼女はあくまで別個の人間。 自分の表現を押し付けることなく、彼女の持ち味を殺さず最大限に引き出すよう心がけて。 そしてその『スパルタ特訓』に彼女は弱音を吐くことなく取り組み、今も成長し続けている。
「さて、ラストを飾る曲は何にする?  図書館にでも行って考えるか」
 キャンパス内の図書館は当然のことだが、この街の市立図書館は音楽に関する書籍やクラシック音楽のCDが見事なほど豊富に揃っているのである。 できれば今日中に曲を決め、楽譜を揃えて早速練習に入らねば── 頭の中で計画を練りながら歩いていた東金は、ふと隣に彼女の姿がないことに気がついた。
 振り返ると、かなでは正門前の通路のほぼ中央で立ち止まり、そこに立つ妖精の銅像を見上げていた。
「おい、何やってるんだ」
 訝しく思いながら声をかけると、彼女はゆっくりと東金の方へと顔を向ける。 柔らかな笑みを浮かべたその顔がやけに大人びて見えて、東金は思わず目を瞠った。
「最終セレクションの曲なら、もう決めてあるんです」
 たたっと駆け寄って来た彼女は、カバンの中から冊子を取り出した。 差し出された冊子は楽譜で、表紙のタイトルは── 『12 FANTASIES FOR VIOLIN SOLO』。
「お前っ、これ……」
「ちょっと前から、最終セレではこの曲を弾こうって決めてました」
 バロック後期の作曲家・テレマンによる幻想曲集の第1曲目は去年の夏のコンクール・ソロ決勝の課題曲になった曲である。
「最後に弾くのはこの曲が一番ふさわしいような気がして」
 何かを思い出したのか、やけに楽しそうにくすくす笑っているかなで。
「……俺が悪戦苦闘したこの曲をさらりと弾いてみせて、俺を見返してやろうってところか」
 ニヤリと意地悪く口の端を上げ、すっと細めた目で見下ろしてやる。
 と、彼女も負けじと上目遣いの瞳に悪戯めいた光を宿し、
「散々泣かされたこの曲で、今度は私が千秋さんを泣かせてみせますっ」
 そう言い放ち、にっ、と彼女らしからぬ挑戦的な笑みを浮かべる。
「ハッ、言ってくれるぜ。 お前は俺の演奏ならこの曲に限らずダラダラ涙流して泣いてただろうが」
「そうですけど……特にこの曲には意味があるんですっ」
 機嫌を損ねてしまったのか、かなではぷいっと顔を背けた。
「……もしこの曲がなかったら、私たちは今こうやって一緒にいられなかったかもしれません」
 ぼそぼそと小さな声で呟く彼女の顔は真っ赤。 髪の間からちらりと見える耳まで赤く染まっている。 どうやら機嫌を損ねたのではなく、単なる照れ隠しらしい。 きっと以前自分が突発的にしてしまった大胆な行動を思い出して照れているのだろう。
 ソロファイナル前日、かなでとの間にできてしまった距離と苦手な曲調のこの曲に煮詰まっていた東金は、スタジオに籠って時間も忘れてひたすら練習していた。 夜になってどこか吹っ切れた様子でやってきた彼女といろいろあって、この日初めてキスをした── 襟首を掴まれ、ほとんど喧嘩腰で口をぶつけられたような、ちょっと痛いキスだったけれど。
 確かに、課題曲がこの曲でなければスタジオに籠ることはなく、彼女との距離を詰めることができないまま夏を終えていたかもしれない。 そう考えれば彼女の言う通り、特別な意味のある曲、ということになる。
「── そうだな……この曲で、俺を号泣させてみろ」
 まるでバトンを渡すかのように、しっかりと彼女の手に楽譜を戻して。
「はいっ!  じゃあ最終セレ本番を楽しみにしててくださいね!」
「本番……?  練習はどうするんだ?」
「ちゃんとやりますよ── 一人で。 だって練習で聞いちゃったら、せっかくの感動が薄れちゃいますよ?  だから、本番まで『おあずけ』です♪」
 ぐふふ、と笑ってかなではすたすたと門の方向へ歩いていく。
 置き去りにされてしまった東金は、ふと眉根を寄せた。 まさか、最終セレクションが済むまで会わないつもりか……?
「── あ、でも、ちゃんとご飯は作りに行きますよ?」
 くるんと振り返り、まるで思考を読み取ったかのように付け加えてくる。
 ほっとしつつも東金の心中は複雑だった。 たぶん、彼女がひとつの曲を作り上げる過程を見届けられないことへの不満、あの曲をどんな風に仕上げてくるかへの期待── それらが入り混じっている。
 こちらの様子を窺っているかなでは楽しい遊びを見つけた子供みたいな無垢な笑みを浮かべていて。
 足早に追いついた東金は彼女の肩にガシッと乱暴に腕を回した。 恋人同士の甘さを含んで肩を抱くのではなく、たった今宣戦布告をしてきた好敵手へエールを送るかのように肩を組む。
「── それじゃ今日は英気を養うために中華街に繰り出すとするか」
「ほんとですか!  じゃあ私、ふわっふわのカニ玉が食べたいですっ!」

