■SEASONS【II.Winter(5)】
かなではエントランスロビーの豪奢なソファにどさりと腰を落とし、ずるずると沈み込んだ。
一刻も早くあの場所から逃げ出したかった。
お手洗いに行く、と言ったのはただの口実に過ぎない。
パーティに招待されて、自分はどれだけ浮かれて舞い上がっていたのだろう──
かなでは知らず唇を噛みしめる。
東金家主催のパーティなのだから彼の家族と顔を合わせることになる、という当然の成り行きが頭の中からすっぽり抜け落ちていた。
その上あんな失言まで──
蘇ってきた恥ずかしさに、かなではかっと熱くなった顔を両手で覆って蹲る。
恥ずかしさが少し落ち着くと、逃げ出したくなったもう一つの理由が頭をよぎって、覆った手の中でぎゅっと強く目を瞑った。
しばらくして、はぁ、と溜息を吐いて、ゆるゆると起き上がる。
「……部屋に帰ろうかな……」
ぽつり、と呟きが漏れた。
もうパーティには戻りたくない。
あの場所にいる自分はあまりに場違いすぎるし、目に入ってくる色々な光景をもう見たくなかった。
── 彼には後で『気分が悪くなったから』と嘘をつこう。
きっと心配してくれるに違いない……嘘で心配させるのはひどく心が痛むけれど。
ああ、もしかすると『勝手に抜け出すな』と怒られるかもしれない。
もし許してもらえなくても、その時はその時だ──
「── 帰ろう」
意を決して立ち上がり──
「── あーっ、ここにいたっ!」
ばたばたと駆け寄ってきたのは蒼いドレス姿。
「え……麗香さん……」
「もうっ、トイレにいないから、どこ行っちゃったのかと思ったわよ。
まさかパーティ会場に戻る道がわからなくて迷子になってたんじゃないでしょーね」
からかうように笑いながらそう言った麗香は、かなでの顔を見て眉をひそめた。
「もしかして、気分悪くなっちゃった?」
「あ、いえ……」
しまった、と思っても遅かった。
根が正直なかなでの口は、勝手に否定の言葉を紡いでいた。
嘘をつこうと決心したのはついさっきのことなのに。
麗香はぼすっとソファに座り、かなでの腕を掴んでぐいっと引っ張った。
よろけたかなではそのまま麗香の隣に腰を下ろすしかなかった。
「それならいいけど……だったらヤキモチ焼いちゃったかな?」
「っ !?」
はっと顔を上げる。
図星だった。
黄色い声を上げながら東金に駆け寄った女の子たちを見て、自分よりあの子たちの方が彼に相応しいんじゃないか、と思った。
それ以上に、そんな風に彼に近付いて欲しくない、と思ってしまったのだ。
自分の心の醜さが嫌で嫌でたまらなくなった。
かなでは唇を噛んで、深く俯いた。
「── 大好きなんだね、千秋くんのこと」
しみじみと呟くと、ぴくりと身体を震わせたかなでが耳から首筋までを真っ赤に染めて、小さく、けれど確実にこくんと頷く。
「ひゃぅっ !?」
突如上がった奇声はかなでが発したもの。
いきなり麗香に抱きつかれ、驚いたのである。
「やーんもうっ、かなでちゃんってば可愛過ぎ!
私が男だったら、絶対千秋くんから奪い取ってる!」
抱きつかれた挙句、頭にすりすりと頬ずりされて、かなではオロオロすることしかできない。
「あっ、あのっ、れ、麗香さんっ !?」
ごめんごめん、と身体を離した麗香は柔らかい笑みを浮かべて、両手をそっとかなでの肩に置いて顔を覗き込んできた。
「こんなところに逃げ出してウジウジ考え込んでるくらいなら、ズバッと正面から本人に言ってやりなさい」
「え……でも、なんて……」
「言ったでしょ、ズバッとって。
『ヤキモチ焼いちゃうから、私だけを見ていて!』くらい言っていいと思うけど?」
「え゛」
ひくり、と口元を引きつらせ、かなでは硬直する。
あの東金に向かってそんなことを口にすれば、逆に呆れられて冷たい視線で睨まれてしまいそうな気がするのだが。
「── まーったく、千秋くんてば何考えてるんだか。
こんな集団見合いみたいなパーティに大事な女の子連れてくるなんて」
「え、見合い……?」
呆れたような口調の麗香の言葉を聞いて、かなでの顔からすっと色が失せた。
このパーティにそんな意味合いがあるなんて初耳だ。
ぼふっと身体をソファに埋めた麗香は、かなでが反芻した呟きを受けて話を続ける。
「そうなの。
何年か前にね、たまたま親に連れられてきてここで出会った二人が結婚したらしいのよ。
それ以来、親馬鹿たちがこぞって自慢の息子や娘を連れて来るようになって」
私はごちそう目当てで来てるんだけど、と麗香は自嘲気味にくすくすと笑う。
「東金家のお坊ちゃんたちもいいターゲットにされてるっていうのに、千秋くんったら何考えて──
あ、そっか……かなでちゃんを見せびらかして牽制しようって腹か。
なるほどね」
自問自答して納得した麗香がかなでへと目を向け、げ、と顔を引きつらせた。
少しは浮上しただろうと思った彼女は、ますます暗い顔をして俯いている。
『自問』でズドンとどん底まで落ち込んで『自答』は耳に入らなかったのだろう、ということは今の彼女の様子を見れば容易に想像できた。
頭の中だけで自問自答すればよかった、と自責の念にかられた麗香は必死に話題転換を試みる。
「ねっ、かなでちゃんはヴァイオリンをやってるんだよね?
