■SEASONS【II.Winter(8)】 東金

 冬休みは年末年始も関係なく学科の勉強とヴァイオリンの練習に勤しんでいるうちに、あっという間に過ぎていった。
 もう試験日前日。 今は横浜へ向かう新幹線の車中である。
「── なあ、千秋」
 窓の外を流れる景色を眺めている親友に呼びかける。
「ん?」
「横浜着いたら、菩提樹寮に向かうん?」
「いや、ホテルに直行だ。 明日のためにコンディションを整えておかねえとな」
「……ふぅん」
 生返事が気に食わなかったのか、東金は訝しげな視線をちらりと送ってきた。
「いや、せっかく横浜に行くんやし、真っ先に小日向ちゃんの顔見に行くかと思たわ」
 すると東金はニヤリと口元を歪め、
「ハッ、楽しみは少し先延ばしにしたほうが、より楽しめるってもんだぜ」
 笑いながら余裕綽々にそう言って、東金は再び車窓の外へと視線を向けた。
 彼らはクリスマスの夜に一歩踏み込んだ関係になったらしい。 となれば彼女に対する東金の攻撃的とも言える愛情表現は更に激しくなると思っていたのだが── いざそうなってみれば、意外にも彼らは冷静に受け止めているのかもしれない。
 妙なところで感心しつつ、土岐は少し倒したシートに背中を預け、横浜到着までのしばしの時間をまどろもうと静かに目を閉じた。

*  *  *  *  *

 朝の冷たい空気を吸い込めば、身が引き締まる思いがした。
「── さて……出陣だな」
 ホテルを一歩出ると、やけに嬉しそうに東金が呟いた。 確かに『受験戦争』という名の戦の最終決戦にこれから赴くのだ。
 それにしては二人には緊張感がない。 リラックスしていると言えば聞こえはいいが、まるでどこかに観光に行くかのようだ。
 東金のその自信の裏に努力があることはよく知っている。 大学は星奏に行く、と決めてからの数ヶ月、彼は某音大の教授を家庭教師につけた。 どこで見つけてきたのか、そこそこ有名な指導者の元でヴァイオリンのレッスンを受けた。 そして当然のように同行させられた土岐もまた東金と同じ勉強とレッスンを受けている。 短期間ではあったけれど、二人ともやれることはすべてやり尽くした。 おかげで緊張する必要を感じないのかもしれない。

 ホテルから程近い星奏学院大学が見えてくると、俯きがちにせかせかと門をくぐっていく受験生の姿に紛れながら、立派な門柱のそばで大きく手を振る姿が目に止まった。
「── おはようございまーす!」
 人目も憚らず大きな声で元気にあいさつしてきたのは小日向かなで。 品のいいキャメル色のコートに暖かそうな向日葵色のマフラーを巻いている。 手にはヴァイオリンケースと通学カバンの他に紙袋を提げていた。
 彼女に向けて軽く手を上げ応えた東金が少し足を速め、遅れた土岐は慌てて後を追いかけた。
「待ったか?」
「いえ、大丈夫です」
 ニコリと笑ったかなでの鼻の頭は寒さで赤くなっている。
 東金はポケットから出した手を彼女の頬に当てた。 くすぐったかったのか、わ、と小さな声を上げて彼女は首をすくめた。
「なんだ、やっぱり冷えてるじゃねえか」
「そ、そりゃあ冬ですから」
「なんなら温めてやろうか?」
 鼻だけでなく顔全体を一気に赤く染めたかなではずざざっと後退って、ぶんぶんと首を横に振る。 それを楽しそうに眺めながら、遠慮するな、と東金が笑っていた。
 こんなやり取りは以前と変わっていないようだが、内情をいろいろ知った上で傍で見せつけられている土岐にとっては居心地悪いことこの上ない。
「あ、えと、はいこれ」
 かなでが真っ赤な顔のまま、持っていた紙袋の一つを東金に差し出した。
「ああ、サンキュ」
 そして彼女は土岐の方へ向き直り、
「はい、蓬生さんも」
「……なんやの?」
「お弁当です。 試験、頑張ってくださいね」
 とニッコリ。 土岐は差し出された紙袋を素直に受け取って、
「……ありがと。 悪かったなぁ、俺の分まで作ってくれたん?」
「ふふっ、ついでです。 2つ作るのも、3つ作るのも手間は一緒ですから」
「3つ……?  ……ああ、小日向ちゃんの分?」
「いえ、律くんの分です。 ここまで一緒に来たんですけど、先に会場に入っちゃいました」
「へぇ……」
「── 如月は音楽民族学者を目指すらしい」
「へえ、そうなんや」
 思いがけず答えは東金から返ってきた。
 考えてみれば今の世の中、携帯電話という便利なツールが存在するのだから、彼らが情報を共有していることは不思議ではない。 弁当のことも、昨日までにきっちり計画されていたのだろう。
「じゃあ私、学校に行きますね」
「── おい、かなで」
「はい?」
 駆け出そうとしたところを呼び止められて、かなではくるりと振り返る。
「俺にはないのか?  励ましの言葉は」
「……いりますか?」
「当然だろ」
「……が、頑張ってください、ち、千秋さん!」
 耳まで真っ赤になったかなでは勢いよく踵を返して逃げるように走っていった。
「へぇ……『千秋さん』、ねぇ」
 ちらりと視線を送れば、彼女の後ろ姿を満足そうに眺めている東金も一瞥を寄越してきた。 にやり、と勝ち誇ったような笑みが浮かぶ── 一体彼は何と勝負しているのやら。 そういえば夏に名前のことを話した記憶がある。 もしかしてまだ根に持っていたのかもしれない、と思うと吹き出しそうになった。
「……ほな、会場に行こか」
「そうだな」
 夏の横浜で名を馳せた彼らに気づいたらしい無遠慮な視線を浴びながら、二人は星奏学院大学の門をくぐった。

