■SEASONS【II.Winter(7)】 東金

 ポケットの中の携帯が短い着信を告げたのは、ちょうど目的の階に着いたエレベータから一歩足を踏み出した時だった。
 届いたメールは土岐からのものだった。

『俺、帰るわ。 口裏合わせが必要なら連絡してや』

 文面の向こうにニヤニヤ笑う親友の顔が見えた気がして、東金は眉根を寄せて舌打ちしながら携帯を乱暴にポケットへと突っ込んだ。
 東金は彼女と話した後、パーティに戻るつもりでいる。 パーティに顔を出すことが、主催した東金家の人間としての義務なのだから仕方ないのだ。
 とはいえパーティも夜通しやっているわけではない。 お開きになってから、どこか夜景の綺麗なところへ連れ出してやるのも悪くない── そんなことを考えながら、辿り着いた彼女の部屋の前。 ドアチャイムを鳴らそうと延ばした腕を、ふと途中で止めた。
 ── 冷静になる時間を少し与えてやろう。
 なかなか寛大な計らいだ、と思わず笑みを漏らし、部屋の前で5分待つことにした。

 そして5分経過し、東金は彼女の部屋のチャイムを鳴らす。
 一呼吸置いてもう一度。
「………………」
 しばらく待ってみても、かなでが顔を出す気配はなかった。
 中にいるはずなのに── ここに来る前、彼女がエレベータに乗り込んだことはフロントで確認した。 あの僅かな間にすれ違うということもないはずだ。
 焦れた東金は続けざまにチャイムを連打した。 それでも彼女は出て来ない。
「おいっ、かなで!」
 呼びかけながら扉を拳で何度も叩く。
 と、中で慌てたような物音。 ガチャリ、とノブが動いて扉にじわりと隙間が生まれた。
「……はい」
 弱々しい声が聞こえて、隙間からかなでの顔が半分見えた。
「いるんなら早く出ろよ」
「……す、すみません」
「………………」
「………………」
 目を伏せたまま動こうとしない彼女はこれ以上扉を開けるつもりはないらしい。 部屋に入ろうにも、内開きの扉の向こうにかなでが張り付いている今の状況で無理に押せば彼女に怪我をさせてしまう可能性もあるから、そんな行動に出るわけにもいかず。
「……部屋には入れてくれないのか?」
「えと……それは……」
 言い淀んで顔を逸らすかなで。 元々半分しか見えてなかった彼女の顔は、完全に扉の向こうに隠れてしまった。
 と、カチカチ、と微かな音が聞こえたのが気になった。
 東金は思わずドアの隙間に手を突っ込み、扉の縁を掴んでいる彼女の手首を掴む。
「なっ !?  お前、なんでこんなに冷えてるんだ !?」
 彼女の細い手首は、まるで氷を掴んだかのように冷たかった。 咄嗟に逃げようと思ったのか、かなでが急に後退る。 彼女の手を掴んでいる東金は、引っ張られるように部屋の中へと足を踏み入れた。 暖房を切っているのか、明らかに室内は廊下よりも温度が低い。
「── っ」
 かなでの姿を見た東金が一瞬息を飲んだのは、彼女がホテル備え付けのバスローブ姿だったからである。 チャイムを鳴らしてもなかなか出てこなかったのは、シャワーを浴びていたからなのだろう。
 だが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
 まだ腕を掴まれたままだというのに、それでも逃げ出そうと身体を捩ったかなでの髪から水滴が飛んで来て頬を濡らす。 その冷たさにゾクリと肌が粟立った。
 腕を引っ張り抱き寄せてみれば彼女の身体はシャワーを浴びた直後とは思えないほど冷え切っている。 掴む場所を腕から顎に変え、必死に逸らそうとする顔をぐいっと自分の方へと向けると紫色に変色した唇が震えていた。 さっき気になったカチカチという音は、寒さに震える彼女の歯が鳴ったものに違いない。 びしょ濡れの髪のあちこちから冷たい水の雫がぽたりぽたりと落ちていた。 寛大ぶって部屋の前で待たなければよかった、と後悔しても遅かった。
 ちっ、とはっきり聞こえる音を立てて舌打ちし、
「このクソ寒い真冬に水浴びする馬鹿がどこにいる。 おい、タオルを取って── ああいい、俺が取ってくる」
