■SEASONS【III.Spring(2)】
「── おや、今帰りか?」
東金に車で送ってもらったかなでは門限ギリギリに寮に滑り込むと、部屋の前でタイミングよく廊下に出てきたニアと鉢合わせした。
「コンクール出場が決まったというのに、こんなに遅くまで男の部屋で過ごすのはいかがなものかと思うが」
「もう、そんな言い方しないでよ。
今日はコンクールで演奏する曲を選ぶのを手伝ってもらってて遅くなっちゃったんだから」
「まあ、そういうことにしておいてやろう」
「だから本当に曲選びしてたんだってば!」
くすくすと笑っているニアはかなでをからかって遊んでいるらしい。
「ああ、そうだ。
小日向、知っているか?」
「ん?
何を?」
「学内コンクールで優勝すると、音楽の道で成功できるそうだ」
「わ、そうなの !?
じゃあ頑張らなくちゃ!」
「それともうひとつ──
『ヴァイオリン・ロマンス』の噂だ」
「ヴァイオリン……ロマンス…?」
「昔、ヴァイオリンで参加した男子生徒と女子生徒がコンクールを通して惹かれ合い、とある理由で引き離されそうになった時、音楽の妖精が彼らの仲を取り持った── らしい」
ニアはいつものチェシャ猫のような笑みを浮かべ、かなでの反応を窺うように顔を覗き込んできた。
「へ、へぇ……素敵なお話だね」
彼女が近付いて来た分、気圧されてじりじりと後ろに下がりつつ、ふとあることに気がついた。
「ねえ……じゃあ、既にお付き合いしている状態でコンクールに参加するとどうなるの?」
「さあ?
── 意外と『色恋にかまけてないで音楽に集中しろ』と妖精に引き離されてしまったりしてな」
「え……」
ふふ、と含み笑いを残し、ニアはするりと横をすり抜け共用棟の方へと行ってしまった。
「── どうしよう……コンクールって、辞退とかできるのかな…?」
立ち尽くすかなでの呟きに答えを返してくれる者は誰もいなかった。
* * * * *
翌日、かなではピアノ専攻のクラスメイトに伴奏を頼み、コンクールの準備はひとまず整った。
そして放課後。
今日の練習場所は森の広場に決めた。
練習室という閉鎖空間よりも、穏やかな日差しと爽やかな空気の中で弾きたかったのだ。
だが、どうにも気分は晴れない。
昨夜ニアから聞いた話が頭から離れなかった。
第1セレクション用に選んだのは明るく軽やかな曲だというのに、いくら弾いても暗く重苦しくしか聞こえない。
かなでは、はぁ、と深い溜息をついてそばの大きな木を見上げた。
背中に羽根の生えた可愛らしい小人──
音楽の妖精たちがこちらの様子を窺っているのが茂った葉の向こうにちらりと見える。
ヴァイオリンを弾き始めると同時に姿を現し近付いてきた彼らに最初は驚いたけれど、存在を認めてしまえば気にならなくなった。
だが弾き続けているうちに次第に距離を置かれてしまった。
今の彼らはどの顔も不満そうな、残念そうな顔をしているのが見えて、かなでは更にがっくりと肩を落とした。
「── こんにちは」
ふいに背後から声をかけられてドキリとする。
振り返るとそこに見知らぬ男性が立っていた。
年の頃は30歳くらいだろうか、眼鏡をかけた優しそうな人だった。
「突然声をかけてごめんね。
素敵なヴァイオリンの音が聞こえたものだから、つい」
眼鏡の男性は優しそうな顔に人の良さそうな笑みを浮かべた。
ますます彼の印象が優しくなる。
「あ、あの……」
「あっ、ごめんね。
おれは王崎信武、ここの卒業生なんだ」
「お、音楽科3年、小日向かなでですっ。
あれ……おうさき……って、もしかしてヴァイオリニストの !?」
「あはは……知ってくれてたんだ」
がばっと頭を下げたまま、おずおずと顔だけ上げて見てみると、王崎は照れ臭そうに苦笑して頭を掻いていた。
競争の激しい音楽の世界で活躍している有名なヴァイオリニストとは思えない普通の人に見えた。
もちろん本人に聞かせたら最高に失礼な感想なので、口が裂けても言わないけれど。
それでも何枚かCDを持っているような相手を前にしての緊張は計り知れなかった。
「── もしかして、何か悩んでる?
