■SEASONS【I.Autumn(8)】 東金

 神南高校文化祭から1週間後の週末の昼下がり、東金はある田舎町へと赴いていた。 小ぢんまりした駅の周辺は神戸や横浜と比較すれば見劣りしてしまうものの、それなりに活気のある町らしい。
 駅前で客待ちしていたタクシーに乗り込み、調べた住所を書きつけたメモを運転手に見せる。 少し不満そうな顔の運転手が車を走らせ、着きましたよ、とぶっきらぼうに告げられたのは運賃メーターが上がる前。 なるほど、こんなに近いなら運転手が不満に思うのも無理はない、と思いながら降り立ったのは、木の看板の掲げられた趣のある店の前だった。
 カランカラン、と軽やかなドアベルの鳴る扉を開けて中に入ると木材とニスの匂いに出迎えられ、奥の作業机で仕事をしていた老人が手を止めて振り返った。
「── いらっしゃい」
 柔和な顔に乗せた眼鏡の奥で、瞳に穏やかな笑みが浮かぶ。 製作中なのかメンテナンス中なのか、手にしていた弦の張られていないヴァイオリンをそっと机に置いて、入り口に立つ東金に近づいてきた。
「オーダーしたいんだが」
「完成まで3ヶ月ほどかかりますが、よろしいかな?」
「ああ」
「それでは、ご予算は?」
「そうだな……500万で頼む」
 告げた途端、老人が瞠目して瞬いた。
 確かに、彼からすれば孫ほどの年齢の若造が、ふらりと飛び込みでやってきて500万円の買い物をするというのだから、驚くのも仕方ないだろう。
 戸惑う老人に向けて、ニッと口の端を上げ、
「なんなら全額先払いでもいい」
「や、そこまでは」
 老人がバツが悪そうに顎を撫でたその時、どこからかバタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。 店の奥にある扉がガチャリと開き、可愛らしい少女が飛び出してきてドキリとする。
「── おじいちゃん、メンテ終わった〜?」
「悪いが今商談中だから、もう少し待ってくれるかい」
「あっ、ごめんなさい。 えと、いらっ──」
 営業スマイルなのか、満面の笑みで東金の方へ顔を向けた彼女がそのまま凍りついた。
「…………よう」
 片手を上げて軽くあいさつ。
 と。
「なっ──── まさか外堀を埋めにっ !?」
「んなわけあるか、アホっ!」
 ── すっかり定着したボケとツッコミが、かなでとの一週間ぶりの再会となった。

*  *  *  *  *

 横浜にいるはずのかなでと会うことになるとは思ってもいなかった。
 とはいえ、彼女がここにいても全くおかしなことはないのである。 ここは彼女の実家── 東金が訪れているのは『小日向ヴァイオリン工房』なのだから。
「── 『カンタレラ』はもう弾かないんですか?」
 ヴァイオリンをオーダーしに来た、とここにいる理由を極簡単に説明すると、彼女はきょとんとしてそう聞いて来た。
「あれはパフォーマンス向きではあるが、さすがに教えを乞うのにはな。 本格的に音楽を学ぶと決めたからには、それなりの準備が必要だろう?  まあ、アコースティックもあるにはあるが、親父の所有物だし」
「お父さんもヴァイオリン弾くんですか……?」
 初耳だ、とばかりにこくんと首を傾げる彼女。
「いや、俺がヴァイオリンを始めた頃、何を思ったかストラドを一挺手に入れてきてな。 この前、大学はそっち方面に行くからそいつを使わせろ、って言ったら『お前がプロになったら使わせてやる』だと。 ハッ、笑わせるぜ」
 すると彼女は眉間に皺を寄せ、何やら考え込んだ。
「……ストラド……?  ── も、もしかして、『ストラディバリ』 !?」
「ああ」
 ふらりと身体をよろめかせたかなでは、戸口の柱に抱きつくように顔を伏せて凭れかかった。
「うぅ……さすがお坊ちゃま……」
「おい……『お坊ちゃま』とか言うな」
「だって中野さんも言ってましたよ── 『千秋坊ちゃん』って」
「う」
 そう言えば、以前誕生日を祝いに来てくれた彼女を迎えに行かせた運転手はいつも自分のことをそう呼んでいるな、と改めて思い出す。 妙に気恥ずかしくて、思わず口の中で舌打ちした。
「── ところで今日は蓬生さんは?」
 辺りをきょろきょろと見回しつつ、訊いてくるかなで。
「…… お前、あいつと俺をセットで考えすぎだろ。 そういつも一緒にいるわけじゃないんだぜ?」
 そもそも東金がはるばるとかなでの実家のヴァイオリン工房へ行こうと思い付いたのは、今朝目覚めた時なのである。 この一週間ずっと彼女のことが気にかかっていて、寝ても覚めても頭の中は彼女のことばかり。
 そして今朝、あのまばゆい夏の思い出を夢に見た。 自分が贈った浴衣を着て、『おじいちゃんのヴァイオリン』を自慢げに話す彼女の笑顔を。
 目覚めた彼はさっそく行動に移し、現在ここにいる。
「そっかぁ……5兄弟のヴァイオリン・クインテットができると思ったのに……」
 心底残念そうにしょんぼりする彼女の頭をぐしぐしと掻き回す。
「お前……結構商魂たくましいな」
「へっ…?  あっ、いや、そういうつもりはっ」
「いいさ。 蓬生には後で電話して聞いてやる」
 くつくつと笑いながら言うと、かなでの顔に嬉しそうなほわんとした笑みが浮かぶ。
 不意に背後から溜息が聞こえて振り返ってみると、いろいろと衝撃を受けたらしいかなでの祖父が、複雑そうに顔を強張らせていた。