 東金は急いでスーツの上着を脱いで震えているかなでの身体を包むように肩に被せてやってから、バスルームへと向かう。 畳んで重ねてあるバスタオルを1枚掴み、戻る途中でやはりオフになっていた空調のスイッチを入れた。 室温設定を少し高めにする。 それから広げたバスタオルをかなでの頭からばさりと被せ、がしがしと乱暴に掻き回すようにして頭を拭いてやった。
 ふと、前にも同じようなことがあったな、と思い出す。
 夏、温泉に出かけた時、すっかり湯当たりしてしまった彼女をこうして介抱してやったのだ。 まったく同じような状況に、思わず笑いが込み上げてくる。
「── ったく……俺にこんなことをさせるのは、お前くらいのもんだぜ」
「すっ、すみません……その、ちょっと頭を冷やそうかと思いまして……」
「で、冷水のシャワーを浴びた訳か」
「…………はい」
「本気で水かぶってどうする。 普通『頭を冷やす』と言ったら外の空気を吸うとか、ちょっと気分転換することだろうが」
「え、そうなんですか?」
「…………本物の馬鹿だな、お前は」
「うぅ……」
 はぁ、と大仰な溜息を吐き出しながらタオルを引っ張ると、中からぐしゃぐしゃに乱れた髪に今にも泣き出しそうな情けない顔のかなでが姿を現した。
「本当に、お前は──」
 東金は持っていたタオルを床に投げ落とし、かなでを引き寄せる。 そっと腕の中に閉じ込めて、まだ血の気の戻らない唇に口付けた。 手っ取り早く温めてやれる方法は、これしか思いつかなかった。
「んっ………………あ、あの、東金さん……」
 腕の中で身体を捩りキスから逃れたかなでがぽふっと胸に顔を埋めてきた。
「……なんだ?」
「……ごめんなさい……その……あんな騒ぎを起こして、勝手にパーティを抜け出したりして……」
 呟くように詫びるかなでは東金の胸元に額を擦りつけるようにして小さくなっていた。
「── そうだな、華やかなパーティの席であんな寒々しい演奏をされては迷惑だ。 それに、せっかくお前の存在を見せつけてやろうと思っていた俺の計画は完全に水の泡だな」
「うっ……ご、ごめんなさいっ……」
 ますます小さくしぼんでしまったかなでの様子に思わず吹き出しそうになりながら、
「── だが、気分は悪くない」
「へ……?」
 がばっと顔を上げ、大きく見開いた目をぱちぱちと瞬かせるかなでにニヤリと笑ってやった。
「お前、寄ってきた女たちにヤキモチを焼いたんだろう?」
 笑みを深めながらそう言い放った途端、さっきまで蒼褪めていた彼女の顔にさっと朱が差した。 気がつけば唇にはいつもの赤みがほんのりと戻ってきている。 身体ももうそれほど冷たくは感じない。 部屋の暖房も効いてきた。
「だっ、だって、みんな可愛くて女の子らしくて、お嬢様で……」
「お前……鏡を見たことがないのか?」
「どう見てもあの子たちのほうが東金さんにお似合いだなって……」
「よくもそこまでネガティブになれるもんだな……もう少し自分に自信を持ったらどうだ?」
「でも私、いまだに私なんかのどこを東金さんが気に入ってくれたのか、よくわからなくて……」
「── おい、かなで」
 何を言ってやっても、今の彼女はひたすら深く落ち込んでいってしまうらしい。 あまりのじれったさに東金は彼女の肩を掴んで軽く揺さぶった。
「やっぱり……怒ってますよね……?」
 見上げてくるかなでの大きな瞳が見る間にうるうると潤んでいく。
「怒ってるわけじゃ── いや、ある意味俺は怒っているのかもしれねえな」
 華奢な肩を掴んだ手に、ぴくりと小さな強張りが伝わってきた。
「── なあ、かなで……お前はいつになったら俺を信用してくれるんだ?」
「え……?」
 意味が理解できないのか、かなでの顔には怪訝な表情が浮かんでいた。
 時々ドキリとするような発言をするくせにどこまでも鈍い彼女に解からせるにはいい機会なのかもしれない、と思った── 少々照れ臭いけれど。 彼女の目を真っ直ぐに見つめ、意を決したようにすぅっと大きく息を吸う。