 どうやら『神戸の王子様が受験に来ている』という情報はあっという間に広まってしまったらしい。 午前中の学科試験を終え、食事場所として受験生に開放されている学内のカフェテリアへ向かうと二人の元へ女子の集団がわらわらと集まってきた。
「あ、あのっ!  お昼ご一緒してもいいですか!」
「わ、私も!」
「私もぜひ!」
 女子の黄色い声がカフェテリアに響き渡る。
「別にええけど……俺ら『愛妻弁当』持ってるしなぁ……」
「「「えっ !?」」」
「……なんでお前が『愛妻弁当』とか言ってんだよ。 あいつは俺の『愛妻』だろうが」
「「ええっ !?」」」
 どよめきが起こる中、すっくと東金が立ち上がる。 女子たちの作る壁の向こうに如月 律の姿があった。
「── おい、如月。 一人ならお前も一緒にどうだ?」
「……ああ、そうさせてもらおう」
 女子の集団には目もくれず、律は東金の向かいの席に腰を下ろす。
 三人は似たような紙袋から色違いの弁当包みを取り出した。 開いた弁当の中身は当然まったく同じメニューである。
「へえ、美味そうやなぁ」
「美味そう、じゃなくて、美味いんだよ」
「まだ食べてへんのに、よう断言できるなぁ」
「あいつの料理の腕に間違いはないからな」
「……そういえば、小日向は1週間ほど前から懸命にメニューを考えていた。 あれくらい勉強にも打ち込んでくれればいいんだが……」
「うわ、鬼部長健在やな」
「ごちゃごちゃ言ってねえでさっさと食え。 しっかり味わって食えよ」
「はいはい……ほな、いただこか」
「……いただきます」
 同じ弁当をつつく三人を囲んでいた女子の壁が徐々に遠巻きになっていった。 憶測は憶測を呼び、いろいろな噂が飛び交うようになることを、彼らはまだ知らない──

*  *  *  *  *

 その夜、菩提樹寮では受験を終えた4人── 神南の二人と如月兄、そして同じ日に某医大を受けた榊 大地── を招いてささやかな『受験お疲れ様パーティ』が催された。

 そして1週間後── 彼らは4人とも無事に合格通知を手にすることができたのだった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 前回ほど盛り上がりはないですが……
 ほのぼのした雰囲気の中にニヤリポイントは入れたつもりです。
 あ、如月兄の進路は捏造ですよ、もちろん。
 次回より春になります。

【2010/08/18 up】