おれでよければ聞かせてくれるかな」
そんな滅相もない、プロの方に聞かせるようなことでは──
頭の中でグルグルと遠慮の言葉が渦巻いているが全く口から出てこない。
ちょっと座ろうか、と促されると思考と切り離された身体が勝手に近くのベンチに腰を下ろしていた。
「── 小日向さんはヴァイオリン弾くの、楽しい?」
「は、はい!
もちろんです!」
訊かれて咄嗟にそう答えていた。
嘘ではない、本心からそう思っている。
ただし今は少し気が重いけれど。
「そうか……じゃあ他に何か心配事があるのかな?」
「あ……」
さっき王崎はこの学校の卒業生だと言っていた。
ということは、例の噂についても知っているに違いない。
この人は自分の話を笑い飛ばしたりせずに聞いてくれるかもしれない──
直観的にそう思えて、かなでは話してみることに決めた。
「あの……私、今度学内コンクールに出ることになったんですけど……」
「えっ、君は参加者だったんだ。
そうか……君はリリに出会えたんだね。
なんだか嬉しいな。
リリは元気にしてる?
久しぶりのコンクールだから、きっと張り切ってるだろうな」
王崎が我が事のように喜んでくれているのが不思議だった。
かなでは小首を傾げながら、
「あの……王崎さんはリリちゃんをご存知なんですか?」
「うん、おれも学内コンクール経験者だよ。
最初は『ファータの姿が見えたら強制参加』なんておかしな参加資格だと思ってたけど、それにはちゃんとした理由があったんだ」
「理由……?」
王崎は懐かしそうな柔らかい笑みを浮かべ、こっくりと頷いた。
「ファータが『音楽の妖精』だってことは知ってる?」
「……はい」
「ファータの姿が見えるってことは、その人の中に音楽的な才能が秘められているということらしいんだ。
その才能はすでに開花しているかもしれないし、これから芽吹くものかもしれない。
もしかすると芽を出さずに終わってしまうかもしれない。
才能を生かすことができるかは、その人の努力次第なんだと思う」
『学内コンクールで優勝すると、音楽の道で成功できる』──
昨夜の親友の言葉を思い出した。
音楽の妖精に才能を認められた者たちと競い合い、優勝できるほど努力することで、その才能を花開かせることができるということなのだろうか。
そのチャンスを与えられたことは喜ぶべきことなのだろう。
けれど──
膝の上に置いた手をぎゅっと握り締めた。
「あの……『ヴァイオリン・ロマンス』の噂は……」
「えっ?」
ちらりと様子を窺うと、王崎は見開いた目をぱちぱちと瞬いていた。
そんなに変なことを言ってしまったのかと慌てて取り消そうとしたけれど、彼の顔がふと和らいだような気がして口を閉じた。
「── あはは、その噂はまだ健在だったんだね」
「え……?」
今度はかなでが目をぱちくり瞬かせる番だった。
「おれが知る限りではヴァイオリン・ロマンスはただの噂で終わったよ。
あ、でもコンクールで知り合って、その後結婚した後輩はいるけれどね。
一応それは長い目で見ればヴァイオリン・ロマンスが成就したってことになるのかなぁ」
もしも噂を信じてコンクールに出会いを求めているのなら、彼の言葉はきっと希望になるのだろう。
だがそれはかなでにとって答えが出ていないだけではなく、不安を煽る言葉でしかなかった。
「あ、あの……特定の相手がいる人がコンクールに出た場合、どうなるんでしょう……?」
「え?」
「わ、別れさせられたりするんですかっ?」
瞠目した王崎がふと目を細め、にっこりと微笑んだ。
「……そっか、君にはもう大切な人がいるんだね」
「あ」
ズバリ指摘され、かなではかぁっと熱くなった頬を両手で押さえて俯いた。
ヴァイオリンのことそっちのけでこんなことを考えているなんて、呆れられてしまったに違いない。
「── 大丈夫、ファータたちはそんな意地悪なんてしないから。
むしろ応援してくれるはずだよ」
「……え」
てっきり『そんなこと考える暇があるなら練習したら?』とか言われるかと思っていたのに、返ってきたのはまるで違う答え。
「片思いでも、両思いでも、誰かを大切に想うっていうことは、その人の心の成長につながると思うんだ。
心が成長すれば感情表現も豊かになって、きっと演奏にも現れる。
その演奏は必ず人の心に届くと、おれは信じてる」
「……っ」
それは都合が良すぎるほどの望んでいた答え。
嬉しくて涙が滲んできた。
鼻の奥がツンと痛い。
「── ただし、あまり恋愛にかまけすぎて音楽が疎かになってしまうとファータたちを悲しませてしまうから、注意したほうがいいと思うよ」
くすくすと笑いながら、王崎がやんわりと釘を刺してくる。
さぁっと風が吹き抜けていった。
爽やかな空気を思いっきり吸い込んで。
見上げた空の青さがとても美しかった。
「あのっ!