*  *  *  *  *

 上がってください、とかなでに連れられ通された小日向家のリビングで彼女の両親に紹介され、簡単な挨拶を済ませた後──
「せっかくだから晩ご飯食べて── あ、そしたら帰る時間が……」
「そうね、だったら今夜はうちに泊まってもらえば?  どうせ明日は学校もお休みでしょう?」
 かなでの逡巡をあっさり解決したのは彼女の母。 さすが親子、よく似た面差しでにっこり満面の笑みを向けられては断る気も起きなかった。

 そして時間がたっぷりできた東金は、かなでと一緒に出かけることになった。
 行き先は歩いて10分ほどの彼女の従姉妹の家。
 今回の彼女の帰省は翌日に行われる親戚の結婚式に出席するためで、披露宴で一曲弾いてほしいと依頼されていたらしい。
「……そういうことは早く言えよ」
「ご、ごめんなさいっ。 いろいろ忙しくて、すっかり忘れてて……」
 赤くした顔を俯けて、もごもごと語尾を濁らす彼女。 曰く、先日の『結婚式もどき』で思い出したのはいいが、その騒ぎのせいで話す機会を失い、その後電話がかけづらくて話せないまま今日に至ったのだという。
 もし彼女が今日帰省していることを知っていたら、自分はここにいただろうか?
 今はただの客以上になるつもりはなかったから、日にちをずらしたか、あるいは電話注文で済ませていたかもしれない。 それどころかヴァイオリンを注文しようという考えすら浮かばなかっただろう。
 初対面の相手に物怖じするような人間ではない、と自分を評価していた東金だが、思いがけず対面してしまった彼女の家族を相手にするとむずむずするような緊張を覚え、 それが自分自身のことながらやけに可笑しかった。
 デュオを組んで演奏するピアノ弾きの従姉妹とは、前もって曲を決めてそれぞれ練習していたらしい。 今日の数時間で互いの解釈を擦り合わせ、明日人前で披露できる演奏へ仕上げていく。 その過程に東金は少しのアドバイスを与えてやりながら付き合った。

*  *  *  *  *

 夕暮れ時になって再び小日向家に戻り、夕飯の支度のためにかなでは彼女の母と一緒に台所へと入っていく。
 リビングには彼女の父とふたりきり。 テレビはついているが、どうにも間が持ちそうにない。
 電話をかけてきます、と告げて外に出ることにした。 普段から好き勝手な行動をしているが、今日は帰らないことくらい家に知らせておいたほうがいいだろう。
 玄関先でかけ終えた携帯をポケットに捻じ込み、辺りを見回した。 心地よく手入れされた庭は、なるほど彼女が育った家にふさわしい。
 なんとなく足が向いて裏手へ回ると、話し声が聞こえてきた。
「── かなでが『カレシ』を連れてくる日がとうとう来たのね〜」
「つ、連れてきたわけじゃ……」
 見れば格子のついた横長の窓が少し開いていた。 どうやら台所の窓らしい。
 このままここにいるのも盗み聞きするようで気分が悪い。 立ち去ろうとした時、
「で、あの人が手紙の人だったの?」
 『手紙』……?  思わず足が止まった。
「ううん、違う。 東金さんはさらさら〜って軽く書いてた。 どっちも整った綺麗な字なんだけど、あの手紙の字はもっと筆圧が強かったよ」
「そう……けど、一体誰だったのかしらね?」
「わかんない……でもあの手紙があったから星奏学院に転校する気になったし、転校したからヴァイオリンを弾く自信を取り戻せたんだよね」
「あら、そこは『転校したから彼に出会えた』じゃなくていいの?」
「もうっ、お母さんっ!」
 母と娘のじゃれ合うような会話は微笑ましいのだが、東金の眉間には深い皺が寄っていた。 彼女とはこれまでいろんな話をしてきたが、『手紙』の話は聞いたことがない。
「── 自信を取り戻せたのは東金さんのおかげだから、お母さんの言う通りかな。 手紙の人も、東金さんも、私の恩人だね」
 聞こえて来た彼女の明るい声で、訝しく思っていた気持ちはどこかに吹き飛んでしまっていた。

*  *  *  *  *

 翌日、東金は結婚式場に向かうフォーマル姿の小日向一家の車で駅まで送ってもらった。
「また遊びにいらっしゃいね」
「次に来る時は、きちんとしたご挨拶をしに伺います」
 すっかり打ち解けた彼女の母の誘いに、笑顔でそう返事をして。 父と祖父は困ったような苦笑を浮かべていたが、口先だけの言葉で終わらせるつもりは毛頭ない。
「あーっ、やっぱり外堀埋めに来たんですねっ !?」
「結果的にな」
 身に纏う桜色のドレスと同じ色が頬に浮かぶ彼女にニヤリと笑い、彼女の家族にお世話になりましたと頭を下げて駅構内に入る。
 偶然が重なった結果生まれた一泊旅行は、彼女とのキスはおろか二人きりになることもなく過ぎて行ったけれど、ほんの少しスリリングでとても穏やかな時間だった。 あの仲の良い家族の光景を自分の未来に重ねてみて、そういうのも悪くないな、と考えながら、神戸方面へ向かう電車に乗り込んだ。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 お宅訪問編(笑)
 東金さんならこれくらいの行動力はあるはずだ、と信じている。
 夜にみんなでどんな話をしたのか知らないけど、
 きっとかなで父とじーちゃんは複雑だろうな(笑)
 母はたぶんかなでからいろいろ話を聞いてて、応援してくれてるんだと思う。
 そんなある日の思いがけない邂逅。

【2010/06/27 up】