 二人が去った正門前は、どっと疲れたような気だるげな空気に満ちていた。
 学内コンクールが始まってから頻繁に姿を現すようになった『(元)神戸の王子様・東金千秋』。 最初彼の姿を一目見ようと押し寄せていた女子生徒は、日が経つにつれ数を減らしていった。 今では遠巻きにして溜息混じりに眺めているだけ。
 なぜなら彼の姿を見ようと思えば、必ず傍に小日向かなでの姿があったからである。 さりげなくも過度なスキンシップを見せつけられては、騒ぐ気も失せてしまうといったところか。
 そして、二人の練習風景を一度でも目にした者は必ず彼らに尊敬の念を抱くことになる。 それまでの食傷しそうなほどの甘い雰囲気が幻だったのではないかと思ってしまうほどの厳しい練習。
 今や彼らは『星奏学院名物カップル』と呼ばれている。
 そんな彼らのやり取りを生温かく見守っていた下校途中の生徒たちは、疲労困憊な空気を振り払うようにして家路に就くのだった。

*  *  *  *  *

『── おおっ、小日向かなで!  頑張っているな!』
 弾き終えてちょうど弓を下ろしたところで頭上から声が降ってくる。 見上げると、手のひらサイズの人影がふよふよと浮かんでいた。
「あ、リリちゃん。 うん、頑張ってるよ♪」
 放課後、練習室で弾き始めてからすでに1時間ほど経っていた。 ひとまず休憩しようとヴァイオリンを置き、椅子に座って買っておいた紙パックの飲み物に手をつける。
『最後のセレクションまであと1週間もあるというのに、もうほとんど仕上がっているのだ』
 音楽の妖精、アルジェント・リリがニコニコと嬉しそうに言う。
「そうかな?  でも何度も繰り返して弾いてると演奏が雑になってくるから、とにかく1音1音を丁寧に弾くように気をつけてるんだ」
『うむ、いいことなのだ!  想いのこもった音は人の心に届く。 お前の奏でる音色はとても心地よいから、我輩、ずっと聞いていたくなるのだ』
 かなでが音に込める想いは、間違いなく東金への想いだ。 この曲を弾くと、否応なしに彼のことが思い浮かんでくるのだから。 彼への想いがこもった音色が心地よい、と言われると嬉しい。 かなでにとっては最上級の誉め言葉だ。
 しみじみと言ったリリはふわりと舞い降りてくると、かなでと視線を合わすようにして顔の前に浮かぶ。
『── 小日向かなで……お前は音楽が好きか?』
 さっきまでの満開の笑みを引っ込め、どこか心配そうな顔つきで訊いてくるリリ。
 かなでは不思議そうに小首を傾げ、
「うん……もちろん好きだよ」
 偽りのない素直な言葉を返した。 その答えで小さな妖精の顔に笑みが戻るだろうと思っていたのに、なぜかリリは依然不安そうな顔をしている。
『お前は……その……いずれはプロになりたいと考えているのか?』
「えっ?  ……まだそこまではっきりと考えてるわけじゃないけど……ずっとヴァイオリンを弾いていたいとは思ってるよ」
 かなでの答えにリリは何も返さずに身体を捩りながら高く舞い上がる。 ニッ、とぎこちない笑みを浮かべ、
『とにかく最終セレクションまで頑張るのだ、小日向かなで!』
 一方的にそう叫ぶと、くるりと宙返りしてパッと姿を消した。
「……リリちゃん、何が言いたかったのかな?」
 誰もいなくなった天井を見上げながら、かなではぽつりと呟いた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 あははー、他のコンクール参加者との絡みが皆無(笑)
 まあ、東かな的にはいらないかなーと思って。
 事件がないから展開も早い。うん。
 あわわ、あっという間に春が終わっちゃう……(汗)

【2010/09/06 up】