「俺は完全にお前に捕まっちまってる── それこそお前以外見えないくらいにな。 だからお前はくだらねえ小さなことにいちいち頭を悩ませるな。 そもそも俺の行く先々で群れた女どもがキャーキャー騒ぐのは、最初から承知の上でお前は俺に惚れたんだろうが。 だったらお前は堂々と胸張って笑ってろ── ま、お前が何に悩もうと、どれだけ落ち込もうと、俺は一生お前を手放すつもりはねえからな。 その辺りはきっちり覚悟しておけよ」
 ここまで言って解からないということはないだろう。 その証拠に彼女の目尻から溢れた涙が一筋、薔薇色に染まる頬を流れ落ちていった。
「……本当に…?  本当に私でいいんですか……?」
「……俺にここまで言わせて、まだ疑うのか?」
 かなではぷるぷると頭を横に振る。
「とにかく俺を信じろ。いいな?」
 くしゃり、と彼女の頭を撫でた。 まだ乾ききっていない髪はひんやりと冷たかった。
「よし、じゃあ頭を乾かして支度しろ。 外に食事に行くぞ。 ああ、もうドレスは着なくていいぜ」
 彼女の肩にかけていた上着をはぎ取った。 つられて引っ張られたバスローブの胸元が少し崩れたのが見えて、慌ててくるりと背を向ける。
「あ……あの、パーティは……?」
「一通り役目は果たしてあるからな、特に問題はないだろう。 それより俺が目を離すと何をしでかすかわからないお前を野放しにしておく方が心配だからな」
 くつくつと笑いながら上着をバサリと羽織る。 彼女が普段着なら、自分がこの格好ではバランスが悪過ぎる。 自宅に戻って着替えるのも時間が惜しいから、どこかで服を調達するか、と考えつつ、
「俺は外で── いや、一応パーティを抜けることを伝えておいたほうがいいな。 俺は先に下に降りてるから、早く支度して── っ !?」
 どすん、と背中に衝撃を食らって、続く言葉を飲み込んでしまった。 視線を下に向ければ腹の上辺りで細い腕が交差している。 かなでが背後から勢いよく抱きついてきたのだ。
「……私のこと、嫌いになってませんか……?」
「……お前も大概しつこいな」
「……ヤキモチ焼かないって約束はできません……重くないですか?  鬱陶しくないですか?」
「今のお前のしつこさは確かに鬱陶しいが」
 ふ、と笑って、彼女の白い手の上に自分の手をそっと重ねる。 腰の周りの拘束が、僅かにきつくなった。
「私……東金さんのことが大好きです。 ずっと私に捕まえられていてくれますか……?」
「── っ !?」
 どこかで何かがブチブチと派手な音を立てて切れたような気がした。 だがまだ細い糸のようなものでかろうじて繋ぎ止められている。
 重ねていただけの手をきゅっと掴む。 知らずこくりと喉が鳴った。
「かなで……そんな可愛い台詞、自分がどんな格好で口にしているのか、わかってるのか?」
「え……格好……?」
「前にも言っただろ── お前は今、俺に何をされても文句は言えない状況なんだぜ?  その気がないなら俺を煽るな……逃がしてやれなくなる」
 背後で息を飲む音がやけに大きく聞こえた。
 こんな大きな選択を彼女に押し付けるなんて、自分はなんて卑怯な男なんだろう。
 口元に自嘲の笑みが浮かんだ瞬間、抱きついている彼女の腕にぎゅっと力がこもった。
「── 逃げません」
 ついに最後の一本がぷちんと切れた。
 彼女の腕を腹の上から剥がし、くるりと向きを変える。 彼女が、う、と苦しげな声を上げたのにも構わずひたすら強く抱き締めた。
 ── そうか、さっき切れたのは理性を繋ぎ止めていた糸なのか。
 頭の片隅で至極冷静に納得しているのが可笑しくてたまらない。
 その間にも視界は90度の角度で大きく変わっていた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 きゃーっ、いいんですか、こんな展開にしちゃっても !?
 すみませんすみませんすみません!
 ちょっと強引すぎですかっ !?
 前の話のあとがきでのお願いの理由、理解していただけましたでしょうか。
 いやぁ、この展開を予想されちゃうと、さすがに続きが書き辛いですから。
 どうですか? 予想は当たりましたか?(笑)
 苦情、抗議はお手柔らかに。あ、感想は大歓迎です。
 あぁっ、お願い、石投げないでっ!

【2010/08/13 up】