よかったらもう一度演奏を聞いていただけませんか!」
「うん、おれでよければ喜んで」
「ありがとうございます!」
かなでは石のベンチからすっくと立ち上がり、ヴァイオリンを構えた。
呼吸を整え、弦の上に弓を滑らせる。
さっきまであれほど重苦しく聞こえた曲は軽やかに音を響かせた。
視界の隅で動いた何かへ視線を向けると、いつの間に木の上から降りてきたのかファータたちが楽しそうにダンスを踊っていた。
そのうちの一人がふわりと羽ばたいて王崎の頭の天辺に着地すると、ちょこんと座って身体を揺らし始める。
* * * * *
東金は星奏学院の裏手にある駐車場に車を停めると、前にも通ったことのある生垣の隙間から直接森の広場へと入った。
正門から入れば女子生徒たちがわらわら集まってくるし、授業が終わったのを見計らって送ったかなでへのメールに『今日は森の広場で練習します』と返事が返ってきたからだ。
広い敷地をしばらく進むとヴァイオリンの音が聞こえてきた。
曲は昨日彼女と選んだ曲。
今日から練習し始めた演奏はまだまだ完成には程遠いが、楽しそうな音は東金の心を惹きつける。
音を頼りに進んでいくと、木陰で演奏する彼女の姿が見えた。
そのすぐ傍のベンチに──
彼女の演奏を聞いている男がいた。
制服を着ていないから生徒ではないのだろう。
教師だとしても、男である以上心穏やかではいられない。
東金はチッと舌打ちして、つかつかと乱暴に足を運んだ。
「── うん、ずいぶん良くなった。
さっきのところはもっと丁寧なボウイングでね」
「はい!
ありがとうございました!」
ぺこりと頭を下げたかなでにひらりと手を振って、男は校舎の方へと去っていった。
彼女がその後ろ姿をじっと見送っているのがやけに気に入らない。
「── おい、今の男は誰だ」
くるん、と振り返った彼女の顔にぱぁっと笑みが浮かぶ。
「あ、千秋さん!
今の人、王崎信武さんです!」
「おうさきしのぶ……って、あの王崎信武か?」
王崎信武といえば、この星奏学院が輩出した音楽をやっている者なら大抵知っている有名なプロヴァイオリニストである。
以前彼女にもそんなメールを送ったこともある。
「はい!
ちょっとだったけど、指導してもらっちゃいましたー♪」
「そ……そりゃよかったな……」
思わず舌打ちした。
迂闊にも、もう少し早く来ればよかった、と後悔してしまったのである。
「王崎さんは今度のコンクールの審査員をされるんですって。
昔のコンクールの話もいろいろ聞かせてもらったんですよ」
かなでは持っていたヴァイオリンをベンチの上のケースにそっと置くや否や、だっと駆け出していきなり東金にばふっと抱きついてきた。
たまに驚くほど大胆な行動をしてみせる彼女だが、大抵は恥ずかしがって自分からは動かない。
彼女にしては珍しい行動に思わず面食らうが、嬉しくないわけがなかった。
「どうした、今日はやけに大胆だな」
抱きついたまま首を大きく逸らして見上げてくるかなでがにぱっと笑った。
「私、コンクール頑張りますっ!」
「当たり前のこと言ってんじゃねえよ。
お前には俺がついてるんだ、優勝はお前のものだぜ」
「はい!
えへへっ」
いつになくハイテンションな彼女がぽふっと胸に顔を埋めてきて、東金はちょっとドキドキしながら彼女の華奢な身体をぎゅっと抱き締め返した。
【プチあとがき】
ふふ、王崎先輩出しちゃった。
今後どこまで活躍してくれるかは未定(笑)
無印のイベントを確認し直したほうがよさそう……
親友のくせに意地悪だなー、ニアは(笑)
今回セリフに頼り過ぎてて、ちょっと反省。
【2010/08/27 up】