私はテニス一筋!
目指せグランドスラム!」
ぐっと拳を握れば、僅かに顔を上げたかなでの口元に薄い笑みが浮かんだ。
作戦成功!、とばかりに麗香はますます勢いづいた。
「と言ってもなかなか成績残せなかったんだよね。
いいとこまでは行くんだけどさ。
だから春からは体育大学で腕を磨くつもり。
かなでちゃんは?
ヴァイオリンでも大会みたいなものってあるんでしょ?」
「……夏に……コンクールがありました」
「わっ、そうなんだ!
ね、ね、成績は?」
「えと……室内楽部門で、優勝、しました」
見開いた目をぱちぱちと瞬いて、次に麗香は日焼けした顔に満面の笑みを浮かべた。
「き・き・た・いっ!」
「え」
ひくっと口元を引きつらせたかなでの両肩をがしっと思い切り掴んだ麗香は、
「聞かせて聞かせて、かなでちゃんのヴァイオリン!
あー、私ってばクラシックとかよくわかんないんだけど……でも優勝って、全国一ってことなんでしょ?
すごいじゃない!
ね、お願い、聞かせてよ!」
「え、で、でも、楽器持ってきてませんし……」
「あら、パーティ会場にあったじゃない」
「え……え !?」
「大丈夫、私が交渉してあげるから!
ほら、早く行こう!」
「ちょっ……れ、麗香さんっ !?」
強引過ぎる麗香に引きずられ、かなではせっかく抜け出してきたパーティ会場に連れ戻されることになってしまった。
「── 無理です、私、弾けませんっ」
「いいじゃない、ちょっと聞かせてくれるだけでいいんだってば」
カルテットが演奏を続けているステージの後ろで、こそこそと言い合う二人。
曲が終わり僅かな小休止に入った演奏者のひとりに、麗香がすかさず駆け寄り、話しかけた。
「すみません、それ、ちょっとお借りできません?」
「は……?」
尋ねられた演奏者はなんとも迷惑そうな顔で、麗香が指差している手元の楽器に視線を向けた。
「そうは言われてもねぇ……」
「い、いいんです!
大事な楽器を簡単に人に貸したくない気持ち、わかりますから!」
かなでは必死に麗香の手を引っ張り、その場を立ち去ろうとする。
と、壮年の1stヴァイオリニストの顔が迷惑そうな表情から興味深そうな表情へと変わった。
「おや……もしかして君はヴァイオリンをやってるのかい?」
「ふふん、かなでちゃんはコンクールで優勝した実力者なんだから!」
まるで自分のことを自慢するかのように、麗香が無駄に胸を張りつつ宣言する。
「れ、麗香さんっ !?」
「── あの……」
自分の愛器を貸してもいいものか、ヴァイオリニストが悩むことで生まれた沈黙を破ったのはホテルの従業員だった。
ウェイターたちと違ってきちんとジャケットを着用しているところを見ると、この会場の責任者なのかもしれない。
「よろしければ、私どもにお任せいただけませんか?」
そう言ってホテル従業員はにっこりと爽やかな営業スマイルを浮かべたのだった。
── 15分後。
かなでは後ろにカルテットを従え、ステージの中央に立っていた。
手にはヴァイオリン。
銘はよくわからないが、そこそこ年代物で手入れがよく行き届いていることは一目でわかる──
このホテルの支配人が趣味で所有しているものである。
さっきの従業員から連絡が行ったのだろう。
支配人はでっぷりした身体を揺らしながら嬉しそうにケースを抱えてきて、『お貸しするには条件があります』と一言。
条件をつけられてまで借りる気はさらさらないかなでが固辞しようとしたのだが、『条件は── 私にもぜひ演奏を聞かせてください』。
その上、『このヴァイオリンもヘタクソな私にキコキコ擦られるよりも、きちんと勉強されている方に弾いてもらったほうがよほど幸せでしょうから』
とウィンク付きで茶目っ気たっぷりに微笑まれてしまっては、断ることなどできなくなってしまった。
さらにカルテットからは『よかったら一緒に演奏しましょう』と誘われた。
楽器を貸さずに済んで、彼らも寛大になったのかもしれない。
提案された曲は以前コンクールで弾いた曲だった。
夏が終わって、自分の演奏に多少自信が持てたかなでは練習するのも楽しくて、いろんな曲を弾いてみた。
その曲の編曲前の原曲も練習したので、どのパートも一応弾くことができる──
のだが。
どんどん話が大きくなってきて、かなでは眩暈のする身体を必死に足を踏ん張って支えなければならなかった。
けれど──。
ステージに上がった以上、いつまでもぼんやりと立ち尽くしているわけにもいかない。
腹を括ったかなでは大きく深呼吸ひとつ、目を閉じてヴァイオリンを構えた。
【プチあとがき】
かなでさんが演奏することになりました。
3話で『弦楽四重奏生演奏』が出た時点で予測していた方もいらっしゃると思いますが(汗)
曲目は次回。
そして麗香さん、超ワガママお嬢様本領発揮(笑)
【2010/08/04 up】